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「沸いてる」

 不意に背後から腕が伸びて火を止めた。頭上から降る声に現実へと引き戻される。義人さんはタオルを手に、襟足の辺りを片手でゴシゴシと拭いていた。

「あ…、すみません。コーヒーで良かったですか?」

 不謹慎にもドキリとしてしまい、動揺を隠すように俯いた先に――赤く滲んだ義人さんの指。

「…その怪我……」

「あぁ、大したもんじゃないから」

 私の見つめる先に気付いて軽く手を上げる。

「大した怪我です! ど、どうしよう…っ」

「大げさだって。それよりも」

 慌てふためく私に、その声は届かない。

「そうだ、消毒! 消毒しなきゃ。あと包帯と…」

「穂花ちゃん」

 キッチンのどこかに片付けたはずの救急箱を探すも、気持ちだけが先走って行動が追い付いてくれない。どうしよう。楽器を弾く大切な指なのに。何でもっと早くに気付かなかったんだろう。

 震える指先がようやく消毒液を見つけて、

「あった! 義人さん、手を」

 振り返った私を待っていたのは――温かな腕の中だった。

「義、人さ…」

 強く、けれど優しく抱き締めるその腕は奈央のそれとはまったく違っていた。

「俺のことはいいから。それよりも」

 そう言って私の頬へ両手を添え、自分へと向ける。

「無理して笑うな。ちゃんと声に出して泣け。あんなこと言われて平気なフリすんな」

「……義」

 遮るように鳴りだした着信音は私のものでは無かった。

「電話…」

「後でいい」

 見つめ合ったまま、義人さんはまばたきもせずに真剣な眼差しを私に注ぐ。

「手…、怪我…」

「そんなのどうでもいいから」

 ぐっと手のひらに力がこもり、彼の瞳が優しく微笑む。

「今は穂花ちゃんが先」

「……っ」

 力の抜けた手から消毒液が落ちて、鳴り続けていた音も止んだ。その瞬間、再び温かな腕に抱き締められた私は堰を切ったように泣いた。

「っ…悔しっ…」

「うん」

「あんな…男、好きだっ…んて…っ」

「今までよく頑張ったな」

 頭を撫でる手が、背中を叩く手が。あの日の夜から今日までの間、溜め込んでいた涙を次々に解放していく。

「…よ、しひと、さん」

「なに?」

「……あ、ありがと…」

 笑ったはずみで彼の胸が上下する。

「いーよ。いっぱい泣いてスッキリしな」

 伝えたい想いがあるのなら、何も無理に言葉にする必要は無いんだ。

 こうして触れ合うことでこんなにも彼の優しさが心に流れ込んでくる。それは紛れもなく本心だと真っ直ぐに伝わって、私は余計に涙が止まらなかった。

 止まない雨に負けないくらい泣き続ける私の涙を、義人さんは黙って受け止めてくれた。

 泣いて、泣いて。やがて泣き疲れて眠った私を、義人さんがベッドに運んでくれたと知るのは明日のことだけれど――この時の彼の本心を私が知るのは、まだずっと先のことだった。



 ◇◇◇


 ちゃんと声に出せと言ったにも関わらず、声を押し殺して泣いていた彼女は、やがて泣き疲れたのか俺の腕の中で眠ってしまった。抱き上げて、その軽さに驚きながらそっとベッドへ横たわらせる。髪を撫で、頬に残る涙の跡を指で拭った。

 ――いつからだろう、この気持ちに気付いたのは。

 初めて会った時は、奈央の『睡眠薬くすり』としてしか見ていなかった。可哀相に、運が悪かったなと同情すらした。

 薬探しは単独で行わないよう、西岡さんからキツく言い聞かされていた奈央は、よく俺を頼った。

 確かにメンバー内じゃ俺が一番妥当だろう。悠介はああ見えて女の好みが厳しいし、智やチカじゃ荷が重すぎる。薬探しに協力していたのは、奈央が眠る為に致し方ないと思ってた。

 理由は違えど女に愛想を尽かしていたのは、俺も奈央と同じだった。

 もしも女の子くすりが奈央を選ばなかった場合、当然俺が相手をする羽目になる。二人きりになったとたん甘い声で上目使いに俺を見つめ、口にするセリフは皆揃いも揃って同じだった。


 ――一度きりでもいい。遊びでもいい。ねえ、あたし何でもするから。お願い。


 最初のうちは何もせず、「そんなこと言っちゃだめでしょ?」なんて優しく笑って家まで送っていた。けれど、そのうち真面目に相手にするのもアホらしくなって、適当に言い包めて自分で帰らせるようになった。

 俺は和泉いずみ 義人よしひとであると同時にニーナの義人でもあって。けれど女達の目に映るのは、あくまで後者でしかなかった。

 結局、みんな肩書きや知名度でしか俺を見ていないんだと気付いたら、何だか自分のやっている全てが虚しく思えてきて、内心さげすんでいた。所詮、女なんてこんなもんなんだ、と。

 そんな時――穂花ちゃんに出会った。

 しばらくして奈央の隣に住むと知り、西岡さんとの約束も守ったと聞いた時、俺の中で彼女を見る目が変わった。

 それでもまだ、その時はそれ以上の気持ちは無かったと思う。

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