ミライが迷子(2)
どう言い訳をしようか。
ドクドクと喉から飛び出そうな心臓を飲み込み、スマホを耳に当てた。
『珍しいね、佐倉さんから電話、て』
「ごめん。ちょっと、操作ミスしちゃって」
あはは、といつも通りに笑い飛ばし、そのまま話を終わらせようとした耳元で、理人は訝しげに声を低くした。
『なんか、あったの?』
「え、なんで」
『なんか、いつもと違う感じだから』
気のせいだよ、と即座に返せず、声が詰まった。見透かされている。いつも温厚な笑顔の理人は、その実、後輩たちの不調や押し隠している心配事に敏感な一面もあった。
『どうしたの?』
優しく畳み掛けられ、砂で築いた即席の心の防御壁は呆気なく崩れ落ちた。
「こんなこと、瀬尾君に相談するの、おかしいんだけど」
『ん』
優しく促されるままにポツリポツリ、軒先から滴る雨水のように、目にした公志のこと、進路も含めた先行きの不安が漏れ出た。
「ごめんね、こんな、しょうもない話につき合わせちゃって」
自嘲気味に、睫毛の先に溜まった水滴を指先で拭った。普通の通話で良かった。多少鼻声になっているかもしれないが、ビデオ通話で泣き顔など、見られたくなかった。
マイクから口を離し、密かに洟をすすった。近くの市民グラウンドから、正午を知らせる『365日のマーチ』の電子メロディが軽やかに流れた。曇天に響き渡る音楽で理人の声を聞き逃すまいとスピーカーに押し付けた耳が、穏やかな声に包まれた。
『全然しょうもない話じゃないよ。今の時期、考えちゃうテーマじゃないかな。進路指導でいろいろ言われるし』
「瀬尾君だったら、こんなとき弟くんに聞いてもらったりするのかな」
理人には他校に通う二学年下の弟がいることを思い出し、なんとなく口にした。たちまち、スピーカー越しにテンションが下がったのが伝わった。
『そういう、気持ちの中の繊細な部分ってあいつには話したくないなぁ。それだったら、正木君のほうを選ぶな、僕は』
一人っ子の未来には分からない事情が、瀬尾家の兄弟間にはあるようだ。
『だけど、正木君と佐倉さんって、兄弟みたいに育ったんじゃなかった?』
「うん、まあ。うちのお母さんが入院していたときは、晩御飯からお風呂から寝るところまで、一緒に面倒みてもらったし」
『お風呂も一緒に?』
「うん……て、変なこと考えないでよ。ほんと、小学生入るまでの話だからっ」
分かった分かったと、笑い声も柔らかかった。
ひとしきり笑うと、理人は、ふと切なげな溜息をついた。それが、未来をドキリとさせた。
『僕が言うのもなんだけどね、正木君は、佐倉さんが弱いって思っている部分も含めて、佐倉さんのこと好きなんじゃないかな』
不思議と悩ましさと艶やかさを感じてしまったのは、やはり心が弱っているからだろうか。
「だけどさ。雫には一回告白されてんだし、そのうえでふたりきりで勉強ってことは、公志も気持ちが動いてるんじゃないかな」
『どうかな。思い切って、ちゃんと話してみなよ。小耳に挟んだ話じゃ、正木君は何人かの友達と一緒に勉強してるってことだから、きっとふたりきりだったのはタイミングが悪かっただけなんじゃないかな』
「公志も、そういうふうに言ってはいたけど」
『でしょ? 信じてあげなよ』
ほんの半月、公志と一緒にいられなかった寂しさが呼び込んだ暗鬼なのだろうか。信じることが、できるだろうか。
「う、ん」
迷いながら言い淀むと、理人は電話口でクッと喉で笑った。声を押し殺し、囁くように掠れる音声が未来の動悸をさらに速めた。
『もし、本当に正木君の気持ちが佐倉さんから離れているんだったら、いつでも、僕に乗り換えてくれて構わないよ。むしろ、大歓迎だ』
「え、ちょっと、なに、瀬尾君らしくない」
いつもの理人より大胆な発言に、火照った頬に湿った手の甲を押し当てた。不覚にも、ときめいてしまった。
『そう? 正木君にも言ってあるけど、僕はいつだって佐倉さんを奪うチャンスを窺っているからね』
サラリと事も無げに言われ、更に全身が熱くなる。
公志と付き合いだしたと打ち明けた友人の何人かは、意外そうに言った。
てっきり、未来も瀬尾君派かと思ってた。
ルックスも顔もいい瀬尾の方が人気があるのは事実だ。穏やかな性格も受けがいい。対して公志は、親しくない人にとっては真面目でとっつきにくい印象を与えるようだ。
正直、未来も今まで全く瀬尾に胸をときめかせたことが無かったかといえば、嘘になる。今のように、落ち込んでいるとき笑顔で励まされると、この人が隣にいてくれたらと、思わないでもなかった。
それでも。
未来は頭を振った。
公志は、どんな時でも側にいてくれる。例え自分が不利になろうと、周りの人を優先して行動する。その結果が今回の事態にもなったけれど。
そういうところも含めて、未来は公志を好きになった。
「気持ちは、有り難いけど」
『分かってるよ。今、佐倉さんにとって一番大切なのは正木君なんだよね。悔しいけど』
寂しそうな声がまた、未来の心を波立たせながらも余分な熱を下げていった。
「うん。ごめん」
『いいよ。僕はただ、幸せそうな佐倉さんを見ているだけで満足だから。あ、実はさっき正木君から連絡あったんだけど、佐倉さんのこと探してたよ』
バッテリー切れるから、と通話は遮断されたが、耳には理人の柔らかな声がしばらく木霊していた。じんわりと鼓膜へ浸透し終わるのを待って、顔を上げた。
話を聞いてくれたのが、彼で良かった。感謝と尊敬、一筋の申し訳なさで、空模様を窺った。
雲は所々薄くなり、陽光を透かせていた。しかし、雨は依然降り続き、金の糸となって景色を霞ませていた。
公志に連絡をしようか、どうしようか。
迷いは薄れたといっても、一抹の不安は、この雨のように未来の決心を霞ませていた。
こうやって、一度迷ったらなかなか踏み出せない自分が歯がゆい。しかしそれも、これまでの短い人生を振り返ってみれば至極「未来らしい」ことだった。
迷いながらトートバッグの角を弄る未来の前へ、影が立ちふさがった。頭上で雨粒が傘の表で弾かれ、パラパラと音をたてた。
「公志」
大きな傘の中で、公志はスマホ片手に気まずそうな、困惑したような顔で立っていた。
「どうしてここが」
まだ連絡していないし、帰り道にはあたらないのに、と訝しむと、スマホを軽く掲げられた。
「瀬尾から、メッセージが来た。多分、ここにいるからって」
どうして場所が分かったのか。さまざまに疑問や感情が渦巻き混乱が収まらない未来を、公志の腕が傘の中へ導いた。
「どうせ、こんな天気なのにも関わらず傘を持たずに出てきたんだろ」
いつもの公志らしいデリカシーのなさに閉口し、その場から足を離さず彼のシャツの裾をつまみ、俯いた。
「勉強、終わったの?」
「昼になったし、な」
「雫と一緒だったんだ?」
「違うよ。俺の言い分、聞いてくれる?」
ぎこちなく頷くと、公志は溜息をついた。
「幸田が担任に呼び出されて戻ってくるのを待っている間、話していただけだよ」
入学当時から、やたら公志を気に入って絡んでくる男子生徒の名を出されても、不安は拭いきれなかった。
「だけど、雫からはコクられたんでしょ? 彼女のほうは」
「俺より、噂のほうを信じる?」
やや剣呑な音色に、未来はビクリと身を縮め、つまんだ公志のシャツの裾を捻った。
「そもそも、二年の時の話も、違うんだ。幸田に頼まれて雫にメモを渡したのを見ていた奴らが、勝手に騒いだだけだよ」
空を見上げるうんざりとした眼差しは、妄想を膨らませ虚言を広めた誰かに向けられたものだった。
「幸田って、性別関係なく気軽に絡むのに?」
「それが、本命の前に出ると、急に借りてきた猫に化けるんだよ。誰かさんみたいに」
ニヤリと額を突かれ、未来は口を尖らせた。
つくづく、自分でも可愛くない。公志は、いつも通りに優しく、嘘のない目で見てくれているのに。
これでは、完全に自分だけが悪くて、惨めで。こんな醜い自分が公志の隣に居てはいけないような気がしてきた。
「怒ってもいいんだよ」
突き放すように言うと、公志は首を傾げた。訝しい目をしているが、相変わらず怒ってはいない。それが悲しいような、腹立たしいような。
「私のこと、嫌いになってもいいし。こんな、うじうじして面倒臭いのと付き合い続ける必要なんて」
ない、と続けようとした唇に、柔らかく公志の唇が重なった。傾けた大きな傘と埃の積もったシャッターに挟まれた空間の気温が一度、上がった。
「いつから隣にいると思ってんだ」
頬に当たる声は、微かに笑いを含んでいた。
「そういった、面倒臭いところも全部承知で、俺は未来を恋人として選んだんだけど」
ほんの半年未来が早く生まれただけで、ふたりはマンションの隣人として、なにかと一緒に居た。公園まで散歩するのも、保育園に通うのも。反抗期真っ盛りだった小学生高学年時代は、家出と称して数ヶ月間正木家に居候していたときもあった。
蘇る恥ずかしい思い出も合わさり、首まで熱くなった。
「タコになった未来も、もちろん好きだし」
「ちょ。やめて、恥ずかしいから」
トートバッグを顔の高さに翳すと、ようやく公志が笑った。
「未来は、俺が選んだ大切な人だから。もっと自信持てよ」
その、優しい眼差しに嘘がないことも、長い付き合いで分かっている。真面目で努力家と評されることの多い公志だが、それも、不器用で常に劣等感を抱えている故だと未来は知っている。
そんな彼だから、ずっと側にいて欲しい。
雨は止む気配をみせない。けれど、公志の傘があるから平気だった。足元が濡れても、今は気にならない。
ところで、と、車が跳ね上げる泥水から未来を庇いながら公志が首を傾けた。
「もしこれから何も予定がないなら、気晴らしに映画、見に行くか?」
「でも、来週、模試でしょ」
本当なら自分から誘おうと思っていた映画なのに、また捻くれた返事をしてしまった。罰が悪く、上目遣いで窺うと、いつも通りにずるいくらい真っ直ぐな公志の眼差しが笑っていた。
「今は、未来のほうが大事」
へそを曲げ続ける未来の頭に、大きな公志の手が載せられた。温かく、どっしりとしていて、包み込まれるように優しい。
「そ、そこまで言うなら、付き合ってあげてもいい、よ」
と、空気を読まない腹のムシが鳴いた。
「雰囲気ぶち壊すところが未来らしい、ていうか。まずは、昼飯だな」
「いちいち、そういうこと言ってるからモテないんだよ、公志は」
ムッとしながらも、公志の腕に思い切り抱きついた。
駅から吐き出される学生の波が、今朝は一段と眩しい。
冬服から夏服への移行期に入った初日、今までの蒸し暑さを忍び耐えてきた生徒たちが一斉に重い色のブレザーを脱ぎ、白いシャツの袖に夏色の陽光を反射させていた。
流れに乗る未来の隣に、やはり公志はいない。今朝も、幸田、雫その他数名と自習室で勉強をしているはずだ。しかし、もう、不安はなかった。
自主的な勉強会は、次の定期試験まで続く予定だそうだ。しかし、それまででも、未来が夕飯当番でない日は勉強会を欠席して、図書館で勉強を教えると言ってくれた。
マンションのお隣同士なのだから、どちらかの部屋でもいいじゃないか、その方が少しでも長く公志と一緒に居られると主張すると、彼は日焼けの抜けきらない頬を赤らめてそっぽを向いた。
『未来が気になって、勉強どころじゃなくなるだろ』
その言葉を何度もリピートさせながら、約束、と絡めた小指に残る力強さを、そっと握り締めた。引き締めきれない頬が緩む。
「なんか、いいことあった?」
理人の声が、背後から降りかかった。
数名の女子が、浮き立った声で理人に挨拶をして通り過ぎていく。それを吹き抜けるそよ風のようにやり過ごしながら、理人は並んで顔を覗き込んできた。頭の傾きに合わせて、癖のない髪が零れる。
穏やかな声音は、あの電話のままで、平然といつもの顔を作ったものの、心臓は素直に動悸を速めた。
「え、別に」
「そう? 嬉しそうだけど」
言っている理人のほうが、数段嬉しそうだ。それがまた、電話口での積極的な理人を彷彿させ、正門を通る間も鼓動を早鐘へと変えた。
曖昧に返事をしながらも、勇気付けてくれた礼だけは直接言いたかった。上手くいつも通りの声が出せるかと緊張しながら、可能な限りさり気なく切り出した。
「瀬尾君のお陰で、いろいろ吹っ切れたよ。ありがとう」
よし、上出来、と自画自賛して振り仰いだ視線の先で、理人は予想外の表情をしていた。訝しげに眉を顰め、首を傾げている。
「僕のお陰って?」
「え、昨日電話で」
覚えていないなんてことがあるだろうか。彼の反応の理由が分からず、未来もまた、眉を顰めた。しばらく互いに首を傾げる。険しい表情で口元へ拳を当てた理人が、あ、と呟いた直後、青ざめた。
「ちょっと待って。それって」
肩を掴まれる勢いに、二人を追い抜いていく生徒が不審な眼差しを流してきた。特に女子は、ヒソヒソと言葉を交わしながら敵意さえ漂わせていた。
困惑する未来の前で、理人は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あー。もしかして、あの時かぁ」
説明を求めると、悄然と立ち上がった理人は鞄からスマホを取り出した。理人らしい、傷の防止が目的だけのシンプルなカバーが装着されていた。
「だから、違う色がいい、って言ったのに」
「どういうこと?」
重ねて説明を求めると、理人は咳払いをした。
「スマホ、カバーも含めて弟と全く同じで、時々間違って入れ替わっちゃうんだ」
「つまり」
「佐倉さんと電話で話をしていた相手は、弟と思われます」
「弟くん」
「瀬尾隼人。僕の成り済まし常習犯です」
一度だけ出会ったことのある、どこか斜に構えた隼人が脳内でペロリと舌を出した。
「じゃあ。え。それって」
鼓膜を心地よく擽り、誘惑してきた言葉は、成り済ました隼人のものであって。電話をしながら公志に未来の居場所を、どう知ったものか、伝えたのも隼人であって。
視線が定まらず、顔が熱くなったり首を傾げたり。未来の反応に、理人は不安を掻きたてられたらしい。
「もしかして、あいつ、佐倉さんに変なこと言った?」
焦る理人に申し訳ないが、沸々と笑いがこみ上げてきた。
成り済まし。
甘く口説き落とすような隼人の悪戯に、一瞬でも本気でときめいてしまった自分が可笑しくて。クスクス笑いが止まらないでいると、理人は益々うろたえた。
「まあ、瀬尾君には、変わりないよね。ありがとう」
「伝えとくよ。じゃなくて。何言われたか教えてよ」
「本人に聞いてみて」
「あいつ、絶っ対に口割らないから」
丁度そこを、担任が横切った。
「あ、私、進路の紙ださないといけないから。またね」
先生、と担任を追い、縋りつかんばかりの理人へ「ごめんね」と手を合わせた。
公志とは全く別の道。繰り返される母の入退院とリハビリを通して出会った、心理カウンセラーになりたい気持ちを思い出させてくれたのも、愚痴に耳を傾けてくれた「瀬尾」だった。今の学力ではあと一歩足りないが、覚悟は決まった。
もう迷わない。
駆け出した足元で、濃い影が躍った。
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