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「でね、結局父に押し切られる形で決まっちゃったんです」

「そうなんですか」

「真也さんに聞いても、『お義父さんの言うことを聞いた方がいい』って言うし…」

 そう言って彼女は隣の真也に膨れて見せる。

 彼女は気付かないのだろうか。無言で髪をかきあげるのは、彼が苛立っている時に出る癖だと。昔なら引っきりなしに吸っていた煙草は、妊娠中の彼女を気遣ってか見当たらなかった。そのせいか行き場の無い指がさっきからせわしなく動いている。

「あ、ウワサをすれば…もしもし? …あれ? 電波が…。すみません、ちょっと失礼しますね」

「危ないから走るなー」

 スマホを手に店の表へ急ぐ彼女の背へ、真也は声を掛けると大きく肩で息をついた。言いにくいことを言う前に出る癖。人って変わらないものなんだね。

「…何のつもりだ?」

 安っぽい昼ドラマみたいなセリフに、私は苦笑した。

「それはこっちのセリフ。あの人、何で私の名前を知ってるの?」

 話した感じでは、私達に何があったかまでは知らないようだ。

「別れた彼女がいたってことだけは話してたから」

「よく言うわよ。別れる前から始めてたくせに」

 それには答えず、ただめんどくさそうに息をつくだけの真也に段々と苛立ちが増していく。

 …あなたにそんな態度を取る権利なんて無い。

 勝手に女作って。勝手に別れを切り出されて。勝手に終わらされて。

「言っとくけど」

 あの夜…、

「余計なこと話すなよ。今が一番大事な時期なんだから」

 私が、どんな思いで待っていたか――。

 テーブルの下で強く手を握り締めた時だ。視界の端を黒い影が過った。

 最初は、その音が何なのか分からなかった。それが水の跳ねた音だと気付いた時には、目の前で真也は水を滴らせながら呆然としていた。


「…最っ低だな、あんた」

 ――義人さんだった。

 さっきまで水の入っていたグラスを片手に、軽蔑のこもった眼差しで真也を見下ろしている。

「何…で」

 あまりの出来事に声が出ない。何で…ここに?

「そんなん聞かされる側の気持ち分かんないの?」

「あんた誰? 穂花の何?」

 義人さんを睨み付けながら、真也は濡れた頬を手の甲で拭い椅子に深く座り直す。

「俺のことなんてどうでもいいから。彼女に謝れ」

 静かに怒りを露わにする義人さんに、真也は鼻で笑う。

「彼氏? タイプ変わったね、穂花」

「ちが…」

 フルフルと頭を振りながら、義人さんの服の裾を引く。けれど私のことなどまるで見向きもせず、

「謝れって言ってるだろ」

「どうでもいい部外者なら入り込まないでもらえます? サングラスも外さないで失礼ですよ」

 ふてぶてしい態度を崩さない真也に、舌打ちしてサングラスに手をかけた義人さんを慌てて止める。

「ダメですって」

「いいよ別。てか、やらせろ」

「なに言ってるんですかっ。私は平気だから」

「お前が平気でも俺が無理」

 ざわつき始める店内。他の客は遠巻きに私達を見ていた。これ以上目立つわけにはいかない。

「…出ましょう。これ以上、この人に付き合うこと無い」

 義人さんの腕を取り、出口に向かった私の背中に真也は追い打ちをかけた。

「ちょっと! これから大事な会議あるんだけど。これ、どうしてくれるんだよ」

 頭の芯がクラリとして、立っていられたのが不思議なくらいだった。


 ――ごめんな、大事な会議入っちゃってさ。約束の時間、帰れそうにないんだ。


 そう言って真也は他の子浮気相手を優先し、今も目の前の状況より濡れたスーツを心配している。結局、真也にとって私は常に後回しにされる程度の女だったんだ。情けなくて…涙も出ない。

「……っ、ダメッ!」

 弾かれたように身をひるがえした義人さんを止めたくても体が動いてくれない。

 暴力沙汰にでもなったら義人さんだけじゃない、バンド全体に責任が及んでしまう。一手即発状態の中、義人さんがポケットに入れていた手を出し、私は思わず目を閉じる。

 真っ暗な視界。

 ゴッ…と鈍い音がして恐る恐る目を開けると、真也の頬スレスレのところで壁に義人さんの拳が突き立っていた。恐怖に慄く目で義人さんを見ている真也に、さっきまでの強気な態度は跡形もなく消えて無い。

「スーツ、悪かったな」

 そう言ってテーブルにいくらかお札を置くと、義人さんは私の腕を取り店の外へと出て行った。

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