3
サングラスの奥の瞳が、一瞬丸くなる。
「気に入られて立場上、断れず何度か会ってたんだそうです。浮気心が出たんでしょうね。その内、相手の誘いに乗ってしまって…今日、知らされたそうです」
床に額を押しつけたまま彼は言った。今、会社を辞めるわけにはいかない。こうなったからには男として責任をとる。だから、別れて欲しい――。
長い話を終えて隣の彼を見る。何も言わず、ただ黙って私の声に耳を傾けてくれた。
「…呆れちゃって何も言えなかった。忙しくて会えないって言ってた時、彼は浮気中で。今日だって会社に浮気相手が来て、それで遅くなって…」
土下座する彼を目の前にしても、何も言葉が見つからず立ちつくす私。テーブルの料理は、もはや何の意味も持たなくて。
――ごめん。本当にごめん。俺、こうして謝ることしか出来ない。
その言葉を最後に、私は部屋を出ていった。
「それからずっとここに?」
小さく頷く。無意識のうちに手に持っていたのは買い物用のバッグ。中には夕食の買い出しでほとんど使ってしまった小銭入れと、今は見たくもない家の鍵があるのみ。
必要最低限にも満たない荷物で出てきてしまった為、知り合いを呼ぶことも出来ず、ふらふらと歩いていた私の目に――飛び込んできたもの。
「だからって外にいることないでしょ。こんな寒い中」
…この人なら笑わないだろうか。見ず知らずの女の話を、ここまで真剣に聞いてくれた彼なら。私が、ここに居る理由を。
「あれ、分かりますか?」
私の指さす先へ彼が視線を向ける。帰る場所を無くした私の目に飛び込んできたもの。それは。
「あれって…タワレコの広告?」
私は頷いた。彼が再び目を丸くする。
「あれ見てたくてここに?」
もう一度頷く。信じられないと言うように、彼は口元に手をあてた。
まぁ、理解しろと言う方が無理な話だろう。けれど、ふいに彼は小さく笑うと、『ちょっと待って』と手のひらで示し車の窓をノックする。
「何? 終わった?」
中の人が下げた窓から顔を覗かせた。
「この子、ニーナのファンだって」
「えっ、ホントに? 誰ファン?」
中の人の勢いに押されつつ、
「な、
そう答えると、
「っしゃあ!」
「うわっ、マジかー…」
喜ぶ彼とは対照的に、落ち込む中の人。キョトンとする私に気付き彼は、
「あぁ、ごめんごめん。勝ち逃げされずに済んだ」
「はぁ…」
何だかよく分からないけれど、話を聞いてもらえたことで少し気分が楽になれた。
「私、行きますね。話聞いてくれてありがとうございました」
「え、行くってどこに?」
「飲み物買いにいくところだったんです。それじゃあ」
「待って!」
歩きだした私の腕を、彼は引き止めた。
「ホントにずっとここにいる気? 友達…は番号分かんないか。あ、ほら! 実家とか」
彼の言葉に、曖昧に微笑む。
実家までは電車で一時間半。迎えを頼めない距離じゃないけれど、今すぐ真也とのことを説明出来る気持ちにはなれない。
「この道、まっすぐ行って一つ目の角曲がるとファミレスあるから。こんなとこいたら風邪ひくよ」
「でも、見れなくなっちゃうから」
「ニーナが?」
「ニーナが」
馬鹿な女だと思われてもいい。自分自身、何やってるんだろうって呆れてる。
でも、不自然なくらい明るいファミレスに一人で居たら余計に寂しさで苛まれてしまいそうだ。だったら、大好きなニーナが見えるこの場所で、静かに彼らを見ていたい。
他の何も、考えなくて済むように。
「それじゃあ」
再び去ろうとするものの、彼は私の腕を離さなかった。
「あの…?」
小首を傾げる私に彼は、
「ニーナのファンって聞いたら、なおさら放っておけないでしょ」
と、苦笑した。彼の言葉に車の中の人も頷いていてる。
「…もしかして事務所の人ですか?」
「へ?」
彼が呆気にとられる。そうだよなぁ。いくら何でもそれは都合が良すぎる話だ。
「あ、そうか。あなたもファンなんだ」
サングラスで顔は分からないけれど、目鼻立ちや輪郭からしてイケメンっぽいし。バンドでも組んでいそうな雰囲気だ。
「どうなの? これ」
彼が振り返ると、車の中の人も苦笑を返す。
「…しょうがないなぁ」
と、彼は私に一歩近付くとサングラスを外した。街灯の影に重なり良く見えない。更に彼に近付く。その顔をじっと見つめ……、
「え……?」
顔を上げ広告を見上げる。奈央が写っている。鋭い眼差しで街を見下ろしている。
目の前の彼を見る。涼やかな二重が優しく微笑んでいたけれど、その奥の瞳はあの人のように強い輝きを放っていて…、
「?!」
息を詰めた私に、
「自分、気付くの遅い。ファン失格」
と、笑いながらサングラスを戻した。
「……本物、だ」
――ニーナの奈央が、そこに立っていた。
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