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「ここが今日から松島さんの部屋になります。…どうかしましたか?」

「隣だなんて聞いてないです」

「言ったら断るじゃないですか」

「!」

 カチン、とする私を気にも留めず西岡さんは説明を続ける。

「最初にお話したように、奈央さんの呼び出しに必ず駆け付けてもらえるのであれば、他のことは基本的に自由です。けれど、何よりも最優先すべきは奈央さんだと常に自覚していて下さい」

「はい」

「奈央さんはもちろん、松島さん自身の体調管理も万全にお願いします。風邪ひいたので一緒に寝れません、なんてことになっても困りますから」

 自分の置かれた立場がどれほど重要なものなのか、西岡さんの言葉から強く感じた。

 ただ傍にいればいいわけじゃない。より良い仕事が出来るように、いつでも最良の眠りを提供しなければならない。

「…まあ、色々とうるさいことを言ってしまいましたが、我々としても本当に松島さんを頼りにしているので。これからよろしくお願いしますね」

「いえっ、こちらこそ…」

 差し出された右手に応えようとした瞬間――サッと手を引かれた。

「あの…?」

 行き場の無くした私の手は空に浮かんだまま、

「一つだけ、私と約束をして下さい」

 真剣な顔で西岡さんは言った。

「何をですか?」

「奈央とは、決して体の関係を持たないこと」

「……」

「あくまで会社に雇われた人間なんだと忘れないで下さい。ファン気分のまま続けられると困ります。奈央と松島さんの関係はビジネスだってことを理解して下さい」

 そう言って西岡さんは、浮かんだままの私の手を取り握手を交わす。私は握り返すことが出来なかった。

 心の奥が俄かにザワつく。得体の知れない重圧を感じるのは、与えられた立場へのプレッシャーだと思っていた。

 でも、本当は予見していたのかもしれない。

 これから先の未来を。私と彼らの身に起こる出来事を。それによってもたらされる後悔を。消すことの出来ない悲しみを。


「片付ける前に一つ注意があるんですけど…」

 その時、西岡さんのスマホが鳴った。

「あぁ、ちょうど奈央さんからです。――はい。だいたいの話は済みました。後は例の…」

 話中の西岡さんから部屋の中へと視線を移す。

 間取りは奈央の家とほぼ同じだ。奈央の家は角部屋なので窓の配置が少し違うくらい。あのまま会社勤めをしていたら一生縁の無い高級マンション。引っ越し費用も含めて、全て事務所持ち。さすが天下のクイーンレコードだ。

 あまりにも突然の退職に、会社にはずいぶんと迷惑をかけてしまった。美樹にはやってみたい仕事が出来たとだけ話した。驚いていたけれど、穂花の決めたことならばと背中を押してくれた。

 三日で引っ越し作業を終わらせて欲しいという半ば無謀な事務所の申し出も何とか無事に済ませ、奈央が望めば今夜からでも私達は一緒に眠ることになる。

「穂花ちゃん」

 背中から奈央の声がして振り返る。けれど壁があるだけで姿は見えなかった。

「今、奈央さんの声しましたよね?」

 西岡さんは苦笑いするだけで何も答えない。

「奈央? いるの?」

 リビングを出て玄関を覗くもドアの鍵は閉まったままだ。おかしい。確かに奈央の声が…、

「…きゃっ!」

 再びリビングに戻った私を、

「久しぶり」

 まだビニールに梱包されたままのソファーに座った奈央が出迎えた。

「い…いつの間に?」

「西岡さんから聞いてない?」

 と、西岡さんを見る。

「話そうとしたら電話がきたんですよ」

 奈央はソファーから立ち上がり、壁に近付き手をかけた。そこはちょうど奈央の家と境の壁で、

「…嘘」

 グッと力を込めて押す。――と、壁の一部が音も無く開いた。

「俺の部屋に来る時は、ここから来て」

 壁かと思われたそれは、巧妙に隠された『扉』だった。ちょっと見にはまったく分からない。言われて注意深く見てようやく気付くくらい、それは本物の壁に紛れてひっそりと身を潜めていた。

「…誰が考えたんですか? こんな大掛りな仕掛け」

 扉に目を向けていた私は、その言葉に、ほんの一瞬、奈央が目を伏せたことに気付かなかった。

 扉の縁を一度指でなぞると、私の質問には答えず静かに扉を閉めた。

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