ミライが迷子(1)#自己喪失

 自室のクリーム色の壁に投影されるのは、瞼の裏に焼きついてしまった苦い光景だった。


 放課後の、他に誰もいない教室。

 窓の外に揺れる濃い緑色の葉桜。

 前の席の椅子を反転させ、ひとつの机を挟んで。

 広げたノートの脇には、手作りと思しきクッキーの入った小さな弁当箱。

 一冊の参考書を覗き込むひと組の男女。

 互いの前髪が触れそうなほど近付いて。


「公志のバカ」


 むしゃくしゃと苛立ちを込めて、佐倉未来さくらみくは手に触れたミニタオルを投げつけた。幻影は消え、ただの壁になった面に一度は張り付いたタオルが、クタリと棚との隙間に落ちた。


 マンションの壁を挟んだあちら側は、その正木公志の部屋だ。


 当の本人は、居るのか居ないのか。

 居ないかもしれない。教室の入り口に立ちすくむ未来を見て、バツの悪そうな顔をした。それでも、身を翻したとき、追ってくる足音はなかった。

 下校時刻は過ぎているが、あのまま二人、どこかイイトコロに。

 ドラマか漫画のような展開を妄想し、怒りは勝手に膨らんだ。


 クッションも掴んで投げつけた。

 タオルと違って、壁にぶつかる音も風情も力強い。壁伝いの音は近隣に迷惑をかけると分かっていても、抑え切れなかった。比較的防音の良さを売りに出している物件だけに、この程度の衝撃は伝わりにくいと期待して。


 目覚まし時計を掴み。さすがに思い止まった。


 次に掴んだのは、リストバンドだった。去年のバレンタインに想いを通わせた公志と交換したものだ。幼馴染みから、恋人という次のステージに移った記念の品。

 だが、今は悔しさの素と化していた。


 やはり、カノジョとしての魅力が足りないのかもしれない。幼馴染みの延長で、付き合い始めからすでに熟年夫婦のようで、きゃっきゃウフフとときめく初々しさに欠けていた。

 かと言って、オトナの恋愛に進化することもなく。

 今までと何ら変わりない間柄に、公志は不満だったのか。


 折角、週末息抜きと称して映画を見に行かないかと誘おうとしたのに。公志の好きな俳優が主演なのに。


 相手の女子生徒は、呆然とした未来に気が付き、頬を赤らめ困惑してつぶらな瞳を潤ませた。至極、可愛らしく、か弱い姫を彷彿させた。

 彼女について、名前と顔、それと、声を知っている。

 放送研究部所属で、学校行事に重宝されるしっとり落ち着いた声そのままに大人しめの優等生。定期考査の採点後、廊下に張り出される成績順位票では常に首位争いに加わっている、雫という生徒だ。

 成績、人格、料理の腕。未来が勝てるのは、運動神経と思い切りの良さだけ。未来が男子生徒だったとしても、恋人として選ぶなら雫みたいな女の子だ。


 それに。

 学年が上がる直前、一部の女子の間を静かに流れていった噂があった。


『あの優等生が、テニス部の野獣にコクったんだって』

『王子じゃなくて?』

『でも、お似合いじゃない? どっちも真面目な努力家って感じで』


 すぐに春休みに突入し、新学期には誰も続きを語らなかった。公志も、何も言わなかった。だから未来も得意の忘却力で忘れ去っていたが、今になって思うと伏線はすでに張られていたのかもしれない。


 もう一つ、思い当たる節があった。

 部活を完全引退した半月ほど前に突然、公志から朝と放課後に学校で勉強したいから登下校の時間を変えると言われた。それまでは同じテニス部に所属していたこともあり、毎日連れ立って登下校していた。

 未来も一緒にどうかと誘われたが、断った。それも、計算済みだったのか。


 スマホが振動した。液晶画面に公志の名が浮かぶ。もう、何度目だろう。

 ギュッと目を瞑った。スマホを見なかったことにして、思い切りリストバンドを投げつけた。壁へ投げたはずが、軌道を外れた。


「た」


 ペシリとリストバンドがヒットした音に被さったのは、父の声だった。


「い、いつの間に帰ってたの。てか、早くない? つか、勝手に娘の部屋開けないでよ」


 まくしたてる娘に、父は顔に張り付いた汗の臭いが滲み込んでいるリストバンドを指先につまみ、眉を顰めた。


「いや、署から直接母さんの病院へ行くつもりが、着替えを忘れて取りに帰ったところなんだが。それより、どうした。公志君と、喧嘩でもしたのか」


 ズバリと言い当てられ、顔が熱くなった。ぬいぐるみの黄色いクマを引っつかんで投げつけるが、そこは現役の警察官だ。先程のように不意を突かれない限り、片手で正確に受けられた。


「そんなこと、どうでもいいでしょ」

「まあ、な。ただ、うちの玄関前でスマホ片手にションボリしている男子高校生が佇んでいるのを見かけると、仕事柄、声もかけたくなるものだ」


 つくづく、間が悪い。マンションの廊下に佇むくらいなら、インターホンを押せばいいものを。うちの前で電話をかけなくてもいいのに。父も父だ。何故、今朝に限って母の着替えを持って行かなかったのか。

 普段から仕事とは関係ないものは忘れがちな父のことも心の中で罵る目の前に、一枚の紙が差し出された。


「それと、昨日預かったこれ、署名しておいたぞ」


 昨日提出期限だった進路希望調査書が差し出された。口を尖らせながら受け取ろうと伸ばした手の先で、父はフイと紙を翻した。


「しかし。進路に関して自由に選べとは言ったが、希望する学部も学科もてんでバラバラというのは、どういうことだ」


 やや尋問口調になる父を前にして、思わず床へ正座してしまった。


「えっと。模擬試験の結果から、安全圏のところを探した結果です」

「それなら、大学を変えるのが筋だろうに。ここから通える大学は、幸い、たくさんあるだろう」


 とてもじゃないが、公志が目指す大学から、手の届きそうな別の学部や学科を選出したとは、白状できなかった。

 いくらマンションの隣人と言えども、違う大学へ通えば会えなくなる。それが嫌だ。現に、反対側の隣人とは年に二、三回顔を合わせればいいほうで、扉を開けるタイミングが五分ずれるだけで遭遇率は激減する。この半月、共に登下校できないだけで寂しくて堪らず、その気持ちの結晶が父の手で翻る進路希望調査書だった。


 腿まで伸ばしたシャツの裾を指先で弄りまわしながら、黙秘を続けた。大きな溜息が降ってくる。


「父さんと違って、お前は自由に進路を選べるんだ。この歳で将来を決めるのは確かに困難だが、もう少し、自分がどうしたいのか考えてみろ」

「はい」


 しおらしく頷くと、父は頬を緩めた。


「遅くなって構わないなら、何か買って帰るが、どうする。今日はお前が夕飯作りの番だろう」

「待ってる」


 よし、と頷き、父は紙を机に置くと出て行った。


 公志と朝夕の自主学習をすることが難しい要因の一つは、母の入院だった。

 物心ついたときから、母は入退院を繰り返していた。中学生になったころから、入院期間は朝の洗濯と弁当作り、夕飯の支度を父と交代で行っているが、朝が弱い未来は、早起きをして家のことをこなし、始業より一時間も早く学校へ向かう余裕を持つ自信がなかったのだ。


 その間に、公志はクラスメイトとなった雫との距離を縮めてしまったのかもしれない。噂をしていた女子の言うとおり、彼らはお似合いだ。葉桜を背景に、問題の解説をしている雫と頷きながら聞く公志のまなざしは、勉強に対する同じ熱を持っているように感じられた。


 自分だったら、どうだろう。

 苦手科目から逃げ、赤点すれすれで今まで過ごしてきた未来のことだ。自主勉強に加わっても、すぐに投げ出して、場を白けさせてしまっただけかもしれない。


 考えていくうちに、自分の嫌な面が水に混ざっていた油のように浮いてきた。その数はどんどん増えて、表を覆っていく。


 またスマホが震えた。ふたつのクッションでスマホを挟み、未来は進路希望調査書に書いた文字を消しゴムで消していった。


 嵐に見舞われたのが休日前だったのは、不幸中の幸いだった。


 翌朝、お約束通りみっともなく腫れた目をアイシングしながら、指先は保冷材を包んだタオルの端をグリグリ捻り続けていた。使い込んだタオルは縫い目が解け、手癖によって崩壊寸前に追い込まれている。

 脇に置いたスマホには、一時間以上前に公志からメッセージが届いていた。


『市立図書館の自習室行くけど、来る?』


 受け取ってからずっと、同じ姿勢で悩んでいる。

 こんな醜い顔を合わせるのは嫌だ。かといって、意地を張り続けるメリットもない。こんなことでは、嫌われてしまうかもしれない。かといって、仲直りの話とも限らない。別れ話を切り出されたら、どうしよう。


 公志が側にいない世界など、想像もつかなかった。


 ぐるぐると迷っている間に、時計の長針は文字盤上をあっさり一周してしまっていた。

 温くなった保冷材を目から離し、湿った前髪を手櫛で解いた。

 父が干していった洗濯物が揺れるベランダは、入梅直前の様相でどんよりとしている。厚く垂れ込めた墨色の雲、肌に張り付く湿気。気が滅入る材料を並べられ、とてもじゃないが、いつもの元気印を公志に見せられる自信がなかった。


 電子レンジの扉に映った哀れな自分に気が付き、無理に口角を上げてみた。昔、母が言っていた。辛いときは嘘でもいいから笑顔を作ってごらん、と。


 財布の中を確認し、勉強道具として週明けに和訳の課題を提出しなければならない英語の教科書とノート、電子辞書をトートバッグに入れて家を出た。


 美味しいものを食べればきっと、いつもの自分を取り戻すことができる。こんな鬱陶しい蒸した日には、駅前のジェラート屋がいい。エアコンの効いた室内で新発売の檸檬味を堪能した後、公志に連絡してみよう。


 人のいない路地で密かに下手なスキップをしながら向かった駅前で、未来は呆然とした。


『本日、店主はパパになります。みなさまには大変ご迷惑をおかけいたしますが、出産に立会いたいため……』


 目出度い知らせである。

 だが、何故、今日、このときに店主の子供はこの世に生まれ落ちてこようとしているのだろう。

 何もかもが裏目に出る。

 数名の諦め顔の客と共に店を離れ、ノロノロと公志の連絡先を表示した。深呼吸をして、気持ちを決めて、電話をかけた。

 呼び出し音が、冷たく心臓を揺さぶった。


『おかけになった電話は、電源が切れているか……』

「なんでよ」


 飛び出した悪態に、通り掛かりの会社員がビクリと怯えた目で振り返った。慌てて頭を下げた。羞恥で、穴を掘って潜りたくなる。

 図書館の自習室では電源を切らなければならない。未来を含め、たいていの人はマナーモードにする程度だが、公志のことだ、生真面目に電源を切っているのだろう。

 これもそれも、公志のせいだと心中で罵り、そんな自分に嫌悪し、惨めに項垂れ視線を落としたモニターに水滴が落ちた。


 振り仰ぐと、淀んだ雲から細く糸のような雨が降り始めていた。 

 梅雨空だと分かっていながら、傘を忘れた。項垂れながら、やはり自分はあの人の遺伝子を継いでいるのだと自覚した。


 駆け込んだ商店街は、シャッターを下ろしている店のほうが多い。そのうちの一つ、公志とノートや消しゴムをよく買いに来た文具店の軒先でやり過ごすことにした。

 すぐ側の交差点では、信号が変わる度にトリの囀りと『とうりゃんせ』の電子メロディが交互に鳴り続けていた。それがまた耳障りで、神経を逆なでした。


 誰かに、この苛立ちやモヤモヤを聞いて欲しかった。

 惨めったらしく、スマホに登録してある連絡先をスクロールしていった。


 真っ先に浮かんだ親友は、朝からデートの予定だと言っていた。邪魔をしてはいけない。普段つるんでいる女子は、遊び相手としてはいい子たちだが、本音をさらけ出せる仲ではなかった。


 こうしてみると、弱音を吐ける相手というものは存外少ない。父のぐうたら振りや、映画、タレントの話ならいくらでも話せる相手がいるのに、その人たちは元気はつらつ悩みなんて何一つなくいつも前向きな佐倉未来しか知らない人ばかりだ。


 らしくない。


 そう思われるのが、嫌だった。

 軒先から垂れてきた水滴を避け、埃まみれのシャッターに当たらないようギリギリまで壁に寄り、灰色の空を見上げた。


 公志にも、みっともない姿を見せたくない。


 そう考えていたことに気が付き、胸がざわついた。

 幼いときは、母が入院する度に泣いたり落ち込んだりする姿を見せていた。八つ当たりしたこともあった。

 しかし、異性として彼を意識し始めた中学生時代から、いい面だけを見てもらいたくて頑張ってきた。そのうちに、どんなことがあっても落ち込まない、立ち直りの早い、いつも明るい女子という虚像を、自分自身が信じ込んでしまっていた気がする。


 突然、怖くなった。

 今、ここにいる自分は、本当の自分なのか。そもそも、本当の自分って、どんな人間なのだろう。今まで自分だと思っていた明るい佐倉未来は、実は偽者だったのか。

 そんなことはない、と頭を振って、嫌な妄想を追い払った。現実に繋がるために、我武者羅に連絡先をスクロールしていった。

 ふと、ひとつの名前で指が止まった。


 瀬尾理人。


 テニス部現役のとき公志とダブルスを組んでいた同級生の、王子と呼ばれていた爽やかな笑顔が浮かんだ。物腰が柔らかく、誰に対しても優しく、バレンタインには山ほどチョコが集まる好青年。

 いやいや、と首を横に振った。


 その好青年が高校入学当初から密かに思い続けている相手が未来であることは、全校に知れ渡っている悲話だ。他にもお似合いの女子はいるだろうに、理人本人も真実を問われ、申し訳なさそうに、しかしはっきりと「佐倉未来のことが好きだ」と断言したとか、しなかったとか。


 それからも変わらず公志や未来と接し、半月前まで部活が終わると一緒に最寄り駅まで帰り、時に三人でファーストフード店によってだべる間柄ではあるが、公志との恋愛について相談する相手にしてしまうのは間違いだろう。

 理人の優しい眼差しや落ち着いた声音を思い出していると、弱った心が磁石のように引き寄せられてしまった。


 いやいや、しかし。


 ぶんぶんと首を振り、スクロールしようとした指が変に画面を弾いた。

 あ、と思ったときには、発信していた。スピーカーから軽快な呼び出し音がリズムを刻む。


「違う違う」


 急いで取り消したものの、通知は届いたようだ。電源を切って逃げる前に、折り返し理人から着信が来てしまった。

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