好きでい続けるためのメソッド(1)#失くしたもの

 うららかな五月の陽射しは、向かいの校舎の外壁に反射して、瀬尾理人が歩いている北側の廊下をも明るくしていた。窓から見上げた空は鮮やかに青く、気持ちが良い。

 GW後の倦怠感も抜け、学校全体が昼休憩の賑やかさに溢れていた。


 理人は、自販機で買ったリンゴジュースの紙パックを振りながら歩いた。機嫌のよさを振りまきながら、反対の手元へもう一度目を落とした。さっきばったり出会ったテニス部の後輩から受け取った、メンバー表だ。

 数分前に受け取ったそれを、何度見直しただろう。印字された文字が映像として瞼の裏に焼きついている。そして、何度見ても、口元が綻んでしまう。


「なにニヤニヤしてんだ」


 後ろから声をかけてきた友人が、首を伸ばした。


「そんなつもりはないけど」


 取り繕う理人の手元を覗き込んだ友人は、へぇ、と感嘆なのか単に口からもれ出たのか、声をあげた。


「この前引退試合だったのに、まだ三年が駆りだされるんだ。大変だな、テニス部は」

「陸上や吹奏楽ほどじゃないよ。それに、これは有志参加。コーチの恩師が名誉市民に選ばれた祝いの席を盛り上げるためだから、勝ち負け関係ないし」


 プリントを一枚抜き出すと友人は、そこに並ぶメンバーの組み合わせへ目を通した。


「瀬尾は佐倉となんだ」

「うん。普段、うちはミックスダブルスはしないんだけどね」

「ミックス? ああ、男女混成ってことか」


 彼の言葉に頷き、またしても理人は緩みかけた頬を引き締めた。

 入部以来、ずっと片思いをしていた佐倉とのペア。なにかと理人を「王子様」扱いし、バレンタインデーにはこぞってチョコを差し出す多くの女子と一線を引いて、確固たる自分の芯のようなものを持って凛としている佐倉と、また距離を縮めることができる。

 卒業までには気持ちを伝えたいと考えていたが、この機会に、などと妄想を膨らませていると、また口元が緩んだ。友人に気付かれないよう、頬の内側を噛み締める。


 彼は、理人の秘めた喜びに気付かなかったようだ。


「この組み合わせ、決めたのコーチ?」

「部長の正木くんと相談したらしいよ。それぞれの選手の実力はコーチも把握しているけど、正木くんは個人の癖とか性格をよく把握しているから」

「へえ」


 理人を他所に、友人はひとり、うんうんと大袈裟に腕を組んで頷いていた。


「ま、試合中にイチャついてるだのなんだの、言われたくないだろうな、正木は」

「え?」

「正木と佐倉といえば、教員も認める純潔カプじゃん」


 再度聞き返す理人に、友人は呆れ顔で目を丸くした。


「お前、知らないの? 毎日のようにあの二人と帰ってるんだろ?」


 初耳だ。

 スッと、辺りの気温が下がった気がした。しかし、窓の外は光に溢れ、廊下は依然明るく照らされている。

 あからさまに表情が変わってしまっていたのだろうか。友人は、罰の悪そうな顔をした。慌てて理人は、なんでもないように装った。


「あー。そういえば、そんなことを聞いた気がする。だけど、あんまりにも二人がいつも通りだったから」


 にっこり、女子生徒の多くが黄色い声をあげるその笑みで、理人は軽く首を傾けた。癖のつかない髪が、サラリと頬にかかった。

 友人は安堵して、だよな、と付け足した。


「さすが幼馴染みっていうか、すでに熟年夫婦というか」


 一言一言が、心に刺さる。それだけ正木と佐倉の仲が良く、周知されている事実が痛かった。ふたりとは同じ部活で、友人の指摘する通り、毎日のように連れ立って駅まで帰る間柄にも関わらず、知らなかった。

 今更、いつから彼らが付き合いだしたのか問うこともできない雰囲気で、営業スマイルをはがすこともできない。


 プリントを持つ手に、いつの間にか力が入っていた。数枚重なったコピー用紙に皺が寄る。

 後輩に託されたこのプリントを、放課後までにテニス部の三年に配らなければならない。もちろん、正木と佐倉にも。

 三年の教室が並ぶエリアが近付いてきた。見知った顔が行き交い、そこかしこに立ち止まって喋り、じゃれあっている。


「お、噂をすれば」


 友人の視線の先に、正木と佐倉がいた。廊下を並んで歩いている。二人の腕にノートが積み重なっていることから察して、どちらかが教員に頼まれた提出物を職員室か教科室へ運ぶ途中なのだろう。同じクラスならともかく、違うクラスなのにこうして二人、話しながら運んでいるということは、どちらかが頼まれたものを、もう一方が手伝っているに違いない。

 なにやら、佐倉は怒っているようで、正木も反論しているように見える。


「イヌも食わないってな」


 友人が肩をすくめて同意を求めてきた。応えることも出来ず、理人の手の中で紙パックが軽くへこんだ。

 このまま行けば、正木たちに見つかってしまう。

 佐倉が、顔を正面に向けた。

 咄嗟に理人は、プリントを友人へ押し付けた。


「ごめん。これ、正木くんに渡してくれない?」

「へ?」

「ちょっと、トイレ」


 有無を言わせず手の中へねじ込むと、洗面所へ急いだ。王子様もお手洗い行くんだなぁと、友人の呟きを聞かなかったことにして、壁に囲まれた狭い空間へ閉じこもった。


 佐倉が、正木と。


 今まで見てきた佐倉の姿が、走馬灯となって脳裏を過ぎっていった。

 新人戦の初々しさ、夏合宿で見たシンプルな私服姿、初勝利に喜ぶ笑顔、からかわれて膨らませた頬の赤さ。そのどれもが愛しく、滝から零れ落ちた水のように、理人の心の中に清らかな淵を作っていた。


 それが。


 一枚だけ、理性が手に残したメンバー表を握り締めた。クシャリと、情けなく乾いた音がした。

 今日の放課後からイベントまでの二週間、このメンバーで練習をする。

 はたして、失恋の痛みを抱えたまま、プレーなんてできるのだろうか。

 いや、しなくてはならない。


 だけど。


 固く瞼を閉じた。歯を食いしばる。

 息を吐いて、吸って。もう一度、ゆっくり吐いて。


 人前で取り乱してはいけない。何故だか知らないけれど、同じ中学から上がってきた人が居ないこの高校では、瀬尾理人といえばいつも穏やか、冷静で物腰の柔らかい王子様とされている。

 自分ではそんなつもりはない。むしろ、些細なことで動揺し、深く踏み込まれるのを恐れて自分の殻に閉じこもっている。そのくせ、人からの評価を気にして愛想を振りまく小心者だ。

 だから、固まった周囲の評判を壊すのも空恐ろしい。


 惨めな自分をさらけだして、佐倉に呆れられるなど、あってはならない。

 いつも通りに。何も知らなかった昨日までのように。普通に振舞っていればいい。


 と心に決めたものの、現実はそう上手くいかなかった。

 凡ミスが続き、いつもより試合時間が長く感じられた。しかも、ネットを挟んでキレのある球を打って寄越すのは正木のペアだった。

 いつもは、ダブルスで同じ側のコートでプレーをしている正木の球の強さと正確さは、理人も良く知っている。今までラケットを握ったことがなかったにも拘らずテニス部に入ろうと思った決め手が、正木のプレーだった。すでに地方大会で入賞する腕前だった彼に憧れて、追いつきたくて、ここまで頑張ってきた。


 終了のホイッスルが鳴った。

 1ゲームも取れなかった。圧倒的な敗北。


「うわぁ。やっぱり初めてだと難しいね」


 緩やかな癖のある短い髪を汗に濡らし、佐倉が悔しそうに対戦相手を、正木を睨みつけた。肩で息をつく理人を振り返ると、ニッと笑う。


「本番までに、調整しようね。がんばろっ」


 力強く立てられた親指。

 昨日までなら、プレーの不調も吹き飛ばしてくれただろうその笑顔が、無数の棘となって心に突き刺さった。口端を上げるのが精一杯だった。


 今日は、彼らと一緒に帰りたくない。

 ノロノロと帰り支度をしていれば、正木たちを待たせたら、先に帰っていいかと言われるかもしれない。

 期待したが、自分の帰り支度を済ませた正木は訝しい表情で、置きっぱなしにしてある理人のラケットをケースに仕舞う手伝いを始めた。


「具合でも悪いのか? 調子出てなかったけど」


 太い眉の下で、人の良い目が端を下げて理人を伺っていた。正木の、この優しさに理人は弱かった。


「う、ん。ずっと正木くんとしか組んでなかったからね。なんか、掴めないというか」

「ああ、それ、あるよな。やっぱ、俺も瀬尾とのペアが一番やり易い」


 頷きながら、汗に濡れたシャツも畳み始めてくれる。そんなことはしなくてもいい、とっとと帰ってくれと。


 言えない。


 部室を出るのが最後になってしまった。

 それでも、佐倉も防球ネットにもたれて夕暮れ空を見上げて待っていてくれる。遅くなったことを責めるわけでもなく、いつもの笑顔で迎えてくれる。

 どうして、こんなにいつも通りなのか。

 理人の心中には嵐が吹き荒れているのに、周囲はどこまでも穏やかな初夏の夕暮れに包まれている。無性に悔しく、惨めで、喉の奥がつかえた。


 いつも通りに、他愛の無い会話が交わされる。部活の反省点、誰それのプレーがどうだった、世界史の先生のネクタイが国民的人気ネズミのデザインだった、など。

 駅までの道を半分過ぎた辺りで、理人は耐えれなくなった。書店の看板が目に入る。


「あ、僕、ちょっと寄って行きたいから」


 先に帰ってくれと言外に滲ませたが、佐倉の反応は理人の期待を見事に裏切った。


「そうだ。私も」

「また、漫画か?」


 からかう正木に、佐倉の頬が赤く膨らんだ。


「違うよ。真面目に問題集です。商店街の本屋さんになかったんだもん」

「買ってばかりじゃなくて、きちんと解かないと意味ないぞ」

「やってるもん。あ、分からないところあったら、また聞いていい?」


 いつも通りの遣り取り。いつもの癖で佐倉の姿を目で追い、彼女の声に耳を傾け、理人はズキリと痛む胸元をさり気なく押さえた。

 そうだ、いつも、佐倉の目は正木を追っていた。彼女は最初から、正木しか見ていなかった。彼に笑いかけ、彼と話し、彼に頼っていた。その姿を、目を細めて見ていただけだった。


 なんて、愚かなんだろう。


 問題集を探す彼らから身を隠すように、人気の少ない雑誌コーナーで唇を噛んだ。

 佐倉への恋情に酔って、現実を全く見ていなかった。恋は盲目とは、よく言ったものだ。

 せめて、佐倉の心を奪った正木を憎むことができたら気が楽なのに、それも出来ない。彼は彼で、理人の大切な親友だ。

 このまま、恋も友情も失ってしまうのか。


 ぼんやりと、雑誌の表面からあふれ出す鮮やかな色の洪水を眺めていた。

 ふと、近くに佇む人の気配を感じた。テニスラケットを収納できるリュックは嵩張る。狭い通路を塞いでしまっているのか。


「すみません」


 相手の顔もろくに見ず、理人は可能な限り棚に体をつけた。それでも気配は動かない。リュックを下ろそうか。迷い、肩紐へ手をかけた。


「パソコンなんて興味あったっけ」


 耳に入ってきた声に、ギクリと上げた視線の先では、剣呑な表情の小柄な男子生徒が立っていた。身を包んだ他校の制服はまだ折り目が新しい。


「な、ん」


 なんでここに、と思う間に、棚を回りこむ正木と佐倉の姿が目に入った。向き合う理人たちの間に不穏な空気を感じたのか、正木が眉を潜め、どうしたのかと理人へ声をかけた。

 男子生徒は振り返り、正木たちを頭の先から爪先まで、ざっと視線を走らせた。当然、彼らが背負うテニスラケットにも気が付いただろう。

 ああ、と呟き、彼はとたんに人の良い笑みを浮かべた。


「正木サンと佐倉サンですよね。兄がいつもお世話になっています」


 ぺこりと会釈をされ、正木が理人と男子生徒、弟の隼人の顔を見比べた。戸惑いを隠さない様子に、隼人は喉の奥で小さく笑った。


「理人がよく、家で話してくれるから、そうかなって。違ってました?」

「いや、そうだけど。あまり似てないんだな」

「あは。よく言われます」

「でも、目は似てる?」


 佐倉も、興味津々な様子で隼人に名を尋ねた。彼の答えと、手にしている陸上の雑誌に目を留めたのだろう。しばし逡巡した彼女が、ポンと手を打った。


「え。もしかして、一昨年大会新記録出した?」

「知ってるの」


 理人と隼人の驚きの声が重なった。

 一昨年。中学陸上大会の百メートルで隼人は大会新記録を叩き出した。地区大会だったため、地元のニュースでは取り上げられたが、全国的には新聞の一角に小さく載る程度のものだった。

 咄嗟に、弟の顔を伺った。予想通り、彼の目の端に警戒の色が浮かんでいる。しかし、佐倉は気が付かず、興奮抑えきらぬ様子で続けた。


「それ、陸上関係の雑誌だよね。まだ記録更新目指してるんだ。凄いなぁ」


 無邪気な賞賛。

 理人が口を開く前に、隼人は僅かに移動した。理人の前に立ちふさがるように。


「ま、そんなとこです。じゃ、俺、カノジョ外で待たせてるから」


 にこやかに雑誌を持つ手を軽く上げ、理人のリュックと棚の間に細い体を滑らせレジへ向かった。

 その姿は、あらゆる嘘を押し込めていると微塵にも感じさせない、見事なものだった。真実を知る者にすら、内部に渦巻く彼の闇を透かし見るのが困難なほどに完璧な仮面。

 ポケットから直に代金を出す隼人の後ろ姿を、佐倉はじっと見ていた。やがて自動ドアが彼との間に壁を作ると、彼女は無意識に短い髪を耳へかけた。

 理人が好きな仕草。だが、さすがに今はときめく余裕がなかった。


「弟クン、顔だけじゃなくて、なんか、瀬尾くんと雰囲気も違うんだね」

「兄弟って、そんなもんじゃね?」


 佐倉も、隣で首を傾げる正木も一人っ子だ。兄弟がいる感覚は未知のものに違いない。それ以上のものを佐倉の言葉に感じ、理人は恐る恐る尋ねた。


「違う、て。例えば?」

「いや、瀬尾くんなら、ポケットに直にお金入れるとか、ないなぁって。百円玉一個でも必ず財布に入れてるじゃない」

「だな」

「二人とも、よく見てるね」


 苦笑した。この二人は、自分のことを良く見てくれている。なのに、今の苦しさを感じてくれはしない。いや、理人が可能な限り隠しているのだから、当然だろう。そこまで期待してはいけない。甘えてはいけない。

 だけど。

 いつもの理人だったら、なにか適当なことで誤魔化せただろう。今日の理人は、自分の狭い心にこれ以上の負荷を詰め込むことができなかった。


「本当はもう、走れないんだ」


 驚くふたりの反応を楽しむ嫌な自分がいる。


「去年、中学最後の大会の前に事故に遭って。後遺症で肩が上手く動かせない。指先もまだ細かい動きが苦手なんじゃないかな。財布を開けるのが困難な程度に」

「無神経なこと、言っちゃった」


 俯く佐倉の声が湿っていた。緩くうねる前髪から透かし見える目元が赤く、潤んでいた。

 この人も、泣くんだ。

 人である以上、当たり前だろう。だけど、新鮮だった。

 リュックを背負いなおした。棚を後にする理人へ、正木が慌てて佐倉を促す。


「瀬尾」


 責めている声色ではない。心配してくれている。

 それが、今は辛かった。最も望んでいない気遣いだった。


「放っといてくれる?」


 投げつけた声は、自分でも驚くくらい冷たかった。

 正木がどのような顔をしたのか。確認するのも怖く、理人はその場から逃げるように足を速めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る