いいよ、おいで。
1
…どうしてこんなことになったんだろう。
「散らかってて悪いけど、どーぞー」
笑顔で平然と言う奈央の考えが計り知れなくて、玄関に立ちつくしたまま動けずにいた。
◇◇◇
あの後、私達が向かった先は落ち着いたお座敷で、すごく美味しいお鍋をご馳走してもらった。
お酒好きな義人君は失恋した私を気遣ってか、真っ赤な顔をしながらメンバー内の面白い話をたくさん聞かせてくれたし、お酒が飲めない奈央は、そんな義人君の話に絶妙な突っ込みを入れて更に盛り上げた。
すごく楽しくて。夢みたいで。二人と一緒に笑っているうちに、真也につけられた傷が癒されていくように思えた。
反面――怖かった。夢はいつまでも続かないと、分かっていたから。
「さてと、どうしよか」
完全に酔い潰れた義人君を家まで送った後、奈央は煙草を取出し目の高さに掲げる。
「どうぞ、吸って下さい」
「ありがと」
薄暗い車内に浮かぶ火が、彼の横顔を一瞬照らしだす。その伏し目がちな瞳を、ライターを持つ指を、心に焼きつけてたくてまばたきも忘れて見つめる。
「雨、まだ強いね」
フロントガラス越しに広がるどんよりとした雨雲。唇に煙草をくわえたまま奈央は車を発進させた。
「で、どうする? 帰るとこ無いんでしょ?」
「大丈夫ですよ。適当に駅で降ろして下さい」
「降ろしてって、まだ電車動いてないけど」
「とりあえず…家に一度戻ります。荷物も取ってこないと。あの、本当に大丈夫ですから」
心配させまいと笑顔を向けるも、上手く笑えている自信は無かった。
「今日は本当にありがとうございました。すっごく楽しかったです」
何も期待していない、と言えば嘘になる。けれど、口から出るのは本心とは裏腹な締めの言葉。赤信号で車が止まる度、内心喜んでしまう。
もうこんな風に会うことなんて二度と無いだろう。半ば、自棄になっている部分もあるのかもしれない。それならばいっそあわよくば…なんて考えてしまう自分がいた。
「始発まで時間つぶすとしたら…。あ、そうだ」
奈央の言葉に我に返る。分不相応な望みを描いていた自分を、心の中で小さく笑う。
――これが現実だ。今でさえ、あのニーナの奈央の車に。しかも助手席に二人きりで座っているという、いちファンからしたらありえない幸運だというのに。
これ以上を求めるなんて。
それから少しして、車は閑静なマンションの一角に止まった。
「はい、到着ー」
「ここは…」
「俺んち」
「えっ?」
驚いてマンションを見上げる。
「ここなら少し行けば地下鉄あるし、なによりタダで時間つぶせるでしょ」
「…いいんですか?」
心の中を見透かされたような気分だった。奈央の目を見つめる。けれど私には、彼の心の中を読むことは出来なかった。押し殺したはずの期待が、じわじわと再び胸の内に広がっていく。
「いいよ、おいで」
その、短い一言。
それがこれから先、幾度となく耳にする言葉になるだなんて、この時の私は予想だにしていなかった。
「どうしたー?」
奥から届く奈央の声に、とりあえずパンプスを脱ぎスリッパに足を通す。声のした方へ向かうと、そこはリビングだった。
「好きなところ座って。えーっと飲みものは…コーヒーでいい?」
「あ…はい。すみません」
使い勝手の良さそうな対面式のキッチンにいる奈央に答えると、黒いレザーソファーに腰を降ろす。
ここで奈央は暮らしている。そう思うと何とも言えない気分だった。でも…何だろう、何かが足りない気がする。
「はい。熱いから」
差し出された赤いマグカップを受け取ると、コーヒーの良い香りがたちこめた。
奈央は左向かいに腰を降ろすと、本日何本目かも分からない煙草に火を着ける。本当にヘビースモーカーなんだなぁ、と吐き出される煙を見るとも無しに追っていると、
「吸って良いことなんて一つも無いんだけどね」
視線に気付いた奈央が、唇の端を歪める。
「まぁ、確かに良くは無いだろうけど…別にいいんじゃないですか?」
すると奈央はいきなり笑いだした。
「えっ、変なこと言いましたか?」
「別にいいんじゃない? って。吸い過ぎだって西岡さんにもしょっちゅう怒られるのに」
ククク…と笑いを噛み殺す様が悔しくて、
「煙草ごときで弱るような軟弱ボーカルじゃないでしょっ」
なんて言った私の頭を「そのとーりっ!」と、奈央の大きな手のひらが優しく撫でる。触れられた箇所に全神経が集中して、胸がドキドキと早鐘を打つ。
「ずっと外いたし疲れたでしょ。シャワー浴びなよ。着替えも貸すし」
「そ、それって……」
明らかに動揺する私を見て、奈央は小さく吹き出した。
「変な心配しないの。大事なファンに変なことしないから」
その言葉が心の奥をチクリと刺して、淡い期待はみるみるとしぼんでいった。
「じゃあ…お言葉に甘えて」
「ここ出て右ね。はい」
渡されたスウェットを抱え部屋を後にする。
何を根拠に期待していたんだろう。一気に夢から覚めた気分だ。
奈央はあくまでもニーナの奈央で。私はどこまでもいちファンにしか過ぎないのに。ほんの少し一緒にいただけで、家に呼ばれただけで自惚れてた。
…違う。私は真也に仕返ししてやりたかったんだ。
私だけが一方的に騙されていたんじゃない。男なんて真也だけじゃない。あの奈央が私を。奈央に抱かれることで、それらが全て満たされるような気がしていた。
「…サイテー」
汚い自分を洗い流したくて、私は熱いシャワーを頭からかぶった。
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