Here we stand(3)

 ダークブラウンの重厚なテーブル、壁に点るランプ風の照明、革張りを模したメニュー表。シックな内装の店内に流れるのは、落ち着いたクラシックと芳ばしいコーヒーの香りだった。

 喫茶店など、初めて入った。しかも、テレビで見るような高級そうな店だ。横目で見たメニューの値段も、普段利用する店の倍以上の金額だった。


「コーヒーで大丈夫だったかしら」


 微笑む彩瀬の前で、美祈は反射的に首を縦に振った。しまった、と思ったが、白いシャツに黒のベストを身につけた店員が笑顔で注文を書き付けた後だったので、変更するのも憚られた。それに、こだわりのコーヒーはブラックが一番と、奈美も言っていた。

 場違いなところで、禁を犯して提供者の遺族と向き合っている。膝の震えが止まらなかった。

 全身を強張らせている美祈と対極に、品の良いワイン色のタートルネックセーターを着た彩瀬は、しっとりと店に馴染んでいた。


 注文をとった店員が去ると、彩瀬は名刺を差し出した。

 両手で受け取るんだっけ、とドラマの映像を思い出し、手を出す勢いでテーブルの端に指をぶつけてしまう。

 カウンセラー。彩瀬楓花。


「あ、あの、私」


 交換するものがなく、急いでブレザーの内ポケットを探った。生徒証を引き抜くと、テーブルへ置く。彩瀬は目を細め、そっと小声で名前を読んだ。柔らかく微笑み、礼と共に生徒証を返してくれた。


「いつもは、学校を中心に、貴女のような学生さんの話を聞く仕事をしているの。だけど、今日は、私の話を聞いてくれるかしら」


 先に運ばれていたお冷を一口飲み、美祈はコクリと頷いた。ありがとう、と言った後、彩瀬はゆったりとした椅子の背にもたれた。


「娘が学校帰りに交通事故に遭ったのは、去年の秋だったの。夕方から、雨が降り始めた日」


 知っています。心の中で答える。


「夫は大学で脳の機能について研究をしている人だから、病院で説明を受けて、早くから諦めていた。だけど、まだ解明されていないことも多い分野でしょう? すぐには決断が出来なくて、延命処置を施された娘の脇で何度も泣いたわ」


 母の姿が浮かんだ。美祈が危篤状態から脱したときも、意識が戻って最初に見えたのは母の顔で、目は腫れていた。


「なぜ娘がこんなことになったのか。運転手は、脇見をした娘が信号が変わる前に横断歩道に出てきたと主張したけど、慎重な娘がそんなことするはずがない、て。何度も警察に話を聞きにいって、目撃者を探して。やっと、交差点の反対側で信号待ちしていた人のドライブレコーダーの映像で本当のことが分かった」


 ふくよかなコーヒーの香りが近付いた。失礼します、と店員が柔らかく腰を折り、二人の前に湯気のたつコーヒーを置いた。ウエッジウッドの美しさを堪能する余裕もなく、美祈はじっと湯気の細かい粒子が漂うのを見つめていた。


「娘は、思ったとおり、きちんと歩行者信号が青になって渡っていた。だけど、すぐに立ち止まったの」


 彩瀬は瞼を下ろした。苦しそうに眉を顰めた。しかし、数秒すると再び目を開き、先程と変わらぬ落ち着いた声で続けた。


「車は、横断歩道の直前までブレーキを踏んでいなかった。警察の方の話では、そのまま歩き続けていたら、娘の体はまともに撥ね上げられ、もっと酷いことに、なっていたかもしれないと。だけど、走ってきた男の子が、娘の手を引いたのが映っていた」


 断りを入れて話を中断すると、彩瀬はハンカチで目元を押さえた。娘の最期を確認するのは、辛かっただろう。もう十分ですと、伝えようかと迷った。

 しばらく顔を伏せ、呼吸を整えると、彩瀬は静かに面を上げた。


「どうしてかしらね。そのまま倒れていたら、助かっていたかもしれないのに」


 意味を問い返す美祈に、彩瀬は視線を落とした。


「倒れながら、娘は、私達が見ても、どこかに力を入れたみたいだった。不自然な倒れ方をして、その結果、頭部を強打したというのが、警察の方の見解だった」


 もしかしたら、隼人を。そのまま車の前に飛び出す彼の腕を、体重を利用して引き戻そうとしたのだろうか。

 危険を察して、刹那の間で、そこまで見えていたのだろうか。

 真実を知るのは、亡くなった夏菜と、もし存在するなら神のみに違いない。


 涙に濡れた彩瀬の目に、優しく見つめられた。壁に反射したランプの灯りが映っていた。


「この前、貴女と一緒にいたのが、その人なのね」


 迷わず、頷いた。

 あの沙月という人に理不尽になじられた人なんですと訴えたかったが、言葉が出てこなかった。


「その時はまだ、彼が娘にとって特別な人だと知らなかった。けれど、私には、娘が彼を助けようとしたように見えた。だったら、あるか無いか分からない生還の可能性にかけるよりも、より高い確率で誰かを助けることができる臓器提供をするのが、娘の意志を尊重することだと。結論を出したの」


「夏……娘さんは、意思表明をされてたんですね」

「ええ。軽い気持ちだったと思うけど。健康保険証の裏に記載欄があるのを見て、すぐ書き込んでいたから」


 美祈は、深い息を吐いた。コーヒーの液面が揺れる。湯気はもう消えていた。


「ありがとう」


 思いがけない彩瀬の声に、弾かれるように顔をあげた。彩瀬の微笑みに、一点の陰りもなかった。


「元気な貴女に会えて、本当に、嬉しい」


 移植手術を受けても、拒絶反応や感染症で命を落とす患者も少なくない。そうなれば、せっかくの臓器も善意も無駄になる。


 こちらこそ、と言いかけて、飲み込んだ。


 提供者の遺族と会ってはならない。だから、今ふたりは、たまたま出会った「移植手術を受けた患者」と「娘の臓器を提供したことのある親」の立場で話さなければならない。彩瀬は、始終、その点を意識して話をしていた。その努力を、反故にしてはいけない。


 あとね、と彩瀬はすっかり冷めたカップを両手で包み込んだ。


「彼にも、お礼を伝えて。ドラレコの映像では顔まではっきり分からなくて、ただ、通りすがりの学生さんだと思っていた。沙月ちゃんに教えてもらったわ。陸上部の大会で、ご一緒させてもらっていたのね」


 今ここに、隼人がいないことが悔やまれた。彩瀬からの言葉を、直接聞かせてやりたい。そうすれば、隼人は深い後悔の沼から脱せられる。


「じゃあ、今から彼を」


 スマホを取り出すと、彩瀬はゆったりと首を横に振った。勢いをそがれ、何故、と呟きが漏れ出た。


「ごめんなさい。感謝はしているけれど、どうしても、考えてしまうの。もし、彼があの日、娘を呼び出さなかったら、って」


 頭の芯が、氷を挿し入れられたかのように冷たくなった。

 隼人が夏菜を呼び出さなかったら。

 あの時間、通学路から外れたあの交差点を通っていなかったら。

 悲劇は偶然の重なりによって引き起こされた。その偶然の発端を作ったのは、隼人なのだ。


「彼を責めるべきではないと分かっている。けれど、今はまだ、割り切ることができない」


 項垂れる彩瀬の気持ちも分かる。時間が解決してくれるのを待つしかないのだろうか。どうにかして、隼人を救う方法はないのか。


「長々と、ごめんなさいね。聞いてくれて、ありがとう。冷めちゃったわね。追加で温かいものを頼む? 本当に、遠慮しないで。お礼をしたいだけだから」


 沈黙した美祈を気遣ってくれたのだろう。彩瀬の優しさが滲みて、美祈の心を温めてくれた。好意に応えなければと、口を開いた。


「じゃあ、ホットミルク、いいですか」


 メニューを取り上げた彩瀬の手が止まった。美祈は熱くなった顔を伏せ、小声で付け足した。


「本当は、コーヒー飲めないんです。カフェオレなら、飲めるんですけど。ごめんなさい」


 早く言いなさいと、気を悪くされるかと覚悟した。しかし、彩瀬は黙って、会得顔で微笑んだ。すぐさま店員を呼ぶ。

 即席のカフェオレを一口飲むと、美祈の決意はようやく固まった。


「お言葉に甘えて、もうひとつだけ、伺っていいですか」

「あら、何かしら」

「ダメだったら、正直に仰ってください」


 断りを入れて、美祈は気がかりだったことを訪ねた。彩瀬は穏やかに頷き、答えとなるものを名刺の裏に書き込んでくれた。

 隼人の心を和らげるために美祈が思いつくのはもう、これしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る