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「じゃあ、僕そろそろ行くね」

「んー」

 テーブルの上の紙に目を落としたまま、手だけ振る奈央。悠ちゃんは玄関に向かうが奈央が立ち上がる様子は無い。

「あ、あのっ」

 少し迷った挙げ句、靴を履きかけている悠ちゃんを呼び止めた。

「ペコを預かってたのって…悠さんなんですか?」

「そうだけど?」

 …彼女じゃなかったんだ。ふいに悠ちゃんが笑う。

「本当は奈央が迎えに来るはずだったんだけど、急に来てくれって言うから何かと思えば」

「す、すみません…」

 いつまでたっても起きない私を気遣ってくれたんだろう。うなだれる私に、しかし悠ちゃんは、

「や、むしろ感謝しなきゃね」

 と、意味不明なことを言う。

「何が…ですか?」

 感謝されるようなことなど一つもしていない。しなければならないのは、むしろ私の方だ。

「奈央、詞書いてたでしょ? 君が次の…」

「――悠介」

 背中から奈央の鋭い声がして。いつの間にかリビングのドアに寄りかかった奈緒がこちらを見ていた。一瞬、悠ちゃんの表情が強張る。

「ごめんね、なんでもない。それじゃあね」

 けれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべて家を後にした。

「さてと。詞も一段落したし、そろそろ行かなきゃなー」

 奈央の言葉にハッとする。

「あ…じゃあ寝室いいですか? 支度してきます」

 煙草に火を点けながら頷く。荷物を手に寝室へと急いだ。

 ドアを閉めたとたん零れるため息。

 夢から醒めてしまう。夢が終わってしまう。

 分かっていたはずなのに。ずっと傍に居られるわけなんて無いって。奈央にとって私とのことは、あっさりと記憶の片隅に追いやられる些細な出来事なんだって。


 駅まで送るという奈央の申し出を丁重に断ると「じゃあ玄関まで」と、奈央とペコは揃って見送りに出てくれた。

「今書いてる曲が出るのは、もう少し先かな」 

「はい、楽しみにしてますね。本当にありがとうございました」

「何もしてないから」

 苦笑しつつ右耳をいじる。このドアを出てしまえば、もうあなたのそんな顔を見ることも無いんだろう。

「それじゃあ」

 泣きだしそうな想いを必死に押し込めて、自分に出来る最上級の笑顔を作る。あんな出会いだったから、せめて終わりくらい可愛くいたかった。

「気を付けてね。ほら、お前も」

 そう言ってペコの前脚を取って左右に振る。愛らしい仕草に心が和んで、頭を一撫でした。

「お邪魔しました」

 深く頭を下げて、振り返らずに外へ出る。背中で小さくドアが閉じる音がして、しばらくその場から動きだせなかった。隔たれたドア一枚向こうに彼はまだいるのに、もう私にこの扉を開けることは出来ない。

 

 重い足取りでマンションを出ると、昨日の雨が嘘みたいに青空が広がっていた。

 木々に残る雨粒が日差しを受けてキラキラと輝くのに反比例して、私の心は沈んでいく。これからしなければならないことを考えると、頭を抱えたい気分だった。

 真也はまだ家にいるだろうか。ひとまず当面の荷物を取りに戻って、実家へ行って…。両親は私と真也が結婚すると思っていただろうから、色々と面倒なことになりそうだ。

 最後に、とマンションを振り仰いだ私の目に、


(――まさか…)

 

 バルコニーからこちらを見下ろす奈央の姿が見えた。

 さすがに表情までは分からない。けれど、私が顔を上げたとたん、おそらく煙草を持っているだろうその手が小さく左右に揺れた。一体いつからそこにいてくれたんだろう。ドアを出てすぐ? もし私が振り返らなかったら? 気付くかどうかも分からないのに――。

「……好き」

 ふいに零れた想い。

 小さすぎて奈央の耳に届くはずもないけれど――奈央が好きだ。ニーナの奈央としてでなく、彼を。

 グッと拳を握り、遥か頭上の彼にも分かるくらい大きくお辞儀をすると、足早に角を曲がった。とたん涙が溢れ出る。苦しくて、胸が押し潰されそうで、思わずその場にしゃがみ込む。

 もう会えない。次に会う時の彼は、昨日の夜の彼ではなく『奈央』。ニーナのボーカル。遠い遠い存在の。

「…っ」

 まだこの手に、髪の感触は残っているのに。煙草の匂いだって覚えているのに。

 夢は、終わってしまったのだ。

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