3人集えば三角関係

かみたか さち

ZERO or LOVE(1) #幼馴染み

 エレベーターの扉が開いた瞬間、正木公志まさきこうしは鼻の頭に皺を寄せた。


 焦げ臭い。


 いつも、母に頼まれ夜間ゴミ収集のため外に出るこの時間、マンションの廊下に漂うはずのシャンプーや石鹸の香りを微塵にも感じさせない苦い空気が、冷たく充満していた。


 この階にも、一人暮らしになったお年寄りや、生まれたばかりの赤ん坊を抱えた世帯がある。うっかり火を出してしまい、パニックになっていやしないか。寝煙草だとしたら、早く対処しなければ大ごとになる。

 廊下を急ぎながら、臭いの元を探った。形は悪くコンプレックスの元だが、公志の鼻は効くほうだ。やりかけの英語の課題など、すっかり脇に退けられていた。


 家に近づくにつれ、臭いは強くなった。壁越しに、煙探知機のウィーン、ウィーンと気味の悪い電子音も聞こえてくる。


 まさか、うちが。


 嫌な予感を抱く頭の上から、突如、濃厚な焦げの臭いが噴き出された。


「そこか」


 正木家のひとつ手前、マジックで表札に佐倉と書かれた、幼馴染の家のインターホンを押した。舌打ちが終わる間も待てず、ダメ元でノブを回す。意外とすんなり開いた扉を押し開けた。


「佐倉!」


 薄く煙った室内から、同級生の未来が口元を押さえながら駆け寄ってきた。


「ごめん、ごめん。失敗」


 ちろりと舌を出して、咳き込む。警報機は、けたたましく鳴り続けていた。


「警報、どうやって止めるんだっけ」

「ああ、もう。退け」


 未来を押しのけ、軽い制止を振り切って、勝手知ったる佐倉家のキッチンへ踏み込んだ。ダイニングの椅子を途中で引いていき、天井に取り付けられた煙探知機本体にある小さなボタンを押した。

 電子音がピタリとやむ。

 続いて、公志はベランダへのガラス引き戸を全開にした。手前に部屋干ししてある洗濯物を見ないようにして、潤んだ目で礼を言う未来へ向き直った。


「こんな時間にメシか? 食べるもん、あんのかよ」

「晩ご飯は、とっくに済ませたよ。お父さん、夜勤の早出だったから」


 悪びれず、口を尖らせ反論してくる。

 未来の母は、昔から身体が弱く、今も入院している。母親不在の間、未来は、警察官の父と当番制で家事をこなしていた。が、その腕前は父娘揃って、お世辞にも上手いと言えなかった。


 公志がため息混じりに見下ろしたコンロは何やらベタベタと汚れ、内側を炭化させた小鍋が投げ出されていた。駆け込んだ靴下の裏も、床に落ちた何か踏んでしまったらしく、ベタつく。シンクの脇に丸められた紙とホイルに、薄まった焦げ臭さに混じる甘い匂いが結びついた。


「まさか、チョコとか?」


 明日は、バレンタインデーだ。

 図星だった。未来の頬がたちまち赤らむ。

 あまりの意外な事実に、公志は思わず聞き返した。


「え。その反応は、友チョコじゃないよな。好きな奴がいるんだ」

「どうだって、いいでしょ」

「いや、そりゃそうだけどさ。買った物の方が良くない? 碌に作れないのに」


 振り上げられた拳を避け、椅子から落ちそうになる公志に、未来はそっぽを向いた。


「私にでも作れそうなレシピだもん」


 口を尖らせ、視線を泳がせ、指先で服の裾を小さく摘む。誤魔化したいことや、隠し事がある時の彼女の癖は、幼い時から変わらない。


「手伝ってやろうか?」


 公志は椅子から降りた。何を作るつもりだったのか、誰にあげたいのか。聞き出したかったが、未来が横歩きで立ち塞がった。


「はいはい、もう帰って。大丈夫だから」


 ヒラヒラ振られた手元から、何かが落ちた。未来が慌てて屈む前に、公志はそれを拾い上げた。弾力のある柔らかな温い小袋に、眉を顰めた。思い当たって、未来の手首を掴む。右の手首に巻きつくバンダナの下が、赤くなっていた。


「火傷は、流水で冷やすのが一番なんだぞ」


 袖を捲り上げると、抵抗された。スルリと逃れた手を後ろへ隠し、未来はわざとらしく肩をすくめた。


「やったよ。その上で、保冷剤当ててたんだよ。その間に、焦げちゃったんだけど」


 語尾が弱くなり、緩い癖のある前髪を透かして上目遣いで見上げてくる未来の目は、悪戯を咎められた幼い時と全く変わっていない。オドオドと許しを請う色に満ちているのに、奥底には、こちらを非難する色もチラついていた。

 これ以上あれこれ言うと、機嫌を損ねるに違いない。

 公志は諦め、無言で手を差し出した。恐る恐る伸ばされた未来の腕から、緩んだバンダナを解いた。新しく冷えた保冷剤を受け取り、締め直してやる。


「大丈夫か? 来週の選考会」


 公志も未来も、同じ高校のテニス部の2年だ。来週には、来年度の春大会に向けた選手の選考を目的とした部内試合が予定されていた。小学生の時から地元のテニスクラブで地道に練習を積み重ね、地区大会で成績を残している公志のレギュラー入りはほぼ確定だろうが、高校入学して始めた未来は、どうなるか分からない。


「心配性だなぁ、公志は。これくらいの火傷でプレーに支障がでるわけないじゃない」

「そっか。慣れてるからな」


 またしてもからかうと、蹴りが入った。これは避け損ね、弁慶の泣き所へヒットした。


「いってぇ」

「そんなん言ってるから、公志は去年だって友チョコひとつも貰えなかったんだよ」

「くっそ。人の弱みにつけこむとは卑怯な」

「それより、瀬尾くんのほうが心配じゃない? いやに寒がってたけど、大丈夫かな」


 ダブルスを組んでいる相棒の名が出て、公志も同意した。


 部活帰りの瀬尾理人の様子に、公志も気がつかなかったわけではない。上着を着なくても平気だった公志と未来に対し、瀬尾はチャコールグレーのピーコートのボタンを全部留め、深緑ベースのマフラーで顔の下半分を埋めて、駅まで同行する間何度も「寒くない?」と公志たちの元気振りに呆れた素振りをみせていた。

 反対方向のホームへ上がっていった瀬尾を見送った後忘れていた彼の様子を、未来はずっと気に掛けていたのだろうか。

 心配そうな未来に、公志はおどけてみせた。


「年に一度のイベントに主役が欠席となれば、多くの女子生徒の涙で学内は床上浸水だろうな」

「それも、ひがみ?」


 クスクスと未来が笑った。公志も口の端を上げながら、自分の言葉で心の傷を広げていた。


 部の内外で瀬尾とのダブルスは「王子と野獣ペア」と称されていた。王子と称されるのは瀬尾である。爽やかな笑顔と柔らかな物腰の瀬尾とは何故か気が合い、二年足らずの付き合いだが親友と呼べる間柄だと思っている。

 プレーの上でも、瀬尾は高校に入って初めてラケットを握ったと思えない切れの良い動きをしてくれる。センスもあったのだろう。忽ち上達し、中学で県大会に出た公志が得意とする速攻を仕掛ける際も息のあったプレーが出来るくらい、腕をあげていた。

 しかし、そのことを鼻に掛けるわけでもなく、面倒見の良い瀬尾は、男女問わず人気があった。


 去年、鞄に入りきらない贈り物の山を前に呆然としていた瀬尾の顔を思い出した。友チョコの皮を被った本命もあったのではないだろうか。瀬尾は数日をかけて、贈り主が判明したもの全てに律儀にお礼をして回っていた。その姿がまた好感を呼び、今年はさらに多くの貢物が届けられると予想された。


 後で大きめのエコバッグでも持っていくよう進言しておこうと考える公志の前で、未来はまだ瀬尾のことを考えているようだった。


「風邪引いてなければいいけどね」

「そうだな。瀬尾は、佐倉と違ってまともだから」

「どういうことよ」


 振り上げられた腕を取り、逆に手を上げた。ビクリと縮こまる頭へ、掌を載せる。緩やかな癖のある短い髪の手触りが柔らかく、そのままワシワシと乱暴に撫でた。


「あまり夜更かしすんなよ。ドアベルだけで起こすの、大変なんだから」

「あと一回分材料あるから、リベンジしたら寝る」


 諦めが悪いというか、頑張り屋というか。そういう所も相変わらずだと思いながら、退出しようとして公志は思い出して振り返った。


「あと、鍵ちゃんと掛けておけよ」

「え、開いてた?」

「今日みたいなときは確かにいいけどさ。仮にも夜に女子高生一人なんだから」

「もう。お父さんってば、ちゃんと掛けないんだから」


 愚痴をこぼす未来へ、公志は肩をすくめた。


「いや、そこはお前も確認しろよ」


 人任せなのも、変わらない。

 はーい、と反省の色が見られない返事をした未来が、早く帰れと言わんばかりに下げた手首から先を手前から公志の方へと振った。


「おやすみ、公志」


 シンとした廊下へ出て、自分の部屋の前辺りで足を止めた。背後から鍵の回る音が微かに聞こえたのを確認して、白い息を吐き出した。


 産院、幼稚園から高校まで毎日連れ立って通ってきた未来は、公志に対し呼び方も接し方も変えていない。それなのに。

 いつから自分は、緊急のときでも彼女を苗字の「佐倉」で呼ぶようになったのだろう。何事も皮肉を織り混ぜなくては会話できなくなったのだろう。


 仄かに未来の髪の柔らかさが残る掌を見下ろした。

 小学生の高学年までは、未来のほうが背が高かった。いつも斜め下から見上げていた彼女の顔は毅然と前を向いていた。真面目すぎて疑うことを知らない故にどこか周囲から浮いていた公志が苛められたときには庇うように立っていた。


 いつの間にか視線は逆転して、先程も未来の小さな頭を俯瞰していた。癖のある前髪を透かして、上目遣いで恨めしそうに見上げられることが増えた。掴んだ手首は細く、親指と人差し指の先が容易に合わさった。

 もう、お互い高校二年なのだ。本来なら、入り慣れたお隣の家でも、彼女が一人の時に上がりこむべきではない。

 兄弟のように育った幼馴染との間に見えない壁が出来上がったのは、いつなのだろう。今までも気がついていたはずなのに、初めて知ったような衝撃を感じた。


 静まり返ったマンションの廊下は、弱い蛍光灯の光で乳白色に浮かび上がっていた。換気扇が回っている。暖房が稼動している。遠くから車のエンジン音が聞こえてくる。

 それらと扉ひとつ隔てた居住空間で、未来は焦がした失敗作の始末をして、もう一度いちから作り直しを試みるのだろう。

 そこまで背伸びをして手作りチョコを渡したい相手は、誰なのだろう。


 胸のざわめきに驚き、公志は目をみはった。

 もしかして、瀬尾のために未来は頑張っているのか。

 随分と高いハードルだ、後で慰めるのが厄介だなと考えながらも、変にざわついた胸の内は容易に収まらなかった。


 変な寒気が背中を撫でた。

 階下へのゴミ出しだけのつもりだったため、羽織った上着は薄かった。鼻がむずむずする。本能に従ってはじき出されたクシャミは、夜のマンションを満たす静寂の中に響き渡った。


 腕を摩りながら部屋に戻った公志は、机に置いたスマホを手にした。数十分前に瀬尾からメッセージが入っていた。


『インフルっぽい』『正木くんたちは、大丈夫そう?』『明日病院行くけど、もしかしたらしばらく出停かも』


 あまりのお約束な展開に、公志は重い溜息を天井へ向けて吐き出した。


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