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「大人になると痛みに慣れるってアレ、嘘だな。痛いもんは痛いわ」
と、包帯の巻かれた右手を見て義人は苦笑した。
「今、西岡さんに連絡つきましたから。すぐに来るそうです」
「みんなホント大げさだって」
笑って見せるもスタッフは誰一人笑い返してくれなくて、へこむ義人の隣に悠介が座る。
「そうは言っても商売道具だろ? 何かあってからじゃシャレになんないし。 今だって大事をとって作業遅らせてるんだから」
悠介の言葉に、今度は周りにいる全員が頷く。
「…ごめん」
広げていた足を揃えて座り直し、義人は深く頭を下げた。
「ま…まぁ、もういいじゃん! だけど、医者にだけはちゃんと診てもらってね」
場の空気を和ませるように、智は明るく言った。
「きっと西岡さん、めっっちゃくちゃ怒るぞー」
と、チカが無邪気に爆弾を落とした時、
「よ、義人さんっ! 怪我したって何事ですかっ?!」
鬼気迫る形相の西岡さんが飛び込んできた。
測ったようなタイミングに、スタジオ中が笑い声で響く中、流れを知らない西岡さんはポカンと立っている。そして俺もまた、その和やかな光景を一人離れて見ているような錯覚に陥っていた。
悠介の小言も、智のフォローも、チカの天然発言も。今までと何ら変わりはないのに、何もかもが遠くに感じるのは――、
「奈央?」
黙ってる俺に気付いた義人が笑顔を向ける。
本当は気付いていた。義人が穂花を見てたこと。
誰よりも先に穂花に気付くのは、いつも義人だった。
その時に見せる笑顔は言葉に表わせないくらい嬉しそうで。けれど、それはあくまでも『お気に入り』レベルだと思っていた。
――俺な。穂花ちゃん、好きなんだ。
あの時の言葉の強さ。義人は本気だ。本気で穂花に惚れてる。
「明日、局入り前に病院に寄りましょう。奈央さんは…」
「いいよ。俺、自分で先行くから」
明日は新曲のプロモーションを兼ねたラジオの公開放送に、俺と義人で出演することになっている。
「ごめんな、奈央」
「いいって。手、なんも無いといいな」
「でもさー、ヨッシー転んだだけってホント? なんか、決闘でもしたような怪我だけど」
「決闘?! 」
慌てる西岡さんを余所に義人は俯き、ただ小さく笑った。その顔はどこか幸せそうで、俺は心の中がひどくざわつくのを感じていた。
家に着いたのは日付も変わった深夜だった。
「穂花ー? いないの?」
電話をかけても出ないので扉から穂花の部屋に入る。明かりもついておらずシンと静まりかえっていた。
「穂花?」
俺になんの連絡も無しに出掛けるなんてありえない。もしかして、と寝室のドアを開けると、
「…いた」
小さなシングルベットに丸まって、眠る穂花を見つけた。
「ただいま」
起こさないように小声で呟く。穂花の顔を覗き込み、ふとあるモノに気付いた。頬にうっすら残る涙の跡。嫌な夢でも見ているんだろうか。
「……」
静かだった。穂花の小さな寝息すら聞こえてくるほどに。顔にかかった髪をかきあげ涙の跡を拭う。
気が付くと俺は――その頬に、そっと口付けていた。唇に伝わる涙の味。ハッと我に返り体を起こす。
「今…何した…?」
あいつがいなくなってから今まで、女に自分からキスしたことなんて一度も――。
唇を指でなぞる。穂花の頬の柔らかさがまだ残っていた。
寝室を飛び出し洗面所に駆け込むと、勢いよく流れる水で顔を洗った。そうすることでさっきの出来事を洗い流したかったのかもしれない。鏡には困惑した表情の男が映っていた。
…情けない顔だ。仲間の告白に聞こえなかったフリをして、眠ってる女にノリでキスをして。俺らしくもない。
「起きてないよな…」
さっきの出来事を知られたくは無かった。何故ならそこには何の意味も無いから。期待を持たせたり、未来を夢見させるような行動はするなと西岡さんにも念を押されてる。
そう、あくまでも穂花は『睡眠薬』。俺達の関係はそれ以上でもそれ以下でも無い。
「……」
明日、義人に電話のことを謝ろう。
ちゃんと聞こえてたって。俺に協力出来ることあれば言えよって。そうしたらきっと、胸の中で渦巻いてるこの霧もキレイに晴れるはずだ。
洗面台の横に置いてあったタオルに手を伸ばす。と、ジャラっとした金属音が床に響いた。何かのコードが落ちたのかと思い気に留めなかったが、タオルで顔を拭ってから床を見て絶句した。
「何で…」
床に落ちた『それ』は、鈍い輝きを発しながら俺を見上げていた。
手に取らなくても分かる。――義人のネックレスだ。
◇◇◇
朝、目覚めると自分のベットに寝ていた。しわくちゃになったスカートを無駄と知りつつ手で伸ばす。
「…義人さん?」
リビングを覗くが、もちろんそこに義人さんの姿は無かった。
いつ帰ったんだろう。コンロの脇には昨日のままコーヒーカップが置いてあった。とりあえずコーヒーでも飲むかと、お湯を沸かしている間にスマホを見る。着信が一件にメールが一件。メールは義人さんからだった。
『何かあったらすぐに言うこと! 090-XXXX-XXXX』
義人さんらしい短いその文面に笑みがこぼれる。着信履歴は奈央だった。時間からして仕事帰りだろう。
「奈央? 帰ってるの?」
扉から部屋に入るが奈央の姿は無かった。奥からペコの声がして、
「はいはい。お腹空いた?」
催促するペコにご飯を出すと勢いよく食べだした。この様子からすると昨日の晩は食べてなさそうだ。ごめんね、と頭を撫でる。
「ご主人様は帰ってこなかったの?」
尋ねると、食べるのは休めず尻尾だけを振ってみせた。
着信履歴から奈央へかけ直してみたけれど繋がらなかった。仕事中は出ないか留守電に切り替わる。きっと仕事中なんだろう。
「…あっ! お湯っ」
慌てて戻る私は、電話のことなんてスッカリ忘れてしまっていた。
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