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「…ごめん」

 小さく呟いた言葉に穂花は目を丸くした。

「昨日…怒鳴ったりしてごめん」

 穂花の目にじんわりと膜が貼る。

「奈央が謝ること無い。私が…勝手なことしたのがいけないんだし」

 目を伏せて小さく笑う。

「もう大丈夫。ちゃんと分かったから。だから…」

 涙を堪えながら、必死に言葉を紡ぐ穂花の肩は震えていて思わず抱き寄せる。

「奈…」

「違う。お前は何も悪くない。悪いのは俺なんだ」

 今、穂花がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、更に強く腕の中に閉じ込める。

「俺が、逃げてばかりいるから…」

「…奈央っ」

 穂花の手が苦しそうに胸を叩くのに気付き、慌てて腕の力を緩めた。ぷはっと息を吸いながら、涙目で穂花は俺を見つめる。

「大丈夫。そんなに謝らなくても分かってる」

 今までと何も変わらない笑顔が、ひどく遠く感じて、

「私は、奈央の傍にいるから」

 その言葉の中に『睡眠薬として』という意味が含まれているのが伝わる。その時、ようやく俺は取り返しのつかない事をしたのだと知った。

「穂花」

「もう寝よう。時間、あまり無いんでしょ?」

 誤解を解こうと口を開くも言葉が見つからなかった。

 今頃、気付いても遅い。

 穂花が傍にいてくれるのは、『ニーナの奈央』に対しての憧れの延長と思っていた。まさか穂花が俺のことを。奈央ではなく――仁志にし 奈央なおとして想ってくれていたなんて。

 些細なことで義人に嫉妬して穂花に自分勝手な八つ当りをした。昨日の行動を今更ながら後悔しても、もう遅い。俺の胸に体を預け目をつぶる穂花を、どうすることも出来ずただ見つめていた。


 結局、眠れないまま時間は過ぎ、互いの部屋を遮る扉の前で穂花に見送られる。

「必要になったら電話してね」

 俺の好きな時に呼ばれ、他の何よりも優先させて、今までどんな思いをさせてきたんだろう。

「…いってくる」

「うん。いってらっしゃい」

 言いたいことは何一つ言えず、閉じた扉にそっと手を添えた。扉一枚隔てた先に穂花はいるのに、今の俺には自分から開けることもままならない。

「…義人に怒られるかな。また逃げるのかって」

 扉の縁をそっと撫でながら問いかける。指先が辿るその文字に、まゆの困った笑顔が重なった。

 

 NAO MAYU


 小学生の頃、彫刻刀で机に落書きを彫って教師に大目玉を喰らったことがある。そんな子供じみた小さな跡に気付いたのは、まゆが部屋を出て行った後だった。

 別れの言葉一つ無く、黙って出ていったまゆが俺に残していったのは、あの赤いマグカップと二人の家を繋ぐ扉に刻まれたこの小さな痕だけだった。

 最初はふざけるなと思った。消そうにもどうしたらいいのか分からず、無視しようにも気付いてしまったモノを無かったことにも出来ず。まゆへの苛立ちと扉を変える面倒臭さを天秤にかけ結局後者が勝った。


 …いつだったか一度だけ、この扉の前で『睡眠薬』を抱いたことがある。多少の優越感を得られたものの、その何倍もの空しさに襲われた。それ以来、自宅に薬を呼ぶのは止めてホテルを利用するようになった。

 まだ、何も知らなかった頃だ。まゆが何故、何も言わずに出て行ったのかも。まゆの気持ちも。

 ふと思い立ち、今やらなければいけないと思った俺は黒いマジックペンを手に戻ると再び扉に向かい合った。

 永く刻まれたまま、どうすることも出来ずにいたそれ。一気に塗り潰すと小さな文字はあっと言う間に黒に覆われた。水性だけどしばらくしたら乾くだろう。多少不格好だが間近で見なければ問題無い。

 削り取る、という選択肢は結局最後まで選べなかった。

「…ごめんな、まゆ」

 塗り潰された箇所をポンと叩いたら、乾ききらなかったインクが指先についてしまった。

 それはまるで、まゆが『仕方無いわね』と笑っているようにも見えた。



 ◇◇◇


「要するに、すっごく好きなんだけど仕事以上の関係になれない人と、友達としてしか見ていないけど自分を大切にしてくれる人。二人の間で迷ってるわけだ」

「…はい」

 敏腕刑事を前に罪の告白をするかの如く頭を垂れる私に、美樹は呆れたようにため息をついた。

「なーんだ。穂花があんまりにも渋るから、もっととんでもない話かと期待してたのに。不倫とか略奪とか不倫とか」

「面白がってるでしょ」

「ううん、心配してるの」

 それが心配してる顔なものか。

 奈央を見送った後、美樹からランチのお誘いメールが届いた。気分転換に、といつものカフェで待ち合わせたものの、会って開口一番美樹は「で、誰?」と意味深な笑顔を向けた。どうやら、昨日義人の家に向かっている所を目撃したらしい。

 人違いで押し通そうとしたものの口達者な美樹に敵うわけもなく、仕方なく私は事のあらましを話すハメになったのだ。

 バイクに乗ってたのによく分かったねと聞いたら、「なんとなく穂花っぽいなーと思って」とケロっとした顔で言われた。

 この手の話題で美樹に勝てるはずが無いのは、これまでの付き合いから分かってる。ニーナに関わってることだけは、なにがなんでも黙秘しないと。

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