2
◇◇◇
「奈央、ちょっといいか?」
スタジオに戻ってすぐ、義人は俺を屋上に呼び出した。
「穂花、今晩泊めるから」
さっきまで悠介がいたのと同じ場所に立ち義人は言った。日も沈み、辺りは夕闇に包まれ始め、義人の吐き出す煙が静かに漂う。
「分かってるだろうけど、一応言っておくな」
まだ長く残る煙草を灰皿でもみ消し、真っすぐに俺を見つめる。
「俺、穂花のことが好きだから」
嘘偽りの無い真摯な目を見れなくて、思わず視線を逸らした俺に義人は苦笑した。
「なんか言いたいことあるんじゃないの?」
「なにかって…。別に」
煙草を忘れたのを悔やんでいたら横から無言で差し出された。同じく無言で取り、苦い煙を胸いっぱいに流し込んでいると、
「穂花ってさ、なんかいいよな」
「…は?」
突然、何の前触れも無く、義人は穂花の話を始めた。
「髪とかめっちゃ手触りいいし、なんか分かんないけどいい匂いするし。声とか、ちょっとそそられるし」
「…ノロケ聞かせる為に呼んだの?」
呆れる俺を余所に義人は続ける。
「でも、あれだよな。細いかと思ったら、意外と着痩せするタイプで脱がせると結構――」
「お前まさか穂花とヤッ…」
「痛って! てかお前、火、煙草!」
気付いたら煙草を持っているのも忘れ、義人の肩に掴みかかっていた。
「安心しろよ、最後のはジョーダン」
痛みに顔を歪ませながらも、視線は俺から外さずに言った。取り乱した気まずさと苛立たしさから振り払うように手を離す。
「そんだけ態度に出てて、どうして分かんねーかな。…って、違うか。認めたくないだけだよな」
逃げるように背を向けた俺に、よく通る声が追い打ちをかける。
「いつまで死んだ人間引きずってんだよ」
ドクン、と心臓が脈を打つ。それは俺が生きているという何よりの証。
「もう二年だ。そろそろいいだろ? いい加減まゆちゃん解放してやらないと、お前いつまで経っても前見れないぞ」
人は、二度死ぬ。
「…約束したんだ」
一度目は肉体としての死。
「俺が忘れたら…あいつは本当にいなくなる」
二度目は――忘却という名の死。
死んだ人間は残された者の記憶の中でしか生きられない。人の記憶なんて曖昧だ。悲しかったことも楽しかったことも、時が経つにつれて色褪せていく。
だから人は
「約束って…まゆちゃんがそんなこと望んでるわけ…」
「あいつが望んでんだよ!」
今まで、何一つわがままを言ったり欲しがったりもしなかったまゆの、最初で最期の願い。
―――忘れないで。
書き記されたその小さな文字は、滲んだまま色褪せていた。零れ落ちた涙が、懐かしい文字を新たに滲ませていく。
「…俺はあいつの気持ちなんて、なんにも知らないで好き勝手やって…」
なぁ、何で話してくれなかった? どうして一人で逝った? 問いかけても君は答えてくれない。
「俺がどんなわがまま言っても、笑って許してくれたあいつが最期に望んだことなんだよ。…叶えてやらなくてどうすんだよ…っ」
誓う。もう二度と誰かに心を預けはしない。君だけを永遠に想う、と。
「叶えて…やりたいのに…」
――穂花に出会って。
穂花の温もりを腕にして。心の奥の一番深い闇が、だんだんと薄らいでいくのを感じた。
いつからだろう。穂花が傍にいることが当たり前になって。どんなに仕事で疲れていても、穂花が笑ってくれるだけで心が軽くなっていった。
「結局…逃げてるだけなんだよ、俺。なのに自分勝手に当り散らして…。穂花は…何も悪くないのに」
怖かった。まゆを忘れそうになることが。いつかまた、失うかもしれないことが。
本当は、何よりも大切にしたいのに――。
「お前は頭で考え過ぎなんだよ」
今まで黙って聞いていた義人は俺の隣に腰を下ろすと、いつもの笑顔を向けた。
「恋愛ってもっとこう…ウワーッてなるもんじゃん。頭ん中でいっくら考えたってなるようにしかなんないし。気付いたら始まってるもんだし」
「…何それ」
義人らしい大雑把な言い方に思わず気が緩む。
「俺さ、穂花の笑ってる顔がめっちゃ好きで」
よっこらしょ、と立ち上がると義人は続ける。
「だから穂花が笑ってくれてればいいんだよ。その隣にいるのが人の告白を聞こえないフリする、性もないヤツだとしても」
そう、真っすぐに俺を見た。
「…ヨッシー気付いて…」
「ホントどうしてやろうかと思ったわ。まぁ、俺もコレで嘘ついたからあいこな」
と、自分のネックレスを摘んで見せる。
「で?」
唐突に矛先を振られ、呆けていると、
「だから。俺に何か言うことあるんじゃないの?」
「……」
「ん?」
「…俺」
今なら言えるだろうか。悠介の前じゃ口に出来なかったけれど、今ならば。
「――穂花のことが好きだ」
そう言った瞬間、義人が見せた笑顔は何だか泣き笑いみたいに歪んでいて。まゆが…死んで。壊れていく俺をきっと誰よりも傍で見ていたからこそ、感じる何かがあったのかもしれない。
「言っとくけど、俺は別に諦めたわけじゃないからな。てか、今俺の部屋にいるし」
「そんなん言ったら俺隣だし。いつでも部屋行けるし」
まるでガキのような会話にお互い吹き出す。
「俺らも変わらねーな」
「そんなもんだろ。ヨッシー、煙草ちょうだい」
辺りはすっかり夜に包まれていた。
街の灯りを見つめながら男二人でなに青春ドラマしてんのかとも思ったけれど、そんなアホらしいことが出来てしまうのも一番付き合いの長い義人だからこそなのかもしれない。
「先手必勝」
煙草を消すと義人は言った。それが何を指すのかは聞くまでも無かった。
「骨は拾ってやるから」
「おお、じゃあ安心して…って砕けるの前提かい!」
手摺りをペシリと叩きながらベタなツッ込みを返すと、
「どっち選んでも恨みっこ無しな」
そう言って、残りの煙草とライターを俺の横に置いた。
「いいの?」
「ライターは後で返せよ。それ高いんだから」
と、念を押してからその場を後にした。
誰もいなくなった屋上で空を見上げる。さっきは見えなかった星が夜空に瞬いていた。それは色とりどりの街頭に負けてしまいそうな程、小さく弱い光。
けれど、間違いなくそこに存在している。
――まゆ。
ごめんな、約束守れなくて。お前がたった一度だけ俺に見せた願いなのに。
でもな、きっとこれから先も、あの頃の俺達が俺の記憶から消えることは無いと思うんだ。
お前は許してくれるか? 俺が先に進むことを。
『睡眠薬』が必要なんじゃない。穂花が必要なんだ。
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