好きでい続けるためのメソッド(2)

 すっかり暗くなった部屋に電気もつけず、理人はベッドに横たわっていた。

 本屋でのやり取り、佐倉の涙が閉じた瞼の裏に焼き付いていた。

 怒涛のような後悔が押し寄せてくる。せめて一言謝ろうと手にしたスマホには、佐倉からのメッセージが入っていた。


『さっきは、軽率なこと言ってごめん。明日からまた、ミックス、よろしくね』


 謝らなければいけないのは、自分の方なのに。先を越されてしまった。

 腕で目元を覆った。


 明日から、どのように彼らに接したらいいのか。挨拶ひとつ、昨日までと同じようにできるかどうか、自信がない。

 佐倉のことは、今でも好きなのに。正木のことも、友として、選手として憧れているのに。


「りっひと」


 申し訳程度のノックの後、返答を許さない間合いで隼人が顔を出した。


「メシ、食わないの?」

「うん……」


 床がきしみ、隣りから石鹸の香りが漂う。風呂上がりにざっくりとスウェットを着た隼人が傍に座り込み、満足げな息を吐く。


「飲む?」


 ひやりと首筋に当てられた缶に目を向けると、理人は眉をひそめた。


「相変わらず、よく炭酸水飲めるよね。味ないのに」

「え、美味いよ。水の味して」


 ぐっと一息にあおった隼人が、無造作に口元を袖で拭いながら理人を見下ろした。


「コーラならあったけど、そっち持ってこうか?」

「要らない。風呂は朝入るから、ちょっと寝かせてくれ。ペアが変わったから、慣れるまでしんどいんだ」


 邪険に言い放つ理人に、隼人は空になった缶を置いて代わりに何か拾い上げたようだ。かさり、と乾いた音がする。


「ふーん」


 意味深な声に、理人は隼人の手の内にある紙をみて跳ね起きた。


「勝手に……」


 奪い返そうとする理人の手をかわし、隼人は理人の額に、ベッと紙を押し当てた。


「りっくん、そりゃ辛いなぁ。よりによって失恋の相手とペアじゃ」


 さめざめと泣き崩れる仕草をしながら、明らかに隼人の口ぶりには、からかいがこめられていた。

 わざとらしいふざけた声。事故以前には見られなかった、作り物の笑顔。

 いつものように受け流す余裕もなく怒りが前面に出てしまった。


「ハヤ」

「佐倉サンのこと話す理人、むっちゃ嬉しそうだったもんな。こう、周りにキラキラ~って光の粉が飛んでるような」

「おい」

「ここはさ、さっぱり諦めちゃいなよ。佐倉サンと正木サン、理人の入る隙間ないよ、あれは」


 クッと喉を鳴らす隼人の笑いに、理人は弟相手とあって遠慮なく手を出した。簡単にかわされたが、替わりに空になった炭酸水の缶を拳で叩き潰した。


「未だに陸上諦められないでいるお前に言われたくない!」


 隼人の目に、鋭い光がさした。だが、理人も止まらなかった。


「お前だって、陸上諦めてないんだろ。だったら、コーチだって引きとめてくれてたんだからやってみりゃ良かったじゃないか。治るって見込んで、高校推薦だってもらったのを蹴ることなかったろ! そのくせ、あれだけ僕たちも巻き込んで騒ぎ起こしたのに、毎日走りに行ったり陸上雑誌買ったりして。諦めてないのはお前も同じじゃないか!」


 日頃から積み重なっていたやり場のない苛立ちは、理性を脇に追いやり、隼人の傷に言葉の刃を突きつけてしまった。


 生々しく蘇る。


 去年、ただならない音にこじ開けた、隼人の部屋の光景。

 整然と並んでいたトロフィーが床や壁に打ち付けられ、賞状を引き裂いたクラフトナイフの刃先は隼人の左腕に深く刺さっていた。ドクドクと血が流れる腕を抱え込むようにうずくまり、獣のような咆哮をあげる姿は、脅威以外の何物でもなかった。

 リハビリをしても思うようには治らない左腕に対する、鬱積した思いを爆発させていた隼人。カウンセリングを繰り返し、隼人が落ち着いてからも、事故や事件に触れないことが家庭内で暗黙の了解となっていた。


 一方隼人は、事故以前より明るく振る舞うようになっていた。けれど、全てを振り切っての爽やかな明るさは、そこにはなかった。背後になにかを隠しているような薄暗さを、理人は感じていた。じわじわと積み重なる息苦しさがあった。

 本当はもっと、腹を割って話を聞いてやりたい。しかし、隼人がそれを望んでいない。


 持ち前の生真面目さが理人をすぐに後悔させた。走れなくなって、一番辛いのは隼人だ。抱えた悩みを打ち明ける相手を選ぶのも、隼人だ。

 兄だからといって、彼を従える権利など、どこにもない。

 項垂れ、苦々しく口の中で謝った。


「好きだからね、走るの」


 隼人は、ぼそりと言った後、一転して明るく笑った。いや、目だけは、暗く、奥底に悲しさのような色をたたえていた。事故の前には見たことがなかった表情だ。


「好きでいたいから、諦めてるよ」

「え?」

「認めてるよ。前みたいに走れないってことは」


 隼人は手癖で左袖をまくった。無意識の行動だが、自ら切りつけた痕が暗く浮かぶ。


「どんなにがんばっても、あの頃と同じになれない。時間を戻すなんてできない。元通りにならないって諦めたから、今出来ることをしてるんだけど? でなきゃ、とっくに、嫌いになってると思うな」


 呆然と立ち尽くす理人に断り、隼人は隣室から今日購入した雑誌を持ってきた。


「コーチング?」

「走れなくてもさ、指導は出来るだろ? 俺だって、やっぱ気持ちのどっかじゃ、前と同じように走りたいって思うことあるよ。けど、無理じゃん。だったら、新しい付き合い方した方がいいって」


 壊れたもの、無くなったものを取り戻すことができないなら。過去の幸せに捉われ、悲しみや憎しみを募らせるのではなく。

 理人は、しわだらけになったミックスのペア表へ目を落とした。

 新しい向き合い方。佐倉と正木との新しい関係性。


「少しは落ち着いた?」


 炭酸水の空き缶をもてあそび、隼人が悪戯っぽく笑った。


「理人、俺みたいに発散させないで内に貯めこんじゃうからさ。そっちのほうが怖いし、佐倉サンも正木サンも気まずいじゃん。王子サマの魅力激減だぞ」


 少しからかい過ぎて悪かったけど、と付け足した隼人が立ちあがった。缶をくわえ、脇に雑誌をはさみドアへ手をかける弟に、理人は問いかけた。


「佐倉さんのこと、好きでい続けていいんだよね?」


 隼人の目が笑った。くわえた缶を手にうつす。


「嫌いになんか、なれないっしょ」


 素直に頷いた。正木と別れて欲しいとまで思わないが、佐倉を特別扱いすることくらいは許してもらいたい。


「ま、失恋の痛みに浸りたいなら、心中以外なら付き合ってやるよ。頭丸めるなりカラオケなり酒なり、おごってよ」

「酒はヤバいだろ。つか、なんでおごらなきゃなんないわけ。普通、慰める方が出してくれるんじゃないか?」

「あ、そっかそっか。んじゃ、バイトのシフト増やしてもらっとくよ」

「それより、お前、いつの間にカノジョいたんだ?」


 そんな気配は微塵も見せていないのに、と興味津々な眼差しの前で、隼人はしばらく目を泳がせた。何かに思い当たったように、ああ、と頷くと唇の端を引き上げた。


「アレね。嘘」

「え。なんで」

「立ち去る口実。安心した?」


 別に安心なんか、と言い返したいところだったが、理人の頬の筋肉は正直に安堵を表していた。


「ま、りっくんより先に幸せになる自信あるけどぉ」

「なっ」


 高らかに笑う弟に、理人は丸めたペア表を投げつけた。紙クズはひと足先に閉まった扉でクシャリと音をたてて転がった。

 拾い上げた手の中の名前達は、呆気ないほどに軽かった。



 翌日。

 部室で、まだ慣れないミックスでの感想をあれこれ言い合いながら着替える際、正木のリストバンドが理人の足元にこぼれ落ちた。

 拾いあげ、理人は思わず手を止めた。内側のタグに滲んだイニシャルは、M。マサキもMではあるが、そういえば、バレンタイン以降である。正木がこれを使いだしたのは。その前に使っていたバンドにはカタカナで記名してあったのを覚えている。それに、これは、佐倉が新人戦で使っていたのと同じものだ。


「あ、悪い」


 憔悴を隠すように受け取る手を出す正木に、さりげなく尋ねた。


「そう言えば正木君って、佐倉さんと付き合ってるんだって?」


 ごくりと動く正木の喉仏を見ながら、早まる鼓動を押し殺した。


「そうならそうと、言ってくれたらいいのに。水臭いなぁ」

「あー。うん、なんかタイミングはずしちゃってさぁ」

「言っとくけど」


 理人は、汗と泥のついたユニフォームを鞄に押し込んだ。


「僕も佐倉さんのこと好きだからね。泣かしたりしたら、承知しないよ」

「うわ」


 正木が、あからさまに顔をしかめた。


「そう来るか」


 鼓動の早さを誤魔化すように、理人はいつもよりゆったりと鞄のファスナーを閉めた。が、指先は小さく震えていた。

 思い切った宣戦布告が、吉と出るか凶とでるか。しかし、この方法で今までの三人の関係を敢えて壊し、新しい付き合い方を見つけたかった。

 先に出口へ足を踏み出した正木がふり返った。その顔は、笑っていた。


「倦怠期にひたってる隙もないな。彼女にとって魅力的な男であり続ける努力をしないと」

「あ、うん。僕も負けてないからね」


 正木を追い越して、ドアを開けた。女子の部室前で、佐倉がこちらに向かって手を振っている。


「佐倉さん、今日はキレが良かったね」

「そう? 瀬尾君のフォローがあったからだよ。正木チームも健闘してたね」

「お、珍しいな、佐倉が俺を褒めるなんて。明日は雨かなぁ、嵐かなぁ」

「何それぇ。じゃ、もう褒めてあげなーい」


 良かった。いつも通りに笑って、ふざけることができる。

 理人は笑いながら空を振り仰いだ。

 頭の上に広がる夕方の空は、相変わらず薄い温かな色で暑さを孕んでいた。まだ火照りを残す体を、わずかばかりの涼風がなでる。


 コーチが正木を呼んだ。


「わぁ。綺麗な夕焼け」


 空を仰いだ佐倉が呟いた。濃い青を徐々に染めていくオレンジ。筆で刷いたような雲も淡いピンク色とグレーに彩られていた。

 見上げる佐倉の癖のある髪が、風に揺れる。細い顎。そのシャープな横顔のほうがずっと、綺麗だ。

 理人は、湧き出た唾を飲み込んだ。


「あのさ」


 なに、と振り返り微笑む佐倉はやはり、理人の好きな彼女だった。


「もし、正木君とトラブったら、いつでも相談して。僕は、ずっと大好きな佐倉さんの味方でいたいから」


 佐倉の頬が染まる。理人の耳には、自分の激しい鼓動しか感じられなかった。


 紙袋を手にした正木が駆け寄る。


「これ、今度のイベントで着けろってさ」


 空気を読まない態度は、わざとだろう。彼はきっと、何があったか想像がついている。その証拠に、佐倉から見えない角度から小さく拳を振り上げてくる。

 理人もニヤリと笑って返し、紙袋の中を覗き込んだ。


「鉢巻? てにーズってなんだよ」

「コーチの恩師が考案したゆるキャラだってさ」

「ええぇ。可愛くない……」

「それ言っちゃ、失礼だぞ、み……佐倉」


 あ、と理人は眉をあげた。


「今、佐倉さんのこと、未来って呼ぼうとしたでしょ」

「う。ま、まあな」

「じゃ、僕もそう呼ぼうかな」

「調子に乗ってんじゃないよ、瀬尾」


 正木の拳が、軽く理人の胸を打った。


「今は、俺だけの特権なんだから」

「じゃあ、もし佐倉さんが正木君を見限ったら僕がその特権、もらうよ」

「できるもんならやってみろ」

「あーもう二人とも。なに勝手に分かり合ってんの」


 佐倉が顔を真っ赤にして、照れ隠しに怒っている。そんな顔も、可愛い。 

見続けていると本当に、調子に乗りすぎてしまいそうだ。


 空を仰いだ。

 昨日の空の方が、綺麗だったかもしれない。けれど、今見上げている空も、好きになれそうな気がした。



〈好きでい続けるためのメソッド・了〉

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