ずっと変わらないものなんて無いんだよ。
1
その時の俺は、自分の中に生まれつつある感情にまだ気付いていなかった。
◇◇◇
「すいませんっした!!」
スタジオに入るなり義人は直角に頭を下げた。椅子に座っていたチカが、悪魔の角を覗かせながら立ち上がる。
「三時間もふらついてるとかいい度胸してるよね。ちょっとこっち来」
「つまらない物ですが…」
「…てお茶でも飲みながらゆっくりしなよ!」
義人が差し出した叙々苑の焼肉弁当に、チカの顔にいつもの笑顔が戻る。固唾を飲んで見守っていた周囲も息を揃えてホッとした。
「ごめんっ!」
一人一人謝りながらスタジオの奥にいる俺まで辿り着くと、義人は顔の前で手を合わせる。
「おう」
「すぐ準備して入る。ホントにごめんな」
さっきの電話のことなど何も無かったかのような態度。俺の考え過ぎかと思ったその時だ。ふわりと漂う穂花の香り。匂いの元は――義人だった。
「義人」
ベースを手に振り向く顔はいつもと変わらない。だからこそ却って動揺を煽られた。
「さっきの」
「ヨッシー、ちょっといいー?」
奥からチカの呼ぶ声がして、
「ん、ちょっと待って」
声だけ先に返事をして俺に向き直る。
「あー…、うん。後でいいや」
「そうか? 悪いな」
そう言ってニコリと笑った。
手にしていた雑誌のページをパラパラと捲る。けれどまったく頭に入ってこない。
チカと真剣な顔で話している義人をぼんやり見つめていると、視線に気付いたのか『俺?』と自分を指差す。呼ばれていると勘違いしたようだ。『なんでもない』というように手をひらひらと振った。
――奈央にとって穂花ちゃんて何?
聞かれた瞬間、言葉を無くした。
「なに言いたいのか分かんないけど、穂花のことはちゃんと大事だから」
その答えでは満足しなかったのか、義人は更に追い打ちをかけてきた。
『その大事って、薬としてって意味で言ってる?』
薬――。そうだ、穂花は薬だ。
穂花が『睡眠薬』になってから夜が怖くなくなった。夜は長く暗く寂しいモノではなく、やがて訪れる朝までの安らかな時間へと穂花は変えてくれた。
日本武道館という自分の中での大きな節目も迎え、ニーナはここからが勝負所だろう。もっと自分達の引き出しを増やし、常に進化していきたい。そしてその為には
(俺と穂花の関係、か)
分からないというのが正直な気持ちだ。
スタッフと呼ぶにはあまりにも生活に溶け込んでいるし、ファンと呼ぶには近すぎるだろう。かといって友達というのも違う気がする。
俺の中で穂花は『穂花』でしかなく、二人の仲を表わす言葉なんて考えたことも無かった。けれど、ニーナの今後の活動において欠かせない存在であることは間違い無い。
「…そうだけど?」
結局、俺の口から出たのは短い一言だった。
何故か胸の奥がチクリと痛んで。と同時に、義人に対して疑問が湧きあがる。今までこんな風に穂花について話したことなんて無いのに、今日に限ってやけに絡む。
「お前ホントに」
何が言いたいの? という言葉は、次の一言に飲み込まれた。
『俺な。穂花ちゃん、好きなんだ』
そう言う義人の声は今まで聞いてきたどの声よりも力強かった。反して俺は、声が喉に張りついて上手く出せない。まさかそんな話になるとは思わなかったし、第一それを何故俺に言うんだ?
「奈央? 聞いてる?」
動揺する中、必死に言葉を探していると様子を伺う声が耳に届く。次の瞬間、自分の口から出た言葉に、俺は自分でも驚いた。
「――悪い。なんか電波悪いのか聞こえなかった」
なに言ってるんだろう。こんな子供だましな嘘。
「あ…、っと。どのへんから?」
「どこかなぁ。ごめん、もう一回言ってくれる?」
義人の性格からして二度目は無いと分かっていた。案の定、『たいした話じゃないから』と電話はあっさり切れ、義人の告白は無かったことになった。
つまらない雑誌を傍らに放ると、視界に義人のライダースジャケットが映る。
あの匂いは確かに穂花のものだった。なんの匂いかは知らないけれど、抱き寄せて眠る時、いつも鼻先をくすぐる香水みたいな甘い香り。
…もしかして今まで一緒に居たのか?
「奈央さんっ」
突然、物凄い勢いでスタッフの一人が駆け寄ってきた。
「どした?」
ただならぬ雰囲気に尋ねると顔を青ざめながら、
「義人さん怪我してるんです! しかも指!」
と、救急箱を抱え戻っていく。怪我? 義人が?
「ヨッシー!」
スタッフの後に続いて駆け込む。椅子に座って治療を受ける義人が、申し訳なさそうに肩をすくめた。他のメンバーも様子を伺っている。
「困りますよお! ああもう、こんな腫れて…。いったい何したんですかっ?!」
「大した傷じゃ無いって」
言いながらもその顔は痛みに歪んでいる。応急処置をするスタッフに怒鳴られるも、当の本人はいたって呑気だ。
「いやー、名誉の負傷? …いった! カズさん、ちょ、痛い痛い」
「自業自得です。はい我慢っ!」
「いや、ちょっ…お手やわらかに…っ!」
数分後――。
スタッフの手厚い看護を受けた義人は、すっかり参っていた。
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