3


「そんな隅っこ、落ちても知らないよ」

 クスクス笑う奈央の声。聞こえないフリをして右端ギリギリの所で小さく丸まった。私だって好きで端にいるんじゃない。これ以上近付いたら心臓の音が絶対にバレてしまう。

「…今日さ、なんか無理に笑わせてたりしなかった?」

 背中からポツリと奈央の声が届く。

「泣いてスッキリするなら、いっくら泣いてもいいから。見られたくないなら見ないフリするし、もし傍に誰かいて欲しいんだったら俺がいるから」

「……」

 ――胸が、苦しくて。喉の奥から込み上げる感情を必死に押し殺した。答えたいのに言葉にならず、小さく頷き返すので精一杯だった。

「おやすみー」

「…おやすみなさい」

 奈央の優しさに救われている自分がいた。それが単なるファンサービスにしか過ぎないと分かっていても。

 引き返せない場所へ足を踏み出そうとする前に、帰らなければ――現実へ。



(…そろそろ平気かな)


 ベッドに入ってから三十分、背後から奈央の寝息が聞こえるのを確認してから、そっと体を起こした私は、後ろを振り向いて思わず硬直する。いつの間にこんな傍まで来ていたんだろう。私のすぐ隣で、奈央は子供のように小さく丸まって眠っていた。

 ――ほんの、少しだけ。

 心に浮かんだ願望を止められなくて、そっと奈央の髪に指を伸ばす。指先が触れないよう細心の注意を払いつつ、顔にかかった前髪を横へと流した。

 細い綺麗な髪が、するすると指の隙間から流れる。髪だけじゃない。日に焼けていない肌も、その肌に影を落とす長い睫毛も。彼を形作る全てに目を奪われた。

 そろそろ始発も出る。奈央が起きる前に帰ろうと決めていたのに想いが揺らぐ。

 この部屋を出たら、私はまた『その他大勢』に戻ってしまう。もう少し、もう少しだけこのまま――、

「!」

 眠っているはずの奈央の手が、私の手首を掴んだ。寝呆けているのかと思い、身動きせずに様子を伺っていると、瞼がゆっくりと持ち上がった。

「…起こしちゃいましたか?」

 眠そうに二、三度まばたきをした奈央の目が、髪に触れたままの私の手を捕らえる。

「あ…、ごめんなさ」

 慌てて腕を引くも、奈央の手に力がこもる。

「な、奈央?」

 私の手を握り直すと、静かに自分の頬へ押しあてた。

「……どこ行くの?」

 その頬は驚いてしまうくらい冷たくて、私の手から伝わる温もりが無くなってしまったら、凍ってしまうんじゃないかと思わせた。

「電車…動く頃だから帰ろうと…」

 瞬間、奈央の腕が背中に伸びたかと思うと――気付いた時には奈央の腕の中にいた。押しつけられた胸から奈央の心音がして、息苦しさとは別の言葉に出来ない感情に胸を締め付けられる。

「…行か…で」

「ちょ…、奈央。離して」

 寝呆けているにもほどがある。ただでさえ帰りがたいのに、この状況に泣きだしてしまいそうだ。

「離したら…帰っちゃうでしょ」

 耳元を掠める吐息。甘く低く響く声が、私から抵抗する力を奪う。

「行かないで…」

 背中に回された奈央の手が微かに震えていて、ようやく彼の様子がおかしいと気付いた。

「奈央…?」

「頼む…。傍にいて…」

 細く絞り出された声は、まるで何かに怯えているみたいで、強く私を抱き寄せることで不安を消し去ろうとしているように見えた。突然の出来事に頭は働かず、一体何が彼をここまで追い込んでいるのか見当もつかない。

 けれど――。

「…分かった」

 もう一方の手を奈央の髪に伸ばす。

「どこにも行かない。ここに…奈央の傍にいるから」

 そう言って髪を優しく撫でると、安心したのかホッと小さく息をついて奈央は目を閉じた。


 体中を包み込む奈央の温もり。匂い。感触。

 ゆっくりと繰り返し髪を撫でる。何か嫌なことでもあったんだろうか。有名人だって元は一人の人間だ。悩みの一つや二つあるだろう。

 奈央は私を求めているのではなく、ただ誰かの温もりを必要としているだけだと分かっている。それでも今この時、傍にいて、髪を撫で、彼の体を抱き締めて。そうすることで少しでも不安を和らげるなら――。

 視線をほんの少し上げれば、そこには幸せそうに眠る奈央がいた。誰よりも遠かった人が、今は誰よりも近くにいる。

 やがて、再び訪れた眠気に私もそっと瞼を閉じた。

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