寝顔を見れるのは私だけだ。

1


 目が覚めると隣には奈央の寝顔。

 そんな毎日が、ずっとずっと続くと思っていた。



 ◇◇◇


 奈央から電話がかかってきたのは、日付が変わる直前だった。

『遅くなってごめん! まだ起きてた?』

「はい、今から帰りですか?」

 押し当てた耳の向こうから、歩く音が響いて聞こえる。

『あと十五分くらいで着くかな。片付けの方はどう?』

「あー…だいたい」

 まだ手付かずのまま放置されている荷物を眺めていると、

『帰ったら手伝うから』

「いえっ、疲れてるのに悪いです」

『平気平気。ついでに腹減ってるから何かあると嬉しいなぁ、なんて』

「…実はそっちが目当てだったりします?」

 クスクス笑う声が聞こえた。

『バレた? とりあえず、また後で』

「はい」

 電話を切った後で、自然と顔がほころんでいる自分に気付く。奈央に料理を作ってあげられるなんて。どうしよう、夢みたいだ。

「…そうだ、材料!」

 慌てて冷蔵庫の中身を確認する。簡単なものなら何とか作れそうだ。買い物に行っておいて良かった。

 一瞬、既視感デジャヴのようなものを感じて。ああ、そうかとあの夜のことを思い出す。

 …大丈夫。奈央は違う。それに、人生で最低最悪だったあの日が、今はこうして夢のような時間へと繋がっている。

 当然だけれど真也から連絡は無い。あの夜が、最後に顔を見た日になった。

 まだ微かに残る心の痛みを振りきるように、私は腕まくりをすると料理の準備に取り掛かった。

 

 『そっち行ってもいい?』と奈央からLINEが届く。『大丈夫ですよ』と返すと、程なくリビングから扉の開く音がして奈央が顔を出した。

「お邪魔します…ってのも変か。なんだ、もう結構片付いてるじゃん」

 家に着いてすぐ来てくれたのか、ダウンジャケットを脱ぎながらグルリと部屋を見渡す。

「他の部屋が全然手付かずなんですよ。もう少しで出来ますから、座って待っていて下さい」

「うん。ごめん、なんか飲み物貰ってもいい?」

「すみません! 気付かなくて。あの、私やりますから…」

「いいからいいから。そんな気ぃ遣わないで」

 慌てる私に笑顔を向けると、中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。そのまま、コンロの前にいた私の隣に並ぶと、

「何作ってくれたの?」

「えっと、鶏だんごの入った雑炊を。時間も遅いし、軽い方がいいかなって…。あ、もし足りなかったら言ってくださいね」

 反応を伺っていると、奈央は鍋の中を覗き込み鼻をくんくんさせてから、

「ヤバい。めっちゃ美味そう」

 満面の笑顔にホッと胸を撫で下ろす。味の好みが分からなかったから、正直不安だった。これからも食事を作る機会があるなら、ちゃんと覚えていかなくちゃ。

 ふと、背中に気配を感じる。振り返ろうとした瞬間、

「な、奈央?」

 私の首元に顔を埋めるようにして、奈央が寄りかかってきた。首筋にかかる息がくすぐったくて、お玉を手にしたまま固まってしまう。

「んー…。ごめん、なんか急に眠たくなってきたかも」

 奈央の声が耳元で低く響く。落ち着け、心臓。いや、無理だ。

「あ…、あー、大丈夫ですっ。どうぞ、休んで下さい」

 動揺を悟られないように明るく答えると、

「でもご飯…せっかく作ってくれたのに」

「平気です。明日、私食べますから」

「ホントに? じゃあ、先に少し休ませてもらってもいい?」

「はいっ」

 ようやく奈央が体を起こし、ホッとしたのも束の間だった。強く握りしめていたお玉を手から抜き取られる。首を傾げる私に、

「ん? これ持ったままベッド行くの?」

 ……そうか。奈央が休むってことは、私も一緒に付き添うってことなんだ。

「俺の部屋にする? それともここ?」

 私の手を取るその表情は、やっぱり雑誌で見るニーナの奈央とは違って見えて、

「ど、どっちでも」

「じゃあ俺の」

 …どうしよう。自分の心に、負けてしまいそうだ。


 扉から奈央の家に入ると、待ちかねていたようにペコが走り寄って来た。小さな頭を撫でるとパタパタと尻尾を振って返す。

「軽くシャワー浴びてきてもいい?」

「あ、はい」

 奈央が出て行くと同時にため息が零れた。床に直接座りこみ、膝の上にペコを抱き上げる。

「…どうしようか、ペコ」

 奈央にとって私は『睡眠薬』でしかなく、抱き締めるのも眠る為だと分かっているのに。

 首筋に残る奈央の吐息。心の奧に押し込めたはずの狡い私が頭をもたげる。そしてこう囁くのだ。奈央だって所詮、一人の男だ、と。

 背後からノックする音がして振り返ると、上半身裸の奈央がドアに寄り掛かるようにして立っていた。

 男の人にしては綺麗すぎる肌。うっすら残る水滴。洗いざらした髪から覗く瞳に目を奪われる。

「抱き締める相手、違うでしょ」

 力の抜けた腕からペコが擦り抜けて、飼い主の足元で甘えるも、

「ごめんな、ペコ。今は遊んでやれない」

 体を屈め頭をひと撫ですると、そのまま私に手を差し出す。

「おいで」

 ――そう言って、口元に笑みを浮かべた。

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