2


「穂花ちゃんさ、自分の役目分かってないでしょ?」

 ベッドに入るなり、またもや右端から動かない私に奈央は苦笑した。

 私だって好きでこうしてるわけじゃない。だって、まさか裸のまま入ってくるなんて思わないじゃない。

「ふ、服着て下さいっ。風邪ひいても知らないですよっ」

 明らかに私の反応を楽しんでいる奈央に、思わず語尾を強める。…返事が無い。まさか、怒らせてしまったんだろうか。

 後ろの様子を伺おうとした時、微かに衣擦れの音がして、

「奈…」

 視界をかすめた暗やみに浮かぶ腕。次の瞬間、それは体を引き寄せ、気付けば私は奈央の腕の中にいた。

「は、離して下さいっ」

「これで良し」

「なに言ってるんですかっ。とにかく服っ!」

「えー? いいじゃんもう。めんどくさい」

 ジタバタともがいてもまったく解けない、体の前で交差する奈央の腕。裸のせいか体温をより近くに感じる。奈央に触れている背中が熱い。

「こうしないと寝られないのは知ってるでしょ。大人しく抱かれてて?」

「…っ」

 ――ズルい。そんな言い方をされてしまったら、抵抗なんて出来なくなってしまう。


「なんか、ごめん」

「…どうしたんですか? 急に」

「やけに静かだから。怒らせちゃったかなぁって」

「怒ってるわけじゃ…無くて」

 奈央が話す度に首筋に息がかかる。息苦しいまでに騒ぐ胸。指先をギュッと握り締め、手のひらに食い込む爪の痛みに意識を集中させた。

「穂花ちゃんには本当に感謝してる。ようやく眠れるようになったし」

「…大したことしてないですから」

 正直、これ以上話していられる余裕は無かった。今はとにかく一秒でも早く寝て欲しくて、余計なことを考えないよう堅く目をつぶる。

「お礼、ってわけじゃないんだけどさ」

 その言葉に答える間もなく――体が反転する。

「奈…央?」

 背中にいたはずの奈央が私を見下ろしていた。

 薄闇に浮かぶ鋭い瞳。何が起きたのか分からず、その瞳を見つめ返していた私の頬に奈央は手を添える。

「なんでもいいよ。穂香ちゃんの願いごと、一個だけ叶えたげる」

 その手が、シーツに広がる私の髪に絡む。

「…っ」

 髪に神経はかよって無いのに。指先で弄ばれる感触に息を詰める。

「何か欲しいものある? なんでもいいよ」

 笑顔の下に隠された真意は分からないけれど。

「…なんでも?」

「うん、なんでも。…何が欲しい?」

 そんなの決まってる。

 奈央が欲しい。

 例えばこれが奈央の気紛れでしかなく、たった一度きりのことだとしても。

 あなたの腕に抱かれて、あなたの声が名を囁き、あなたの温もりを誰よりも傍に感じられたら――。

「奈、央が…」

「…俺が?」


 ――約束して下さい。奈央さんとは決して、体の関係を持たないと。


「穂花ちゃん?」

 フラッシュバックのように突如響いた西岡さんとの約束に、言いかけていた口を噤む。

 どうするの? このまま奈央に抱かれるの? 約束を破るの?

 約束を反古にした場合、どうなるのかは聞かされていない。奈央だってファンに手を出したなんて自分から話さないだろう。

 …それなら、私さえ黙っていれば何事も無かったように出来るんじゃないの?

 自問自答を繰り返す中、奈央の視線は優しく注がれている。ライブでの『みんなへの視線』じゃない。今この瞳に映るのは、私だけ。

「…を」

 私、一人だけを。

「ん?」

 優しく聞き返したその声に、少し気持ちが揺らいだけれど。

「服を…着て下さい」

 数センチ先で、奈央の目が丸くなる。

「そんな格好で寝て風邪ひかれたら、私が西岡さんに怒られちゃいます。だから、ちゃんと着てから休んで下さい。それが、私のお願いです」

 ――言えなかった。

 最後の最後で踏み切れなかったのは、もちろん西岡さんとの約束もあるけれど、

「…お腹空いた」

「え?」

 奈央は体を起こすと、肩で大きく息をついた。

「やっぱ穂花ちゃんの料理、食べていい?」

 私の腕を掴み、引き起こす。その笑顔はさっきまでの妖しさも無く、私の知るいつもの奈央に戻っていた。

「ちゃんと服着てくから。準備して待ってて」


 料理を温め直しながら、さっきの出来事を反芻する。

 『お腹が空いた』と言われた時、肩すかしを食らった反面、どこかホッとしている自分もいた。

 奈央が欲しい。そう思ったことに嘘は無いけれど、『お礼』という名目で関係を持って、何事も無かったように振る舞えるほど私は器用じゃない。

 そう、結局は恐れているだけだ。もっと奔放でいられたら奈央に抱かれていたかもしれない。そして、何事も無かったように振る舞っただろう。彼の『睡眠薬』で居続ける為に。

 けれど、言えなかった。もう一度、誰かに心を託してしまうのが恐い。


 ――ごめん、穂花。


 もう二度と、あんな思いはしたくなかった。

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