3


『そうですか。松島さん、守ってくれましたか』

「驚かないんだ。今回もダメだって思ってたんじゃないの?」

 スマホから届く満足そうな声に、俺はサイドテーブルの煙草へと手を伸ばす。乾いた喉に広がる違和感。馴染んだはずの味が今日はやけに苦い。

『いや、今回は確信してましたよ。だから先に引っ越しまで済ませていたわけですし』

「そんなん言って、もしダメだったらどうしてたの?」

 鼻で笑った俺に、向こうから小さく笑い声が返ってきた。

『まぁ…もしそうなっていたとしても、今までのようにはならなかったと思いますよ』

「え、どういう意味?」

『じゃあ、本決まりってことで上には報告しておきます。お疲れ様でした』

 意味深な発言を残して切れてしまったスマホをベッドに放ると、手の中のジッポライターに視線を落とす。チクリと胸を刺す痛みは、罪悪感だろうか。

 誰への? 彼女か。それとも。

 片面を指でなぞる。指先に微かに感じる窪み。刻まれた文字は一生消えない傷跡にも似ている。

 どんな悲しみもいつかは歩きだす糧になる。そんな歌を歌っていたあの頃の自分は、どれだけ時が過ぎても癒せない傷もあることを、ただ知らなかった。



◇◇◇


 枕元のスマホが振動して、時間が来た事を知らせる。朝六時。休日ということもあってか、辺りはまだ静かだ。

「奈央…起きて」

 肩を揺さ振るも、起きる気配は無い。昨日も遅くまで仕事をしていたし無理もない。

「またさとるさんに怒られちゃうよ?」

 子供のようにぐっすりと眠る彼を起こすのは偲びないけれど、心を鬼にしてさっきよりいくらか強く揺する。

「んー…」

「起きた? おはよう」

「……はよ」

 小さく身じろいで重いまばたきを繰り返すと、ようやく奈央の腕が私を解放する。ベッドから起き上がったままの状態でぼんやりしている奈央に、「軽く食べてく?」と尋ねると、

「…コーヒーちょうだい」

 ぼさぼさの髪を掻きながら、大きな欠伸と共に返事が返ってきた。

「分かった。寝ちゃダメだよ? ちゃんと起きてね」

 今にも夢の世界に帰ってしまいそうな奈央に念を押してから、私はリビングに向かった。


 ゲージで眠るペコを起こさないように気を付けながら、お湯を沸かす。カーテンを少し開けると青く色付き始めた空に混じって、消えかけの小さな月が所在無さげに浮かんでいた。

「おはよー」

 起きるまでが長いが、起きてしまえば行動が早い。すっかり目の覚めた奈央にコーヒーを差し出す。

「すぐに出るんだよね?」

「半には迎えが来るはず」

 時計を見上げて奈央は答える。

「それじゃあ、部屋に戻るね」

「ん、ありがとう」

 ――奈央の隣に住み始めて二週間が過ぎた。

 自然に敬語が無くなって、お互いの部屋を自由に行き来するようになって。それでもまだ、彼に抱き締められる時は緊張してしまう。

 今日から本格的に制作期間に入るらしく、昨夜は遅くまで仕事部屋に籠もっていた。

「いつ終わるか分かんないし、先寝てていいから」

 なんて言われたものの、そんな奈央を差し置いて眠れるわけもなく。

 これじゃ、私も奈央が居なければ寝られなくなってしまったみたいだな、なんて思いつつ、いつも通り奈央のベッドで仕事が終わるのを待っていた。

 うとうととしかけた頃、人の気配を感じてうっすら瞼を開ける。暗い部屋の中に奈央のシルエットが見えた。

「…もう寝たか」

 私が寝ていると思ったらしく、気遣いながらベッドに入ってくる。起きるタイミングを逃してしまい、そのまま寝たフリを続けていると、

「…まゆ」

 ――見知らぬ名前。

 続いて聞こえる重いため息。やがて、奈央は背中から私に腕を回すと、

「おやすみ」

 そう小さく呟いて眠りにつく。

 私を起こさないよう、いつもより優しく添えられた腕が何故か無性に切なかった。


「穂花ちゃんいる?」

 扉をノックする音に、ハッと我に返り顔を上げる。

「うん。今日も遅くなりそう?」

「どうかな。遅かったら電話する。今日も先寝てていいから」

「分かった。行ってらっしゃい」

 扉の向こうの奈央を声で見送る。こうして、家を出る前に奈央が扉越しに声をかけるようになったのはいつからだろう。

 気付けば自然と、二人の間に呼吸みたいなものが生まれていて、それはとても居心地が良かった。と同時に、ファンのままでいたら見られなかった素の姿を知る度に想いは募り、私の中で奈央の存在は日ごと大きくなっていった。

「…まゆさん、か…」

 切なく囁かれた名前にどんな想いが込められているのか、考えたくないけれど耳にこびりついて離れない。彼女かと思ったけれど、ここに来てまだ一度もそれらしき人と遭遇したことは無い。

 だとしたら…、

「昔の彼女、かなぁ…」

 基本色で統一された奈央の部屋で、ただ一つ鮮やかに色彩を放っていたあのマグカップ。あれは、その人が使っていたんじゃないだろうか。

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