初日の出Magic(1)#新たなステージへ

 繰り返し伝わる微かな振動に、瀬尾理人は目を開けた。

 自室のエアコンが、モーター音と共に暖気を吐き出している。勉強中に、うっかり転寝をしてしまったようだ。普通ではあり得ない角度に曲げていたのか、首が痛い。

 のそりと頭を上げると、張り付いた参考書のページを頬からはがした。机の端で液晶画面を光らせるスマホへ手を伸ばす。触れた途端に、また小さく振動した。


 ゆーや『元日、兄貴が持ちビルの屋上開放してくれるって。初日の出、見ようぜ』

 Hayato『亮兄? 気前いいな』

 みのりん☆『いいね! 見たい!』

 由嵩『勇哉のお兄さんって、ビル持ってるんだ』

 ゆーや『ボロだけどな。明日天気良さそうだし』

 Hayato『りょ。由嵩、風間も呼べよ』

 由嵩『来るって』

 ゆーや『レス、早!』

 Hayato『どうせデート中だろ』

 ゆーや『え、付き合ってんの。マジか』

 由嵩『図書館だよ』

 Hayato『大晦日のこの時間に図書館開いてねえって』

 みのりん☆『そういえば、最近Libraryって名前のオシャレな喫茶店できたんだってね』

 Hayato『らしいね。雰囲気がいいって評判の』

 ゆーや『なぬ!』

 由嵩『いや、真面目に勉強してるよ』

 Hayato『何の勉強かな』

 由嵩『ちょ。そういうのじゃないって』

 Hayato『どういう?』

 由嵩『お前と一緒にするな』

 Hayato『何を想像しているか知らないけど、俺たちは健全だぞ』

 ゆーや『て言いながら、みのりんと、とか、言わないよな』

 みのりん☆『言わないよ。部屋の片付けしてる』

 Hayato『俺、バイト終わったとこ』

 Hayato『美祈もいるんだから、下ネタ禁止な』


 賑やかな遣り取りを眺め、理人は訝しくスマホを確認した。

 自分のものだ。いつぞや、理人に成り済ました隼人が佐倉と会話していたときのように、入れ違っているわけではない。

 そもそも、と頬を掻いた。弟の発言が出てくるのだから、弟のスマホなわけがない。自分がこのコミュニティに加えられているのは間違いない。それすら気が付かない程に寝ぼけていた。


 目覚め直後の寒気を感じ、上着を引き寄せた。

 何故、自分まで加えられているのだろう。上着を羽織った状態で、首を傾げた。ごき、と鈍く鳴る。痛みが少し和らいだ。

 疑問を、そのまま液晶画面へ打ち込む。


 Licht『ところで、なんで僕も?』

 Hayato『げ。りっくん』

 みのりん☆『お兄さん? はじめまして~』

 由嵩『え、隼人のお兄さん?』

 ゆーや『面子メンツ見て察してよ。独り者仲間が欲しいんだよ』

 Licht『ひどいな』


 苦笑した。確かにそうだけど、としばらく考え、指先を画面へ滑らせる。


 Licht『じゃあ、僕も誰かに声かけていい?』

 ゆーや『裏切り者!』

 Hayato『佐倉さん? 邪魔しちゃだめだよ』

 Licht『邪魔とはなんだ』

 Hayato『もれなく正木さんが付いてくるって』

 Licht『彼らの邪魔をするつもりはないよ』

 ゆーや『兄弟げんかするなーっ』

 みのりん☆『仲いいんだね』

 Licht『良くない』

 Hayato『良くないって』

 由嵩『被ってるw』

 Hayato『年始は、大切な人と過ごさせてあげなよ。理人は、どうせ朝弱いだろ』

 Licht『朝練で起きれていたから問題ない』

 Hayato『今朝だって、俺が出るとき寝てただろ』

 Licht『寝つきが悪かったからね。なんなら、徹夜するし』

 ゆーや『あー』

 ゆーや『喧嘩する悪い子は、初日の出に代わってお仕置きよ!』

 Hayato『やめろ。きしょい』

 Licht『やめて。きもい』

 由嵩『また被った』

 みのりん☆『仲良しだー』


 仲がいいとか悪いとか。

 そういえば、あまり気にしてこなかった。

 険悪ではないのだろう。少なくとも、顔を合わせれば罵りあう間柄ではない。普通に話すし、目的が合致すれば一緒に買い物へ出かけることもある。

 どうなのだろうかと考えていると、新しい名前が出てきた。


 星花『ご招待、ありがとう。明日の日の出時間、後で送るね』

 ゆーや『誰かと思ったら、風間か』

 みのりん☆『綺麗な名前』

 星花『ありがとう。せいかって読むの』


 他愛の無い会話が画面上で取り交わされる。無音で、しかし楽しそうな遣り取りに理人は頬を緩めた。

 弟は、どうやらいい人たちに恵まれているようだ。


 そういえば、隼人は家で学校の話をしない。たまに勇哉からもらうメッセージについて問えば、答えてくれる程度だ。森野美祈と付き合い始めたことも、勇哉からの報告で知った。

 たまに部活もバイトもない日、食事の時間が合えば話をしていたつもりだった。しかし、思い起こせば、隼人の問いかけに理人が答えていた。後は、人気アイドルやスポーツの話題か。隼人が自身について語ることは少なかったと、今更ながら気が付く。


 スマホの画面にポンポン浮かび上がる遣り取りから垣間見える隼人の姿が、妙に新鮮だった。


 苦手な英文読解を続ける気力を失い、組んだ手を天井へ伸ばした。

 会話の様子では、もうじき隼人が帰ってくるだろう。階下へ行って、久しぶりに夕飯の手伝いをしてこよう。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。カーテンを閉め、机の上を片付けた。


 参考書に重ねた本へ視線を落とし、溜息を漏らした。

 英語力を上げるために読むといい、と勧められたイギリスの児童書。もちろん、中も英語だ。主人公達が異世界へ迷い込み、様々な困難を乗り越えていくファンタジー小説。

 この本の影響だろうか。最近、繰り返し夢に見る景色がある。


 高い山。稜線を覆う草地。老木。眼下はるか遠くに霞む町。


 はっきりと覚えているわけではないが、実際に目にした風景でないことだけは確かだった。ファンタジーを実写化した映画のポスターの雰囲気にも似ているが、違う。

 しかもそこに、正木や佐倉、隼人や他の人たちが出てくる。彼らの着ている服も、ファンタジーっぽい。

 彼らと何をしたか、どのようなことを話したのか、目を覚ませば忘れている。残っているのは、愛しく、懐かしく、切ない想い。寝起きに、涙で枕が湿っていたこともあった。


 もともと、小説は好きだがファンタジーは好んで読まない。なのに、その世界に居るような、リアルな感覚が残るのは、何故だろう。


 受験のストレスだろうか。


 自分では頑張っているつもりだが、第一志望校の過去問を解いても半分しか解けない。一日、また一日と受験日は迫るが、集中力が足りず、さっきみたいに寝落ちてしまう。

 数ヵ月後。

 四月になったとき、自分は一体、どこで何をしているのか。全く想像がつかなかった。

 初日の出を見に行く。

 本当は、そんな余裕も自分には許されないかもしれない。けれど。

 理人は、スマホを手にした。さっきと異なるグループのメッセージ画面を開いた。



 初日の出を見るビルは、住宅街の一角にある五階建てだった。この界隈でそう高いほうではない。しかし、東側は、遠くに水平線が見えるかと思うほどに開けていた。


「絶好じゃん」


 先に来ていた隼人が、暗がりでも錆びの目立つフェンスに手をかけて身を乗り出した。


「ハヤ、それだいじょ……」


 理人が最後まで言わないうちに、ピシリとフェンスが軋んだ。悲鳴を上げ飛びのいた隼人を、勇哉が口の前に人差し指を立てて嗜める。


「静かに。声、響くんだから」


 外階段を上っている時も、何度も言われたことだ。

 周囲の民家やマンションはとっぷりと暗闇に沈み、一部を除いて寝静まっている。ちらほらと灯りがついているのは、夜通し起きて年越しを迎えた人か、それとも、初日の出を見ようと早起きした人か。元日にも関わらず、出勤しなければならない人かもしれない。

 普段は鍵を掛け、放置されているという屋上は、がらんとして、廃墟を思わせる侘しさがあった。しかし、隼人と勇哉、美祈、由嵩、風間の五人は楽しそうだ。コンクリートの床の割れ目へ指を突っ込んでみたり、欠片をはがしてみたり。身体は大きくなっても、やることは小学生と変わらない。


「隼人君、楽しそうだね」


 正木が白い息を吐いた。

 正木と佐倉、理人は、一年生たちから距離をとって並んでいた。隼人が茶化した事態になったのではない。最初から理人は、二人を初日の出に誘った。


 卒業すれば、別々の場所へ散ってしまう。会おうにも、日程を合わせることすら難しくなるだろう。

 部活だけでなく、様々な場面で二人には世話になった。もしかしたらそれは、理人が一方的に頼っていただけかもしれないが、高校生時代を支えてくれた二人と、特別な日の出を拝みたかった。

 隼人が指摘したように、迷惑かもしれないと不安だった。が、メッセージを送るとすぐ、正木が乗ってきた。しばらくして、佐倉からも快諾の返事を得た。

 安堵すると今度は、隼人たちと面識のほとんどない彼らが肩身の狭い思いをしないかと、気がかりになった。お陰で、昨夜もなかなか寝付けなかった。例の夢も見てしまった。

 杞憂だったようだ。正木は、小声で騒いでいる高校一年生たちを、温かな眼差しで見つめている。佐倉もまた、寒さのため小刻みにジャンプをしながら頬を緩めていた。


 寄りそうように並ぶ正木と佐倉。大股で一歩横へ踏み出した距離に理人。それでも、嫌ではなかった。


 理人はマフラーに鼻先を埋めた。佐倉のことは、今でも異性として好きだ。しかし、失恋を知った直後のように、隙あらば自分が彼女の恋人になろうとは思わなくなっていた。

 こうして仲睦まじく寄りそう二人を見ているのが心地よい。彼らが並んで隼人たちを見守る姿を見ていると、何故だかほっこりと温かな気持ちになれた。


 刹那、何かを感じた。が、捉えきる前に、消えてしまった。あの不思議な夢を見た後のような感傷に襲われる。


 不安なのか。迫り来る受験日。数ヵ月後に、今の日常が大きく変化することが、怖い。

 中学から高校に上がるときも、同じように感じただろうか。すでに、覚えていない。現在の不安でいっぱいいっぱいだ。


 東の空が白んできた。


「もう少しね」


 風間がスマホで時間を確認する。

 一年生達は、こぞってフェンス近くに並んだ。


「押すなって」

「マジこのフェンスやばいよ。亮兄に、ちゃんと補修するように言っとけよ」

「さあ、そこに金を使うかな。入り口にでかい南京錠つけるほうが安いって言いそうだ」

「なるほど、それは合理的だ」

「由嵩、それはちょっと」


 クスクス笑いあい、カップル兄妹構わず肩がくっつくほどに身を寄せている。寒さ対策で着込んでいるので、後ろ姿は細身の隼人ですらいつもよりふっくらしていた。電線にとまったスズメのようだ。


「さみー」

「そういえば、イギリスの新年ってどんな感じ?」


 県下一の進学校に通っているという由嵩は、このようなところでも勉強熱心だ。

 産まれて十年以上をイギリスで過ごしたという風間が、首を傾けた。顎のラインで切りそろえたストレートヘアの先が、重力に従ってマフラーの表面を撫でた。


「地域にもよるけど。私の家では、カウントダウンの花火を遠くから見て、新年になったと同時に家の扉を開くの。そうして古い年に出て行ってもらって、新しい年を招くっていう」

「小人みたい」


 無邪気な発言をする美祈を、隼人が目を細めて見つめる。師走に入って破局の危機もあったと勇哉から聞いていたが、解決したのだろう。腹が立つほど幸せそうな表情だった。


「でも、日本のような厳かさは無かったかな。賑やかなパーティって感じで。こっちでの正月も何度か経験したけど、やっぱり不思議な感覚ね。年が変わると共に、何もかもが新しくなるっていう考え方は」


 最後のほうは呟くように言い、風間は東の空へ目を移した。


 何もかもが、新しくなる。


 理人も、彼女に倣って水平近くの空をみやった。

 藍色の夜空の下端が、細く、薄い黄色に染まりつつあった。淡いグラデーションの境には、目を凝らすと緑色の層も存在した。空に、緑色があるのを、初めて意識した。


 理人は視線を僅かに下げ、美祈へ囁く弟の横顔を見つめた。


 この一年間は、弟に振り回された。

 交通事故、自傷行為、その後のわざとらしい日常生活。師走に入ってからの、不穏な情緒不安定。


 それまで、隼人と兄弟であると強く意識したことはなかった。親も、兄だから、弟だからと口にすることなく、ただ個人として扱っていた影響もあるだろうか。同じ屋根の下で過ごしていても、最も近い友人くらいの気持ちで接していた。

 しかし、隼人を襲った荒波は、訳の分からないまま理人の人生をも揺さぶった。


 もともと、他人と深く関わることを好まない。踏み込まれるのが、嫌だった。誰かの心に踏み込むのも、避けて通っていた。

 しかし、隼人を見ていると、気持ちが変わった。半分は、自分に降りかかる火の粉を払うためでもあったが。

 隼人のどのような想いが行動に出ているのか探りたくなった。初めて、肉親として、兄として何かしてやれることがないか、模索するようになった。

 それが、心理学に興味を持ち始めたきっかけだった。

 だからといって、今回、理人の尽力が隼人を泥沼のような落ち込みから掬い上げたのではない。


 彼を救ったのは、間違いなく美祈だ。


 兄という、一般的に弟より「上の立場」でありながら何も出来なかったことは、正直悔しかった。無力さを突きつけられて空しかった。

 しかし、結果として、良かったのだ。


 家族は、そのうち離れていく。底辺でつながり続けると言っても、進学、就職の過程で距離ができる。それよりも、その先長い人生を共に歩んでくれる可能性のある美祈に支えられるほうが、隼人にとって重要かもしれない。

 隼人に寄り添う美祈の後ろ姿は、小さいながら頼もしかった。


 ふと、隼人への感情が、弟へのそれよりも、父親が子へ寄せる想いに近いと気付き、苦笑した。何歳の時の子だよ、と心中で自分にツッコミを入れた。


 水平線に赤みが増した。いまや、西の空の星も光を薄めていた。細く浮かぶ雲が輪郭を黄金に変えていく。互いの顔も景色も、はっきりと見えるまでに明るくなっていた。


「そろそろじゃね?」

「風間、あと何分」

「予定では、もう日の出ね」


 お、と誰かが声をあげた。

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