6
◇◇◇
「…なんなの? さっきから。ごちゃごちゃうっさいんだけど」
静かにそう言い放つ奈央は、今まで見たことがない目をしていた。——恐い。奈央のことを初めてそう思った。
「自分の立場忘れたの? 呼んでも無いのに勝手に来たりしてさ」
「…ご、めんなさ…」
体が震えだし、込み上げる涙で上手く声も出ない。スタジオに入った時から様子がおかしいとは思っていたけれど、あれは…私に対するものだったんだ。
「お前は俺の『睡眠薬』だ。忘れんな」
その時、どうして笑えたのか自分でも分からない。
ただ、僅かな希望を元に心の中で動いていた何かが、音もたてずにゆっくりとその回転を緩めていくのを感じていた。
「義人もありえないだろ。楽器扱う人間が指怪我するとか…」
「義人は悪くないっ」
思わず叫んだ。
「怪我したのは義人のせいじゃない。あれは…」
言いかけて口を噤む。話して義人にプラスになることなんて一つも無い。むしろマイナスだ。
「あれは…なに?」
ベットに腰を下ろし、奈央は冷静に繰り返す。
「……あたしが悪いの。義人は悪くない。だから」
「…義人義人ってさっきからずいぶん…」
立ち上がり私に歩み寄る。その目に満ちた苛立ち。けれど、どこか悲しげにも見えて。私は恐る恐る手を伸ばした。
「触んな」
「……っ」
ピシャリと言い捨てられ、堪えきれなくなった涙が頬を伝う。
どうしたら許してもらえるんだろう。混乱する頭を必死に回転させるも、何も浮かばなかった。
「……好きなの? あいつのこと」
「え…?」
突然の質問に言葉を無くす。
「そっか…。そうだよな」
黙っているのを肯定と受けとめたのか奈央は一人頷くと、
「いいんじゃないの? お似合じゃん。なんだったら二人の為に、バラードの一曲二曲歌ってやろうか?」
早口に捲くしたて片笑いした。
「奈央? どうしたの? なんでそんな話に…」
「…なんでって……。聞きたいのはこっちの方だろ」
苛立たしげに髪をかきあげる手の動きがピタリと止まり、私の方へと伸びてきた。咄嗟に目を閉じ身を縮めていると、後頭部に手を回されて力任せに引き寄せられるのが分かった。
「奈…」
予想外な展開に閉じていた瞼を開ける。目の前に奈央の唇が見えた。次の瞬間、
「……っ」
――触れ合う唇。引き寄せた荒々しさとは対照的な、まるで壊れ物を扱うような優しいキス。
心臓が壊れそうなくらいドキドキしていて、手を添えられた頭と腰が熱を帯びたように熱かった。触れ合っていたのは数秒のこと、けれどとても長く感じて。ようやく唇を離された時、それまで詰めていた息が互いの唇から零れた。
「奈央……?」
虚ろな視界の先に戸惑いを隠せないでいる奈央が見えた。その目は、ここではないどこか遠い場所を彷徨っているようで。
近いのに、奈央が遠い。
「…もういいや。好きにして」
ゆっくりとその手が離れていって、奈央は一度も振り返らず部屋を後にした。
静かに閉まるドアを背に頭の中は真っ白で、今までの出来事を理解するのに精一杯な私はただ呆然と立ちつくしていた。
躊躇いがちに触れたあの瞬間、奈央の唇は微かに震えていた。
◇◇◇
まだ明るい空とビルの隙間に、青白い月がぼんやりと浮かんでいた。
「なーお」
背後から呼ぶ声に首から上だけ振り返る。さっきまでの喧騒など見ていなかったかのように、呑気な笑顔の悠介が立っていた。
「あ、火ぃ忘れた」
俺の隣に来るなり服の上からポケットを叩くのを見て無言で火を差し出すと、
「サンキュ」
ニッコリ笑って礼を言い、何を話すでもなく黙って煙を漂わせる。
「…なんも聞かないのな」
沈黙を破ったのは俺だった。
「んー? 奈央が話したいって言うんなら聞くけど」
その、いつもと変わらないマイペースな返事に思わず吹き出した。
「…分かんないんだよ、自分でも」
見上げた青白い月に穂花の顔が重なる。
「穂花が誰に惚れようが誰と居ようが、そんなの穂花の自由だって分かってる。分かってるんだけど…」
楽しげに義人と笑い合う姿を見てるとイライラして仕方がない。そう言うと、それまで黙って聞いていた悠介は煙草をくわえたまま小さく笑った。
「なに笑ってんだよ」
「いやぁ。甘酸っぱいなぁと思って」
「なんだよ、それ」
「要するに、奈央は穂花ちゃんが自分以外の男と仲良くしてるのが嫌なんでしょ?」
少し考えてコクリと頷く。
「そんでもって、義人と話してるの見て余計にイラついてるんでしょ?」
もう一度頷く。
「それ、なんて言うか知ってる?」
「え?」
俺を見上げる悠介の目は、何故か優しく微笑んでいた。
「嫉妬、って言うんだよ。忘れた?」
…嫉妬? 俺が、義人に?
「自分よりも穂花ちゃんと仲良くしてる義人に嫉妬したんでしょ? 穂花ちゃんに冷たく当たったのも、独り占めしたいからじゃないの? それって」
「悠介ストップ!」
淡々と解説を続ける悠介を手のひらで制する。
「それってつまり…」
言いかけたまま続きを口に出来ない俺に、悠介はふんわりと笑う。
「うん。つまり?」
言うべき言葉は胸の内にあるのに躊躇ってしまうのは――怖いから。
口にしたが最後、気持ちが動き出すのを止められないだろうと思った。もう二度と、誰にも心を預けはしないと誓ったのに。
「奈央」
そんな俺の気持ちを見抜いてか悠介は言った。
「ずっと変わらないものなんて無いよ。奈央の今の気持ちは裏切りでも何でも無い。むしろ良いことだと俺は思う」
許されるんだろうか。こんな俺が再び誰かを想うことを。
あいつは…。まゆは許してくれるんだろうか。
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