矛盾する心。

1


 動き始めた歯車と、動きを止めていく歯車。

 今思えば私達の心はいつも、あと一歩というところですれ違っていたような気がする。



 ◇◇◇


 部屋から奈央が出て行った後、しばらくして義人がやって来た。

「穂花?」

 立ちつくしたままピクリとも動けずにいると、不意に温かな何かがふわりと頭に触れる。義人の手だった。

「言っただろ。泣く時はちゃんと声に出して泣けって」

 その瞬間、ポロポロと零れ落ちる涙。義人は何も言わず、ただ傍にいてくれた。ひとしきり泣いた後、私が落ち着くのを見計らって義人は、

「どうする? 帰るなら送るけど」

「……」

 …帰りたくない。あの部屋に帰ったら嫌でも顔を合わせてしまう。俯く私に義人は小さく苦笑する。

「ちょっと待ってて」

 そう言って部屋を出て行った――かと思いきや、数分もしないで戻って来ると、

「よし行くか」

「えっ、どこに?」

 戸惑う私の手を引き外へと連れ出した。


「はい。これ被って」

 渡されたのはバイクのメット。

「これ…?」

「スタッフの。今だけ貸してもらった。バイク乗ったことある?」

 勢いよく首を横に振った私に、義人は先にバイクにまたがると自分の後ろをポンポンと叩く。初めて乗ったバイクは、思った以上にバランスが取りづらかった。器用に上半身だけ振り返ると私のメットの紐を調整し、きちんと被れているかを確認する。

「俺の腰に手まわして」

 言われた通り怖ず怖ずと緩く腰に手をまわすと、

「そんなんじゃ落ちる」

 私の両手を引き寄せ、更に強く自分へと抱きつかせた。

「平気?」

 赤信号で停まる度に、後ろを振り返り聞いてくれる。その声に頷いて答えると義人は笑ってまた前を見た。

 …たぶん、一人で乗っている時よりもだいぶスピードを落としてくれている。初めは、風が体を擦り抜けていく感覚が怖かったけれど少しずつ慣れてきた。


 ――…もういいや。好きにして。


 流れる景色と重なるように、頭を過る奈央の冷めた目。

 振り払おうと腰を抱く腕に力を込める。すると、そんな私の気持ちを察してかバイクは加速した。

 そっと伏せた瞳の奥で、次々と浮かび上がる疑問。どうして。何故。何に対する問いなのかも分からぬまま、それは堂々巡りを繰り返している。

 あぁ、そうか…。でも、一つだけ。

 ただ一つ確実なのは、奈央にとって私はあくまでも『睡眠薬』でしか無い――それだけだ。



 バイクはいつの間にか大きなマンションの前に停まっていた。

「ここって…」

「最初に言っとくけど好みのうるさいヤツいるから。気に入られなかったらご愁傷さま」

「それってどういう…」

 ドアを開ける直前に言われ戸惑う私を余所に、義人は鼻歌なんて歌っている。

「ただいまー」

「お、お邪魔します…」

 義人は足早にリビングの一角に向かうと、

「さーて、反応はどうかなぁ」

 腕に抱えられた『それ』は普段と違う気配を感じたのか、長いしっぽをピンと伸ばし愛らしい目を私に向けた。

「…さくら?」

 それは義人の飼っている雌猫のさくらだった。さくらもペコ同様ファンの中では有名だ。名を呼ばれたさくらの耳がピクリと反応する。

「まあまあ合格ってとこかな」

「もしかして、好みがうるさい奴ってさくらの事?」

「そ。こいつ気に入らない奴だと、呼んでも何しても反応しないから。悠介とかめっちゃ冷たくあしらわれてるし」

 そう言って、さくらを床に戻す。そんな飼い主の気苦労を知ってか知らずか、さくらは呑気に伸びをしている。


「行ってくるからなー。いい子にしてるんだぞー」

「どこ行くの?」

 さくらに満面の笑みを向けた後、玄関に行ってしまう義人の後を追いながら尋ねると、

「スタジオ戻るわ。何かあったら電話して」

「でも、手…」

 あぁ。と、まるで怪我していたのを今思い出したかのような返事をする。

「弾けなくてもやんなきゃいけないことあるし」

「……ごめん。謝って済むことじゃないけど」

 うなだれた頭に温かい手が触れる。

「俺がしたくてやったことだから。お前は何も気にすんな」

「でも…っ」

 なおも続ける私の髪を、義人の手がワシャワシャと撫でる。

「ちょっと!」

「へこむより怒ってた方がマシ。じゃあ行くな。部屋好きに使っていいから」

 怒った私に向ける笑顔は、さっきさくらへ向けていたもの以上に嬉しそうで。義人のそういう優しさが、今は下手に同情されるより救われた。

「…いいご主人様を持ったね」

 リビングに戻り、さくらの前にしゃがむ。今頃気付いたの? とでも言うようにさくらは私を一瞥した。何もかもを見通してしまいそうな大きなその瞳に、虚ろな表情をしていた奈央が重なる。

 そっと、唇に触れる。抱き寄せる荒々しさとは正反対に奈央の唇は小さく震えていて、縋るように押しあてられた感触が今も残っていた。

「奈央…」

 もう、私は必要じゃ無いの――…?

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