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「よし、負けてないな」
「えっ、ちょっ…どういうこと?」
戸惑う私に義人は、
「お前、振り払わなかったから。それって、俺のことまったく無理ってわけじゃないってことだろ?」
「……」
「てっきり殴られるか泣かれるかのどっちか覚悟してたから、逆に焦った。このままいいのか…っていうのは冗談で」
睨む私に気付いて、苦笑交じりに息を吐く。
「でもまぁ、いくら嫌われてないとはいえ、自分に気持ち無いの分かって抱いても意味無いから。やっぱ、ちゃんと俺のこと見て欲しいし。好きになって欲しいし。ってなに言わすんだお前は」
「痛っ」
むにっと額をつままれ睨んでみても、義人は嬉しそうに笑うだけだった。
「そんなんしても迫力無いから。むしろ可愛いんですけど?」
「…っ」
「あ、赤くなった」
「うるさいっ」
気付けばさっきまでの緊張した空気なんてどこかに消え去っていて。それと同時に、昨日から胸の中でずっと渦巻いていた悲しみも和らいでいた。それはきっと、
「…ありがと」
「ん? 何か言った?」
まだ口元に笑いを残したまま義人が尋ねる。
「何でもない。ねえ、いい加減笑うの止めてよ」
「笑ってないって。そういや食いもん、なんかあったかなぁ」
そう言って冷蔵庫を開ける背中に思わず目を惹かれる。押し倒された時、背中に手を添えていたのは無意識だった。
きっと義人は分かっている。これが寂しさからくる甘えだって。けれどもし、義人が冗談で流してくれなかったら。私は…どうしていたんだろう。
「なんも無いなー。外食い行くか。と、その前にコーヒーだな」
「うん。あ、私やるよ。カップこれでいい?」
多分、このまま義人の手を取れば幸せな恋が出来るだろう。もしかしたらそれは、今の私が望むもの以上に、私を満たしてくれるのかもしれない。
その時、私の考えを遮るかのようにスマホが鳴る。
計ったようなタイミングは、まるで別の道に進みかけた私の心を引き留めるかのようだった。言わなくても相手が分かったのだろう、義人は苦笑を浮かべ扉の向こうへ消えていく。
「…もしもし」
『あ…、これから帰る』
「分かった。着いたらまた連絡して」
伏せた視界の端で、バイクのキーを手に玄関へ向かう義人の姿が見えた。
電話を切ってすぐ、義人はマンションまで送ってくれた。
行きと同じように赤信号で停まる度に、「平気?」と振り返ってくれたけれど、今度はその優しさがかえって切なかった。
義人の気持ちを知りつつ甘えてしまう私と、自分の都合に合わせて私を必要とする奈央。
どちらも似たもの同士だ。それが分かっていながら、奈央と義人そのどちらの手も振り払うことが出来ない。矛盾する心。私は…いったい何がしたいんだろう。
「何かあったら」
「『ちゃんと言うこと』。大丈夫。送ってくれてありがとう」
遠ざかるバイクを見送った後、重い心でマンションを見上げる。西岡さんに呼ばれてここに来た時も、こんな気持ちでマンションを見上げていた。もうずいぶん前のことに感じる。
「…もしかして」
スマホを取り出し日付を確認する。思った通り今日で契約を交わして三ヵ月目だった。三ヵ月前の今日、私は奈央の『睡眠薬』になった。…奈央は覚えてないだろうな、きっと。
玄関にあがると同時に奈央からメールが届く。あと十五分程で着くようだ。
いったいどんな顔して会えばいいんだろう。電話の声はいつもと変わらなく聞こえた。でももし、またあんな目で見られたら。
込み上げる不安から目を逸らすように、私は足早にバスルームへと向かった。
◇◇◇
「穂花?」
何度ノックしても反応が無い扉を開けると、奥の部屋からドライヤーの音が聞こえてきた。
音のする方へと足を向けると、少し開いた寝室のドアから鏡を前に髪を乾かす穂花を見つけた。洗いざらしの髪がなびくのを鏡越しに見ていると、
「…っ、奈央?!」
鏡に映った姿に気付いた穂花が驚いて振り返る。ドライヤーの音が止むと辺りは急に静まりかえった。
「ごめん、気付かなくて。いつからいたの?」
「今さっき。ノックしても返事無かったから」
「あ…ごめん。聞こえなかった」
と、手元のドライヤーを見る。
「いいよ。終わった? 時間あまり無くて」
「…うん」
俯く表情は暗く沈んでいた。無理も無い、あれだけ当たり散らされて傷つかないわけがない。
俺の寝室に移動し、いつものように穂花を腕に抱く。けれど、その日ばかりは違っていた。
昨日の一件で自分の気持ちを自覚した今、腕の中にいるのは睡眠薬ではなく自分が好きな女。意識してしまったが最後、何故今まで平然と寝ていられたのかが不思議でならない。
二日ぶりに抱き締めた穂花の体は、シャワーを浴びた後のせいか肌が水気を帯びしっとりとしていた。ふわりと漂うシャンプーの香り。今にも理性が飛びそうになる。
「…奈央?」
抱く力が増したのを不思議に思ったのか穂花が俺を見上げた。
「眠れないの?」
そう言って、俺の髪に手を伸ばす。指先が優しく髪を撫でる感触に、初めて出会った日の夜を思い出していた。
…もう一度誰かを好きになるなんて、あの時の自分は考えもしなかった。
大切にしたい。守りたい。あの夜の出会いが、そんな風に思える自分を呼び戻してくれるだなんて。
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