5


(…なんで嘘つくんだ?)


 落ち着いていたはずの苛立ちがふつふつと込み上げてくる。

 頭の芯は煮えたぎるように熱いのに心はひどく冷静だった。そんな俺に気付きもせず、穂花は無邪気に他のメンバーと笑い合っている。その笑顔は胸の奥を更に騒がせて、穂花が他の奴らと楽しそうにしているのがムカついて仕方なかった。

「奈央」

 駆け寄ってきた穂花はシュークリームの乗った皿を手にしていた。

「差し入れ買ってきたの。前にこれ食べたいって言ってたでしょ?」

 そう言ってメンバーに向けていたのと同じ笑顔を俺に向ける。

「穂花ちゃん、これ超美味い!」

 と喜ぶチカにも、

「本当ですか? 良かったぁ」

 嬉しそうにはにかんでみせる。

「いらない」

 ぷいっと顔を背け、読みかけていたマンガに目を落とす。

「あ…、甘く無い物の方が良かったかな」

 目に見えてしょんぼりする穂花に義人が、

「気にしないでいいよ。奈央の分までチカが食うから」

「え、奈央食べないの? ラッキー」

 そんな二人の会話に楽しげに笑うと、マンガを読むフリを続ける俺に、

「ここに置いておくから。良かったら食べてね」

 そう言い残しメンバーのいるテーブルへと戻って行った。


 一人離れてソファーに座る俺の耳に、はしゃぐ穂花の声だけがやけに響いて聞こえる。イライラする気持ちをどうにか落ち着けようと、さっき穂花が置いていったシュークリームに手を伸ばしす。

「あ、ほら。食ってる」

 目敏く気付いた義人が穂花に振る。

「どう? 美味しいかな?」

「…まぁ、美味いんじゃない?」

「良かった」

 その時――ぱぁっと穂花の顔に笑顔が広がるのを見て、胸の中で何かが動きだしたような気がした。永らく錆付いていたそれは音を軋ませながら、少しずつ。けれど確実に。

「穂」

「あ、穂花。それ取って」

 邪険にしたことを謝ろうと立ち上がりかけた俺を、義人の声が止める。

「これ? はい」

「や、届かないから」

「もー。智さん、これ義人に…ありがとうございます」

 そして穂花もまた、義人の名を呼んだ。

 いつからそんな風に呼び合うようになったんだろう。話し方だって、そんなにくだけて無かった。

 右手の傷。バスルームのネックレス。近付いた呼び名。

 穂花と義人は変わらず楽しげに笑い合っている。その目に俺の姿なんてまったく映っていなかった。

 ――…イライラする。


 乱暴に置いた食器の音は思いのほか高く響いた。盛り上がっていたメンバーと穂花が、一斉にソファーの俺に視線を向ける。

「…奈央?」

 様子を伺うように小首を傾げるその姿さえ、今は苛立ちを増す仕草でしかなくて、

「ごちそーさま。用件済んだんでしょ? 早く帰りなよ」

 冷淡な言葉に、周囲の空気が張り詰める。

「ちょっと奈央。そんな言い方」

「ううん、いいんですチカさん。ごめんね、奈央。お仕事中に急に来ちゃって」

 健気に明るく答えるも、声は微かに震えていて。そんな穂花を見れない俺は、読みたくもないマンガに目を向け続ける。

「長居しちゃってごめんなさい。お仕事頑張って下さいね」

「えー、穂花ちゃんホントに帰っちゃうの?」

「もう少しゆっくりしてきなよ。まだ始まんないし」

 智とチカが名残惜しそうに引き止める中、

「俺、送るよ」

 ――義人が席を立った。

「えっ、いいよ。まだ早いし電車もあるし」

「遠慮すんなって。奈央、車貸して。俺、穂花送ってくる」

 そう言って俺に差し出す右手には、あれだけ外すなと念を押された包帯が見当たらなかった。義人のことだ、心配させまいと穂花に会う前に外したのだろう。

「お前もそのまま帰ったら? どうせ楽器弾けないんだし」

 驚いたのは穂花だった。強ばる表情で義人を見上げる。

「弾けないって…。え、だってさっきは。どういうこと?」

 震える声で尋ねると、義人は不安げな穂花の頭に手を置いた。

「ちょっと大事とってるだけ。奈央が大げさなんだよ」

 ……気やすく触るな。馴々しく呼ぶな。

 そいつは――穂花は俺のだ。

「気ぃ変わった」

「痛っ」

 義人から奪うように穂花の手首を強く握ると、

「今から寝る」

 呆然とするメンバーを余所にスタジオを後にする。そんな中、悠介だけはただ一人、冷静な眼差しで俺を見つめていた。


 仮眠室の中は、さっきまでの喧騒が嘘のように静まりかえっていた。

「奈央、痛い。手、離し…っ」

 入ってすぐ鍵を閉め、ようやく穂花の手を解放する。白い肌に色鮮やかに残る握りしめた跡。

「さっきの話、本当?」

「何が?」

「義人のこと。弾けないって嘘だよね? それとも」

「本当だけど?」

 サッと穂花の顔が青ざめる。

「まぁ、傷が塞がるまで念の為ってだけ。本当は包帯も外すなって言われてる」

「大丈夫…なんだよね?」

 まっすぐに俺を見つめる穂花の目は、今にも溢れてしまいそうなほど涙で滲んでいた。目の前にいるのは俺なのに。その瞳が映しているのは別の男だった。

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