ZERO or LOVE(2)

 両手に分けて持った紙袋は、ずしりと重い。

 昨夜のメッセージ通り瀬尾が休んだため行き場を失った大量のチョコレートや焼き菓子を送り届ける役目を引き受けたことを公志は後悔した。

 学校の最寄り駅から、マンションと反対の方向へ三駅。古い家が多い閑静な住宅街を、記憶を頼りに歩いていく。瀬尾の家への道のりは、前来たときより遠く感じられた。

 通りを一本間違えたか、と思ったとき、見覚えのある青みのかかった屋根が見えた。が、周囲が暮れ行く中、どの窓にも灯りが点っていない。


 腕に食い込む紙袋の持ち手が忌々しい。片腕に荷物をまとめると、電話をかけた。

 呼び出し音が繰り返される。眠っているのか。それとも、いつもメッセージもなかなか既読がつかない瀬尾のことだ。離れたところにスマホを置きっ放しにしているのか。

 全ての荷物を提げた腕が痺れ始めた。

 電子音が途絶え、掠れた瀬尾の声が聞こえた。


『ごめん。今、病院。やっぱ、インフルだったよ』

「昨日からやばそうだったもんな。俺たちは今のところ、大丈夫だけど」


 声にもいつもの張りがない。が、穏やかさは健在だった。公志は、弾みをつけて荷物を掛けた肘を曲げた。紙袋の中で、様々な素材の小袋が擦れて音をたてた。


「数多の姫君から献上された品々を城へお届けにあがりましたが、いかがなさいますか、王子様」


 容態を聞いた後におどけると、瀬尾が擽ったそうに笑った。呼気の乱れが喉を刺激したとみえ、続けて咳き込む。


『正木くんにまで、その呼び方されるのは、困るな』

「まあ、俺は従順な下僕ですから。で、どうする。あと少しで帰れるなら待っててもいいけど」


 特にこの後用事もない。切羽詰る課題もない。瀬尾の表札が掛かっている塀へ軽く背を預け、公志は藍色の空を見上げた。


『自転車の籠に入れておいて。ガレージにあるから』

「ガレージ、と。これか」

『二台あると思うけど、どっちでもいいよ』

「てか、両方に入れないと入りきらないな」


 顔を顰め、公志は家の壁沿いに設けられた屋根つきガレージに横歩きで入り、縦列に置かれた二台の自転車の籠へ一つずつ紙袋を入れた。二台の自転車は、サイズもデザインも似通っていた。瀬尾の家族の話はあまり聞いたことがないが、兄弟でもいるのだろうか。

 何の気も無しに覗き込んだガレージの奥に、使い込んだテニスラケットとボールが見えた。どちらも、痛んでいるが丁寧に手入れされている。埃や泥の付着などがなかった。


 入部して忽ちレギュラー入りした初心者に、部の人たちはただ驚いていた。だが、公志は、入部して半年の間、瀬尾の掌に肉刺まめが絶えなかったのを知っていた。トイレなどの人目のつかない場所で、素振りをしていた姿を目撃したこともあった。

 瀬尾は、王子でもスーパースターでもない。真摯に努力を積んで実力を手に入れた選手だ。小学生のときからテニスを続けてきた公志と、似ている。それを、生まれ持った柔和な笑顔と醸し出す穏やかな空気が隠してしまっているだけだ。


 しかし、なんとなく公志はガレージの隅に見えたものから目を逸らせた。

 瀬尾と公志が似ているとしたら、このチョコの数の差は何なのだろう。それを考えると、劣等感が重く冷たく心を冷やしていく。自分を形成している核となる部分を否定されるような気持ちが湧き起こってくる。


 もやもやした悪い感情が電話を通して伝わらないよう留意しながら、公志は話題を変えた。


「レギュラー選考は、出られそうか?」

『多分。僕としては、絶対出たい』


 声のトーンが下がった。決意を込めたしっかりとした声が、公志の鼓膜を揺さぶった。


『来年度も、正木くんとペア組みたいから』


 瀬尾とダブルスを組んでいる間、自分は彼の引き立て役になっているような気になる。しかし、瀬尾の言葉には、そのような卑劣な感情は含まれていない。あくまでも選手としての公志を認めてくれている。

 それが、嬉しくもあり、申し訳なくもあり、公志はただ、同意を伝えた。


 夕餉の香りが狭い通りに漂う中、駅まで来た道を逆に辿った。ベッドタウンとなっているのか、駅からは学校帰りや勤め帰りと思われる人々が溢れ出てきた。

 人の渦から逃れるように、改札前の柱に張り付いている未来の姿を見つけ、公志は理由の分からない胸騒ぎを感じた。


「どうした」


 声をかけると、別に、と言いながら唇を尖らせ、俯く。彼女らしくない、はっきりしない態度だ。後ろに回した袖がピクピク動いているのは、反対の手で袖を弄っている証拠だ。体で隠すように持っている小さな紙袋に気がつき、公志は溜息をついた。


「今から行けば、戻ってくる頃じゃないかな」


 え、と見上げられた顔も、いつもより頼りなかった。公志は、背後を立てた親指で示した。


「瀬尾の家、佐倉も行ったことあるだろ。それとも、道、忘れた?」

「あ、うん。大丈夫」


 言いながらも、歩き出そうとしない。

 それもそうだなと、公志は息を吐いた。

 あれだけの人気者に、苦手を承知で気合を入れて作ったチョコを渡すとなると、さすがの未来も緊張するのだろう。何を思って今年のバレンタインに告白しようと思ったのかは分からないが、相当な覚悟が必要だろう。


「ま、頑張れや」


 ぽん、と手を載せた頭は、心なしか熱かった。そういえば、顔も赤い。目も潤んでいる。瀬尾もインフルエンザだったし、罹患しているのかと心配にもなったが、そのまま改札へ向かった。


 ICカードを翳した後ろから、同じように電子音が続いた。そっと振り返ると、赤い顔で俯いたまま未来がついてくる。


「渡しに行かないのか?」


 問いに、答えはない。


「ま。しんどいわな」


 敢えて彼女を振り返らず、背後へ声を掛け続けた。


「けど、やってみもせずに諦めるなんて、佐倉らしくないじゃないか。ダメ元でも、せっかく作ったんだから持って行った方がいいんじゃないか? 瀬尾のことだから、受け取ってはくれるはずだよ」


 ホームドアの前に立つ。帰宅ラッシュと反対の方向とあって、こちらのホームに人影はまばらだった。毛を膨らませた鳩が、床の何かをついばみながらぽったりと歩いている。

 鳩が飛び立った。公志の前に躍り出た未来が、勢いよく腕を突き出す。胸に当たる直前で止まった拳の下で、弾みのついた紙袋が揺れた。コツコツと紙袋の底が胃の辺りにぶつかった。


「もらって」


 投げやりな声に、公志も怒りを抑えなかった。


「いい加減にしろよ。幼馴染みだからって、振られチョコなんか受け取れるかよ」

「違う」


 顔を上げた未来の、熱を帯びた目に鼓動が一拍止まった。


「公志のために作ったんだよ。嘘だと思うなら、食べてみてよ」


 剣幕に押され、紙袋を受け取った。一挙一動を見張られる中、そろりと入っているものを取り出す。素っ気無い四角いブラウニーに巻かれたアルミホイルとラップを剥がすと、恐る恐る齧った。

 ココアの香りが広がる。ふわりとした生地にアクセントを加えている歯ざわりは、ピーナッツだった。


「どう?」


 未来の鋭い視線から逃れるように、公志は顔を背けた。零れた欠片を狙って、鳩が足元に近付く。


「苦い」


 感想の一部を正直に答えれば、未来は一瞬言葉に詰まった。


「ごめん。焼きなおしたのも、ちょっと失敗して」

「佐倉らしくて、いいよ」


 ほろ苦さが先立つが、懐かしい味だった。

 ふたりが小さい頃、公志の母がよく作ってくれていた。本来は胡桃を入れるところを、手軽だからと父の酒のつまみとして常備しているピーナッツを使うのが母流だった。一度、奮発して胡桃で作ったところ、いつものがいいと泣いて困らせたことがある。母意外には未来しか知らないエピソードだ。


「幼馴染みはカノジョになれないかな」


 俯く未来の指先が、公志のブレザーの裾をつまんだ。

 指先についたブラウニーの欠片を舐め、公志は足元の鳩を目で追った。


「どう、かな」


 小刻みに引っ張られていたブレザーの裾が動きを止めた。


「だけど、佐倉が俺のカノジョになるのは、アリだと思う」


 ギュッと、裾が握られた。


「ほんと?」


 ぎこちなく頷いた。

 単に幼馴染みだとか、妹みたいな存在とか、そう思えなくなったら距離をとった。未来のことをひとりの女性として意識し始めたから、それまでのように近づけなくなったということに、今、気がついた。こうして指先が触れ合っているだけでも、鼓動が速くなる。未来が一生懸命作っていたものが自分のためのものと分かって、安堵している。


「瀬尾ほどかっこよくないけど、こんな俺で良ければ」


 電車の到着を知らせる電子メロディが鳴った。


「公志は、」


 聞き返すが、滑り込む車体が巻き起こす風にかき消される。目で追った未来の唇は、かっこいいよ、と動いた気がしたのは、公志の願望が含まれているからだろうか。


「私は、公志のことが、好き」


 すぐ肩先にある未来の笑顔に、ドキリとした。目尻が心持ち下がっているところはモテ顔の要素も含んでいるだろうが、総じて平均的な、特にこれといって美点のない顔立ちをしている。おまけに、一年中屋外で行われる部活動のため冬でも肌は日に焼け、乾燥気味だ。唇も荒れていた。それでも公志の目には、国民的美少女と並べても霞まない愛しさに溢れているように映った。


 開いたホームドアから流れてくる人の渦の中で、未来が指を絡めてきた。頬は桜色に染まっているのに、指先は冷たい。温めるように、公志はその指を包み込んだ。

 大量の人を降ろした車両は、しかし座席は埋まっていた。ドアの側に並んで立つ。動き出した電車が揺れ、未来が多々良を踏んだ。つり革に手が届かない未来が、公志の腕に掴まった。

 ね、と未来がすぐ側で囁いた。


「なんで公志は、昔みたいに下の名前で呼んでくれなくなったのかな」

「さあ」

「呼んで欲しいな、とか、思うけど」


 語尾が、もじもじと小さくなる。指先がせわしなく袖口をつまんだり捻り上げたりを繰り返す。未来が着る服の袖口はどれも、布が悪くなっていたのを懐かしく思い出した。


「じゃあ」


 公志は視線を窓の外に彷徨わせた。無数の灯りが暮色に浮かんでいる。反射で暗く映し出された未来の横顔は、期待を込めて自分を見上げていた。公志は、指の関節で鼻を擦った。


「みく、ちゃん」

「ちゃん、は、ちょっと」


 笑いながらぶつかってくる肩が、上腕の中ほどにある。体の内側からくすぐったく湧き上がる温かいものを、公志はしばらく味わっていた。



 待機のため、公志は瀬尾とベンチに並んで腰掛けた。コートでは、フォーティ・ラブから追い上げる、白熱した試合が行われていた。先輩相手の部内試合とはいえ、真剣勝負だ。


「チョコ、届けてくれてありがとう」


 休み明けの瀬尾が微笑んだ。さすがに頬の辺りがやつれた感じがするが、アップをしている様子を見た限りでは、ひと試合こなすのに問題はなさそうだった。熱が下がるとすぐ、家で出来るだけの筋トレなどをしていたのだろう。

 ラケットの上でボールを転がし、公志はあいまいに笑い返した。


「あいかわらず、すごい数だったですね、王子様」


 揶揄すると、瀬尾が手元をみやった。わずかに伏せられた長い睫毛がもの悲しさを醸し出した。


「でも、一番もらいたかった人からは、もらえなかったんだよね」

「あれだけあって?」


 嫌味のつもりはなかった。素直な驚きだったが、瀬尾は肩をすくめた。


「僕にだって、好きな人を選ぶ権利があるよね?」

「当然」


 公志の即答に嬉しそうな笑みを浮かべ、瀬尾は試合へ目を向けた。

 それにしても、これだけ人気のある瀬尾が好意を寄せる相手とは、どのような女子なのか。横目で瀬尾の様子を窺う。好みはどうなのだろう。頭の中で、可愛いと評判の女子をリストアップしていく。しかし、誰一人、瀬尾と接点がなかった。ヒントは、彼に友チョコすらあげなかった人。しかし、いくら大量にもらったとはいえ、全女子生徒の一部に過ぎない。

 結論が出ないまま、試合は終わりに近づいてくる。公志たちはジャージを脱いで準備を始めた。袖と共に、リストバンドが外れて足元へ転がった。赤いパイル地のリストバンドに目を留めた瀬尾が、顔を輝かせた。


「それ、佐倉さんのと同じ。どこで買った?」


 とっさに言葉につまり、公志はまじまじと瀬尾を見た。


「どこって。よくあるスポーツブランド物だし。親が勝手に買ってきたから、知らないけど。地元の駅前じゃないかな」

「ほんと? あ、今度行ってみよ」


 うきうきとはしゃぐ瀬尾に、公志は拾い上げたリストバンドの内側にあるタグを見られないよう、用心深くはめなおした。グリップへ汗が流れるのを気にしなければならない季節ではない。必要もないリストバンドは、お守りとして着けている。バレンタインデーに、未来と交換したものだ。タグには、イニシャルのMの字が書かれている。万が一ばれても、正木のMだと言い張ることもできるが。


 考えてみれば、瀬尾にとっても未来は最も親しい女子生徒の一人だ。想いを寄せている可能性に、もっと早く気が付いてもよかった。

 とりあえず、今は大事な試合の前だ。未来と付き合いだしたことを、言わないほうが良さそうだ。

 その判断が、数か月後に余分な波風を立てるとは知る由もなく、公志はラケットを軽く振った。


 コート中に歓声が沸き起こる。ゲームセット。対戦者が握手を交わし、ベンチへ向かってきた。得点ボードが、0(ラブ)に戻される。


「次。正木公志、瀬尾理人ペア」


 監督の太い声が響く。仲間からの応援と共に、防球ネットの向こうにある女子用コートから黄色い歓声と熱い視線が降り注ぐ。

 その大半が瀬尾に向けられる中、未来だけが公志を見ていた。

 それでいい。

 唇の端を引き上げると、公志は未来へ向けて軽くボールを掲げた。

 ホイッスルが緊迫した空気を引き裂く。

 短く息をぬき、公志は左手のボールを空へ上げた。膝を柔らかく曲げ、ラケットを握る右肘を背に引き寄せた。

 未来のためだけに見せる、最高のサービス。

 小気味良い音をたて、ボールは相手コートへ吸い込まれていった。


〈ZERO or LOVE・了〉

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