3
◇◇◇
大通りから少し離れたマンションは、日中のこの時間帯でも静かだった。
私はまた、あの赤いマグカップでコーヒーを飲みながら、奈央が話し出すのを待っていた。煙草の煙を長く吐き出し、揉み消したあと私へと向き直る。――来る。自然とカップを持つ手に力が入った。
「実は俺、まったく寝らんないの」
「え?」
奈央の話はこう続いた。
一ヵ月程前から満足に眠れなくなってしまったらしい。
最初の内は、疲れ過ぎて逆に目が冴えているのかと軽く考えていた。けれど日が経つにつれ、疲労感は増す一方で、それでもまったく眠れない。さすがに焦り出した。
「眠たいって気持ちはもちろんあるんだけど、全然寝られなくって。体力的にもキッツいし、かと言って薬に頼るのも嫌だし」
それでも騙し騙しやってきたらしいが、そんな生活でハードスケジュールがこなせるわけが無く、とうとう仕事にも影響が出始める。
「『missing』の発売が遅れたの覚えてる?」
「あぁ、確か半月くらいズレましたよね」
「それ俺の歌詞が間に合わなかったせい。周りにもめっちゃ迷惑かけてさ。…ホントはこんな情けない話、ファンの子に聞かせたくないんだけど」
奈央が苦笑する。
周囲も奈央の様子がおかしいと気付き始め、問い詰められそこでようやく眠れないことを打ち明けたらしい。
「もうめっちゃくちゃ怒られてさ。なんで早く話さなかったんだ! って。…まあ、変に病人扱いされるより全然マシだったけど。それからは不眠に効きそうなもんを片っ端から試してみたんだけど、コレが見事に効かないの」
軽く話してはいるけれど、その明るさが返って痛々しかった。眠りたいのに眠れない。それが、一体どれくらい肉体的にも精神的にも苦しいか見当もつかなくて、かける言葉が見つからなかった。
どちらからともなく訪れた沈黙。コーヒーを一口飲んで――ふと、思った。
…あの夜は? 後ろを振り返った時、奈央は確かに眠っていた。髪を撫でても起きないくらいに。
「あの夜のことでしょ?」
図星をつかれ素直に頷く。
「何でだろうなぁ…正直、俺も分かんない。でも本当にあの時はよく眠れた。夢も見ないくらい」
「でも、それなら少しずつ回復してるんじゃ…」
奈央が小さく首を横に振る。
「俺もそう思ってたんだけど、やっぱダメみたい」
仮眠とも呼べないような短い休憩をマメにとる事で、今は何とか仕事をこなしているらしい。
「あの日、詞書いてたんだけど」
そう言えば、テーブルに紙が何枚も広がっていた。
「実は作詞のペースが遅れてて。眠れないのが原因て分かってるから、周りもどうにも出来なくて。でも締切もあるし」
書けども書けども、頭に浮かぶのはありきたりで使い古した言葉ばかりで。このままじゃ、締切も危ぶまれていた時だ。奈央が完成した歌詞をスタジオへ持って行ったのは、私と別れた日の夕方過ぎ。
「みんな驚いてた。締切まであと一週間あったし。こんな早く上がるなんて雪降るって言われた」
酷いよなーと奈央が笑う。
「オマケに、そこで悠介が余計なこと言っちゃったんだよねー…」
奈央は一度口を閉じ、先を続けるのを躊躇っていた。
「悠さんが、どうかしたんですか?」
奈央はなにか言いたげに私を見ている。
「まさか…」
と、自分を指差してみると、
「当たり。悠介が、きっとあの子…って穂花ちゃんのことなんだけど、奈央の睡眠不足解消したおかげだね、なんて言っちゃって」
…私のおかげ?
「しかもそれ、タイミング悪く西岡さんにも聞かれちゃって」
あの子って誰なんですか! と詰め寄る西岡さんに、仕方なく奈央は私との経緯を話したらしい。
「まさかとは思いますけど、一緒に寝たことも話したりなんて…」
「ごめんっ」
両手を合わせ、目をつぶる。
「ごめんって…困るのは奈央じゃないですか」
「『何も無かった』ってちゃんと言っといたし。それは平気」
あっけらかんと答える奈央にそれ以上何も言えず、大きく息をついてソファーに身を沈める。そこから先は西岡さんの独断らしく、名前を基にファンクラブの会員リストから私を捜しだし連絡をとった、というわけだ。
「まさかこんなことになってるなんて知らなくてさ。今日も、ただ会って欲しい人がいるからって聞いてて。まさか穂花ちゃんだとは思わなかった」
「私も…驚きました」
長い話を終えて、奈央は再び煙草に手を伸ばす。細く煙を吐き出すと、
「…本音を言うとね、反対なんだ」
言葉の続きを探すように、ゆらゆらと漂う煙を見つめる瞳。
「大切なファンを、俺自身の問題に巻き込んじゃいけないって思ってる。穂香ちゃんには穂花ちゃんの生活だってあるし」
奈央が何を言おうとしているのかが分からなくて、ただ黙って耳を傾ける私に、
「でも。もし、こんな情けない話聞いても呆れたりしないでいてくれるなら」
姿勢を正して奈央は言った。
「俺が眠れるように、傍にいて欲しい」
――絶句してしまった。
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