3


 約束の時間が来て奈央を起こすと、私の役目は終わりだ。

 見学していけばいいと皆は言ってくれたけど、さすがにそれは厚かましいので「発売まで楽しみにとっておく」と断った。

 スタジオから出て見上げた空は、薄暗く曇っていた。

「…雨降りそう」

 足早に駅へと向かうも、ぽつぽつと降り始めた雨はあっと言う間に本降りへと変わる。たまらず近くの店の軒下に飛び込み、ハンカチで水滴を拭った。

 軒下には私と同じく足止めを食らっている人が何人かいた。

 店先で立ち止まっていたら営業の邪魔になるだろうし、いっそ中でお茶して雨が収まるのを待とうかと思った時だ。前方から、なにやら人の視線を集める人物がやって来た。誰かと思えばそれは義人さんだった。

「あ、いたいた。はいこれ。困ってると思って」

 そう言って、ビニール傘を差し出す。

「…わざわざ追ってきてくれたんですか?」

「うちのが世話になってるしね。行き違わなくて良かった」

 驚く私に笑顔を崩さず「はい」と傘を渡す。

「ありがとうございます…」

 受け取る時、微かに触れた義人さんの指先は雨のせいか冷えていた。これから楽器を弾かなきゃいけないはずなのに。

「じゃあね、気を付けて帰るんだよ」

「はい、お仕事頑張って下さい」

 義人さんはニッコリ笑ってスタジオの方へ歩いて行った。その背中は、やっぱり周りの人とは違う空気を纏っていて、彼が一般人では無いと暗に示していた。

 今でこそ奈央以外のメンバーとも気軽に話せるようになったけれど、契約したての頃の私はそれはそれは緊張していた。今日みたいにスタジオに顔を出すなんて考えもしなかったし、メンバーの方も私とどう接したらいいのか戸惑っているようだった。

 それを率先して橋渡ししてくれたのが義人さんだ。カッコ良くて頼れるベーシストの彼は、今じゃ奈央の次に話しやすい存在になっていた。

 義人さんの優しさに感謝しつつ傘を開いた時、

「穂花…?」

 ――忘れかけていた声がした。

 傘を開いたまま硬直する体。耳の奥がガンガン鳴りだして、激しくなる動悸はあの日の息苦しさを呼び起こす。ゼンマイの切れかけた人形の様に、ぎこちなく声の方へ視線を向けると、

「……真也」

 私と同じく肩を濡らして佇む真也が、驚いたように私を見つめていた。

「久しぶり。最初分からなかったよ」

 …なんでそんな風に笑いかけることが出来るんだろう。

「元気そうで良かった」

 なんでそんな言葉を口に出来るんだろう。

 自分が捨てた女だから?

 裏切った女だから?

 罪悪感を感じているから?


(…そんなの偽善でしかない)


 心の奥の、更に一番深い場所に沈めたはずの記憶。癒されたと思った傷が、再び熱を持ち始めるのが自分でも分かった。その場から立ち去ることも、過去を非難することも出来ず立ちつくしていると、

「お知り合いの方?」

 真也の背後から女性が現われた。

 華奢な体に似合わない、なだらかな曲線を描いた腹部に気付く。この人が真也の――私達が別れた原因になった人だと直感した。

「あ、この人は…」

「もしかして穂花さん、ですか? 初めまして」

 真也の言葉を遮り、口角を上げ上品に微笑む。

「そうだ! 良かったら一緒にお茶でもしません?」

 さも名案が浮かんだとばかりにはしゃぐ彼女を、真也が諭す。

「なに言ってるんだ、初対面で急に」

「だってこんな偶然、滅多に無いでしょう? 丁度お店の前にいることだし。ね?」

 最後の言葉を私に向ける。彼女の真意は分からないけれど、

「少し、だけなら…」

 そう答えた瞬間に見せた真也の驚いた顔。

「良かった! じゃあ中に入りましょう」

 喜ぶ彼女の隣で顔を強ばらせる真也に、ニッコリと微笑んでみせる。

 二人の仲をどうこうしようだなんてこれっぽっちも考えていない。ただ、困らせてやりたかった。

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