2
シャワーを終えた私は、着替えて髪を乾かすとリビングへ戻った。
奈央のスウェットは大きくて服の中で体が泳いでしまう。華奢に見えてもやっぱり男の人なんだな、とほんの少しドキドキする。
「ありがとうございました……奈央?」
リビングに戻るも奈央の姿が無い。どこに行ったんだろうと辺りを見渡すと、
「違うって。そういうんじゃ無いから」
バルコニーから彼の声がした。少し開いた窓から漏れる彼の声は、なんだかとても優しい。
「うん、分かってる。じゃあ明日、ペコ頼むな」
その瞬間、この部屋に足りない『何か』に気付いた。ペコだ。
ペコというのは奈央の飼っている雌のトイプードルで、雑誌で一緒に映る写真を何度か見かけた。黒目がちのとても可愛らしい子だ。そのペコを奈央が信頼して預けられる関係といったら……。
(――彼女、いるのか)
そりゃあ、有名人だからって恋人がいないわけが無い。けれど、実際目のあたりにすると結構ショックは大きい。思わず、ため息が零れる。
「どうした?」
上から降ってくる声に顔を上げると、いつの間にか奈央が傍に立っていた。
「いえっ。シャワー、ありがとうございました」
「じゃあ俺も入ろっかな。部屋にあるもん好きに使っていいから」
心なしか声が弾んでいるように思えるのは、気のせいだろうか。鼻歌混じりで部屋から出ていくと、しばらくしてシャワーの水音が聞こえてきた。
手持ち無沙汰になり、飲みかけだったコーヒーに口をつける。冷めきっていて苦かった。テーブルに置いたままの奈央が使っていたマグカップをよく見れば、私の持つものと同じデザインだった。
赤と黒。色違いのマグカップ。
「…ペアカップなんてベタなことしちゃうんだ」
手の中の赤いマグカップは、基本色で統一されたこの部屋の中で唯一鮮やかで、その存在を暗に主張しているかのようだった。
「あー、さっぱりしたー」
しばらくして髪を拭きながら、奈央が戻ってきた。整った目鼻立ちが、濡れた前髪の隙間からチラリと覗く。捲った袖口から伸びる筋肉質な腕。意外と着痩せするタイプなんだなぁ。
「なんか静かだけど眠い?」
湯上がりの奈央に見とれていました…なんて言えるわけもなく。曖昧に笑って見せると、奈央はそれを肯定と受けとめたらしい。
「良かったら少し寝ていきなよ。俺も明日行くとこあるから、今のうちに休んどきたいし」
…彼女の所、だろうか。
「あ、どうぞ休んで下さい」
嫌な自分を振り払うように努めて明るく言った。
「いや、俺ここ使うから。穂花ちゃんベッド使って」
「そんな悪いです! 私ここで充分ですから。喉も痛めますし」
「煙草ん時と言ってること違う」
「それとこれとは話が別です」
ゴロンとソファーに横たわる奈央の体を起こそうと、腕を引くもビクともしない。
「寝室は風呂場の向かい。帰る時は声かけて。駅まで送るから」
「……」
お願いだから、そんなに優しい言葉をかけないで。ただでさえ真也のことで心が弱っているのに。
あんなに一緒にいたのに。誰よりも近くにいたはずなのに。
――ごめん、穂花。
最後に聞きたかったのは、そんな言葉じゃなかったのに。
「…穂花ちゃん?」
上半身を起こした奈央が、そっと私の頬に触れた。
「あっ…ご、ごめんなさい。ちょっと思い出しちゃって…」
小さく笑って誤魔化し、奈央から離れる。
「真也…元彼なんですけど、彼もよくソファーでうたた寝しちゃって。その度に腕引いて起こしてたなって…」
やばい。涙が止まらなくなってきた。平気だと思っていたのに。
「…。よし、分かった」
奈央はソファーから立ち上がると私の手を取り、寝室へと連れていく。廊下からこぼれた明かりがぼんやりとベッドを浮かびあがらせる中、奈央は私をベッドへ導き右端に座らせる。
「はい到着。穂香ちゃんは、ここね」
「でも奈央が…」
すると奈央はニヤリと笑うと、
「俺もここで寝れば文句無いんでしょ?」
反対側からモゾモゾとベッドに入り込んだ。
「なっ…何言ってるんですか! 一緒になんて無理ですっ」
「だからさっきソファーで良いよって言ったじゃん」
布団から顔を半分出して膨れる彼を、不覚にも可愛いなんて思ってしまった。
「私、ソファー戻りますから…」
「待って」
ベッドから離れるよりも早く、奈央に引き止められる。
「気にせず休んでください。とにかく無理なものは無理です」
「女の子ソファーに寝かせて熟睡出来るわけないでしょ。ここで一緒に寝るか、俺がソファーで寝るか。どっちか決めて」
「…無茶言わないでください」
「あと十秒」
「奈央…」
「九ー」
本心を言えば、喜んで一緒に眠りたい所だけれど、彼女がいるとなれば話は別だ。
「手、離して下さい」
「却下。あと三秒ー」
「…頑固」
「それこっちのセリフ。はい、ブブー。時間切れ」
…知らないからね、私。
ふぅ、とため息をついて奈央を見つめた。観念したと分かったんだろう。右側の布団を少し持ち上げると、
「おいで」
そう、囁いた。
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