Here we stand(4)

 冬の穏やかな日差しの中で、花弁が揺れた。

 閉じていた瞼を静かに開き、隣を窺う。並んでしゃがんだ隼人はまだ、手を合わせていた。

 低いアングルから墓石を見上げる。


 彩瀬家の墓。


 鄙びた郊外にある寺院が所有する、日当たりのよい墓地の一角だった。彩瀬の説明が的確だったので、同じような墓石が並ぶ中からすぐに見つけることができた。

 隼人の長い睫毛が、ようやく持ち上げられた。同時に、一粒の涙が零れ落ちる。


「伝えられた?」


 答えは、かすかな頷きだった。

 花立に入れるとき切り落とした茎の先などをまとめた袋を手にすると、隼人は再度墓石へ頭を下げ、立ち上がった。

 美祈も続く。が、ふわりとした感覚に足を踏みしめた。

 肩を抱きとめられた。心配そうな隼人に、美祈は笑って、拳で自分の頭を軽く叩いた。


「最近調子がいいから、油断しちゃった」


 えへ、と舌を出して、おどけてみせる。


「本当に? しんどくなったら、ちゃんと言えよ。タクシー呼べるくらいは持っているから」


 そういう隼人のほうも、久しぶりの外出だからだろうか。まだ気持ちが整理しきらないのだろうか。ぼうっとしている。


 手袋をしていない手を握ろうとして、伸ばした腕を引き込めた。


 墓所には、年末の墓掃除にきている人の姿がちらほらと見受けられた。冷たい水に手を浸し、墓石を丁寧に拭っている人がいる。小さな子に、墓に眠っているのがどんな繋がりを持った人か教えている人がいる。その中を俯き加減で歩く隼人の背中は、話しかけづらかった。


 大根や白菜の青葉が僅かな彩を添える畑を横目に、見通しの良い小道を曲がってバス通りに出た。寒風を受けて、バス停を示す看板がぽつねんと立っていた。

 路側帯もまともについていない細い道だ。人気のない家屋が、静かに来る新年を待って佇んでいる。

 運行案内をみやった。次のバスの到着予定まで十分ほどある。人影が無く、行過ぎる車も僅かな道路の傍で、ふたりのほかに待つ人はいなかった。

 いたたまれない沈黙が続いた。

 静かに、時間だけが過ぎていく。

 ようやく、目の前を一台の乗用車が通り過ぎた。可能な限り道端に寄った。隼人と肩が触れ合った。


「今日は、ありがとう」


 立ったまま、隼人がぽそりと言った。別れが滲み出ていた。

 ううん、と美祈は頭を振った。顔に浮かぶのは微笑みだったが、今の精一杯の笑顔のつもりだった。拭いきれない不安と緊張が、陰りを強めていた。

 バスに乗れば、立ち入った話は難しい。駅に着けば、後は別々の方角に帰っていくだけだ。それきり、ただの陸上部員とマネージャーの間柄に戻ってしまうのだろうか。


 話すなら、今しかなかった。


「隼人は、私が側にいると、辛い?」


 亡き恋人の心臓を持つ者。事故の際の後悔は、彩瀬の話を伝えることで薄まったかもしれないが、悲しみと未練は簡単に、年末の大掃除のように払い落とせるものではない。

 わずかに背けた顔からは、彼の考えが読み取れなかった。

 美祈は、と聞こえてきた声は、通り過ぎた車のエンジン音に紛れそうなほど弱かった。


「嫌だろ。ずっと、前の彼女を引きずっている男なんか」


 嫌じゃない。返事は、きちんと声になっていただろうか。


「美祈に、辛い想いをさせたくないんだ」


 やや強く言われ、美祈はカッと頬を染めた。湧き起こる熱い衝動に、顔を上げた。


「なにが辛いかは、私が決める」


 勢いに、隼人は驚いたようだ。見下ろす眼差しが、狼狽していた。感情をとめられず、美祈は続けた。


「私も勇哉も、隼人がひとりで全部抱え込んでるのが辛いんだよ。八つ当たりでも泣きつくんでもいい。もっと、甘えてほしい。夏菜さんのことを思い出すのは全然構わない。むしろ、忘れないであげて。夏菜さんは」


 精一杯に張った胸へ手を当てた。この手の下。力強く響く拍動。


「まだ、ここで生きてるんだから。私と一緒に」


 隼人が息を飲んだ。尖った喉仏が上下する。

 張り詰めた表情が、痛かった。


「側にいさせて。もし、隼人が少しでも必要としてくれるのなら」


 言いきって、残りの息を吐き出した。

 これで彼を引き止められないなら、諦めるしかない。これが、美祈のできる全てだ。

 くしゃりと、隼人の表情が崩れた。ひとり、迷子になっていた幼子が母親を見つけた時のような。そんな泣き出す一歩手前の顔で、腕が伸びてくる。


「は、隼人」


 抱き寄せられた。いつも歓喜の情に任せて誰彼構わず抱きつくくせに、美祈は慌てた。人目を気にして、目だけ動かして周囲を窺う。しかし、閉ざされた窓や扉に人影はなく、ただ、冬の陽だまりの中、ブロック塀を伝い歩く猫がいるだけだった。


 そっと腕を上げた。隼人の背中へ腕を回す。細いようで、美祈の腕に収まりきらない。

 走りこんで引き締まった胸元へ、顔をうずめてみる。鼓動を感じた。力強い。隼人のものなのか、自分の鼓動が反響しているのか。


「ありがとう」


 頬に触れた温もりは、隼人の唇だった。鼓動が跳ねた。上目遣いで窺うと、一度顔を離した隼人は親指の腹で美祈の唇を撫でた。問われるような眼差しに、美祈は目を閉じた。そのまま受け止める。

 やわらかく重なった唇に、鼓動が早まる。イルミネーションの夕暮れに隼人を探して走ったときよりも速い。持ちこたえられるかと不安になりながら、心を満たすのは幸福だった。


 低いエンジン音をたててバスが停まった。油圧式の扉が開く。運転手のぼそぼそしたアナウンスに、カードリーダーの電子音が数回重なった。しばらくエンジン音のみが単調に繰り返される。マイクを通して咳払いがした。


『駅行き、扉閉めます』


 やや間があって、空気の抜ける音と共に扉が閉まった。一度唸りを上げ、エンジン音が遠ざかる。

 静けさが戻った。スズメが小さく囀った。


 美祈は、火照る唇を隼人から離した。


「バス、行っちゃったよ」

「乗れるかっての」


 口元に手をあてた隼人の顔は、真っ赤だ。たぶん、美祈も同じだろう。


「次のバス、40分後だねぇ」

「歩いたら駅に着きそうだな」

「歩く? 待ってても寒いし、見た感じ、入れるお店ないし」

「そんなに歩いて、大丈夫なのか?」


 未だ隼人の腕の中で、美祈は頷いた。


「夏菜さんの心臓だもん。強いんだよ」


 えへへ、と笑ってみせた。

 隼人が、唇を引き結ぶ。やや険しい目で見つめられ、美祈は首を傾げた。ぶっきらぼうに顔を逸らせた隼人が呟く。


「また、したくなるだろ」

「え」

「恥ずかしいこと繰り返させんなよ」


 短い髪から見えている耳が、赤かった。ようやく理解し、美祈の頭からも湯気が噴出しそうになる。

 隼人はそのまま、踵を返してバスの後を追うよう歩き始めた。慌てて続こうとした美祈は、背後から呼び止められた気がして振り返った。

 畑の小道で、制服姿の少女がこちらを見て佇んでいた。癖のない長い髪が風に揺れている。吐く息が白い寒さなのに、彼女は上着を着ていなかった。

 美祈と目が合うと、彼女は笑った。爽やかな笑みが満面に広がった。唇が動く。


『よかった』


 鼓膜を震わせる声は届かなかったが、そう、言っているように思えた。


「どうした?」


 隼人が心配そうに待っていた。曖昧に頷き、もう一度背後を見る。

 先程の彼女の姿は無かった。

 どこかで見たことがあるような。

 記憶を巡った。そういえば、形の良い目は彩瀬に似ていた。柔らかく微笑んだ優しい顔も、彩瀬を若くした感じだった。


 夏菜、だったのだろうか。


 コトリと、胸が鳴った。美祈はそっと、手を心臓に添えた。

 怖くはなかった。

 夏菜の心はまだ、ここにある。美祈と共に、隼人のこれからを側で見守ってくれている。

 そう思うと、滲み出たのは温もりだった。


 隼人に追いつき、勢いよく腕へしがみついた。受け止める隼人がはにかむ。

 彼となら、そして彼女の心臓となら。きっと、どんな道でも、どこまでも歩いて行ける。


〈Here we stand・了〉

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