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「ごめん、こんな時に」

 いざ片付けを始めようとした矢先、西岡さんのスマホに事務所からお呼び出しがかかる。手伝えないことを奈央は何度も謝りながら、玄関まで二人を見送る。

「帰る前に電話する」

「うん、いってらっしゃい」

 傍から見ればまるで恋人同士のような会話だ。けれど素直に甘い気持ちに浸れないのは、さっきの西岡さんの言葉のせいだろうか。


(ビジネス、か…)


 人は、人生の三分の一を寝て過ごすという。これから先、奈央と過ごす時間の中で、私は奈央の人生の三分の一を共有することになるのだ。それは、ある意味とても特別な存在だろう。

 ハッキリ言ってもらえて良かったのかもしれない。与えられた立場に、奈央の優しさに、分不相応な期待を抱かない為の戒めとして。

「…ひとまず、こんなところかな」

 ようやく家らしくなってきたところで、思い切り両腕を伸ばす。窓の外には、夕暮れが一面に広がっていた。眩しいオレンジに目を奪われ、はたと気付く。

 しまった、カーテンが無い。

 前の家で使っていたカーテンじゃ、きっとサイズが合わない。高層マンションなので誰かに覗かれる心配は無いとはいえ、やっぱり何も無いのは落ち着かない。

 その他に思いつく必要品をメモし、軽く身だしなみを整えてから部屋を出ると、玄関を出てすぐ左側、同じ色をしたドアが目に入る。奈央の家のドアだ。

 まさかあの、ニーナの奈央の隣に住む日が来るだなんて。

「…行ってきます」

 ドアに小さく呟いて、私はエレベーターへ向かった。



 ◇◇◇


 ビルの隙間から覗く空は、遠くの方が微かに色付いていた。

「ずいぶん彼女素直だったじゃないですか。あの日、何て説得したんですか?」

 運転席で前を向いたまま、西岡さんが言う。

「別に。適当に」

 窓の外をぼんやりと眺めたまま俺は答えた。

「何にせよ安心しました。後は今夜のことだけですね。彼女が約束を守ってくれれば、本決まりなんで」

「…分かってる」

 確かに西岡さんの言うように、彼女が傍にいてくれたら俺は眠れる。一見、問題は解決したかのように思える。けれど――。

「…やっぱり俺、」

「いいんですよ。今から白紙に戻しても」

 赤信号に車が止まる。振り返ったその目に、いつもの穏やかさは無かった。

「ただし、よく考えて下さいね。

 前に向き直り、なおも続ける。

「一週間も待ったじゃないですか。それに、今更戻せないことは奈央さんが一番分かってるんじゃないですか?」

 痛い所を突かれ、言葉を無くす。――そう。本当は、俺自身が一番よく分かっている。

 彼女のおかげで久しぶりに得た眠りは、思いのほか深かった。

 目覚めた後のあの感覚。頭も、体も、隅々まで冴え渡るような充実感。一度味わってしまえば、もう昨日までの夜には戻れない。…戻りたくない。

 そんな俺が、上のやり方にとやかく言える権利なんて無いのだ。

 苦々しい気持ちでため息を吐く。と、横断歩道の信号が点滅し、目の前の横断歩道を駆け足で渡る人波の中に――よく似た、横顔。

「奈央さん!」 

 気付いたら、俺は飛び出していた。

 息を切らし、その背中を追い駆ける。

 風になびく長い髪。小柄な体。少し癖のある声。――色褪せない記憶。

「えっ…?! な、なんですか?」

 手を伸ばし肩を掴む。驚いて振り返った目の前の顔は、心の中のそれとは重ならなかった。

 淡い期待が音もなく形を無くしていく。人違いを詫び、重い足取りで車に戻ると、

「早く乗って下さいっ!」

 ものすごい剣幕で西岡さんに怒鳴られ、クラクションに急かされるようにして車は急発進した。

「困りますよ。場所考えて下さい」

「……ごめん」

 バックミラー越しに不安げな視線を投げかけられる。素直に謝ると、運転席から小さくため息が聞こえた。

「…まだ直らないんですか」

 何も答えず流れる景色を見つめる俺に、西岡さんもそれ以上聞こうとはしなかった。分かっているのだ。何を言っても無駄だってことを。

 無意識に人波へ視線を泳がせる。決して見つからないと分かっていながら、どうして探してしまうのだろう。

 あの夜の君に、今も縛られたまま。



 ねぇ、奈央。

 もしも私があの時、あなたが一瞬見せた表情に気付いていたら、あなたはその理由を教えてくれたのかな。

 心の奥、誰の手も届かない場所に沈めた記憶。あの日以来、一度も口にしなかったというあの子の名前を。

 初めて出会ったあの夜、あなたの瞳に私は映っていた?

 それとも最初からあの子を重ねて見ていた?

 最後の最後まで聞けなかったけれど、心の中のあなたに今でも問いかける。


 奈央。

 私は、あなたにとってどんな存在だったんだろう。

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