On Your Mark(1)#再出発
高く澄んだ秋空は、次第に茜を濃くしていく。
部活動の掛け声が響き、夕焼けに染まる校舎の昇降口で呼び止められ、振り返った先に佇む女子生徒。
となれば普通、恋の告白かというシチュエーションだが、瀬尾隼人の前に立っている女子生徒の表情に、そのような甘やかな予感は微塵も無かった。
胸に抱えているのは数枚の紙を挟んだクリップボードであり、袖を捲った片腕に数個のストップウォッチが下がっている。反対の腕に最大百二十メートル計測可能なメジャー。装備から考えると、隼人が名簿の上だけで所属している陸上部のメンバーだと思われた。きっちり上まで閉じられたジャージの襟山で好き勝手に跳ねる毛先。緊張からか、興奮からか、紅潮した頬の上で煌く黒目がちな大きな目は、真っ直ぐに隼人を睨み上げていた。
愛の告白どころか、むしろ鬼を成敗しようとしているかのようだ。敵意すら感じられる。しかし、見覚えのない顔だ。
ジャージの脇に入ったラインの色から判断して、同じ一年生なのだろう。が、九クラスある中の、誰なのか。陸上部らしいと推測されるが、隼人が休部する前には居なかった。本当に見も知らぬ女子生徒だ。当然、恨みを買うようなこともしたはずがない。それなのに、相手は目を怒らせて立ちふさがっている。
いきなり英雄に根城を襲われた鬼も、かような理不尽さを味わったに違いない。鬼に同情しながら、用件を尋ねた。
への字に引き結ばれていた彼女の唇が、逆光の中で動いた。
「どうして走らないの」
予想外の問いに、面食らった。聞き返すと、彼女は苛立ちを募らせた。
「二年前の中学陸上選手権短距離走部門の大会新記録保持者なんでしょ。なのに、どうして走らないの」
厄介な奴につかまった。というのが正直な感想だった。
自分はもう、選手として走るつもりはない。交通事故による後遺症から心理的な理由まで個人的な事情はあれこれある。が、それを、二学期もある程度過ぎた今日まで擦れ違った覚えもない女子に、とくと語る理由も義理もなかった。
「俺の勝手だろ」
丁度、外周走りから戻った陸部の掛け声が裏門から入ってきた。先頭集団に続き、バラバラと細い列になってグラウンドで溜まる。そもそも、と心の中で毒づいた。学校の敷地周辺を走る外周は、種目に関わらず全員参加のはず。どうしてこいつは参加していないのか。
「行けよ」
ストレッチを始めた陸部集団を顎で示すと、彼女は僅かに迷いと悔しさを含んだ表情でグラウンドを一瞥した。が、依然隼人の進路を塞ぐように仁王立ちしていた。
「今度の新人戦は間に合わないにしても、来月のブロック選抜までは調整できるでしょ」
「だから。あんたには関係ないだろ」
「ある」
予想外に強い即答に、驚いたのは隼人だけではなかった。彼女もまた、自分の声の大きさと鋭さに驚いたように目を見開いた。たちまち恥ずかしそうに口をクリップボードで隠し、そろりと顔を背けると下唇を噛んだ。ボードが曲がるほど力を入れた上腕が、細かく震えていた。
「関係、あるよ。だから」
「悪いけど、俺、あんたのこと全然知らないし。夏から休部してるし。そもそも、誰かのために走ってたわけじゃないから」
踵を返す背中に、女子生徒の声が縋ってきた。が、それを親友のドラ声がかき消した。
「みーのりん。集合だよ」
グラウンドと校舎を隔てるフェンス越しに、木村勇哉が空気を読まないヘラヘラ顔で手招きをした。困惑し、返答を淀ませる彼女に構わず、明るいあとくされの無い強引さで部活へ戻そうとしている。振り返って様子を見ると、あちらも同じタイミングで首を捻ったところだった。中学のときから並んで走っていた勇哉の、やや大振りな口の端が引き上げられ、一重の吊り上った目が訳ありげに笑っていた。
ま、とりあえず、感謝しておくか。
軽く手を上げることで応え、正門に向かいながら左腕に軽い疼きを覚えた。
リハビリは、とっくに終わっている。これ以上の回復は望めないし、日常生活に支障がない以上、必要もない。
走ろうと思えば、平均より速く走れる。だけど。
もう、走らない。
あのときのように走れないのなら、隼人には、走る意味も気力も残っていなかった。
それにしても。
女子生徒の強い眼差しは、残像となって隼人の目の前にちらつき続けた。
あいつは、誰なんだ。なんのために、俺を走らせようとしているのか。
「マネージャー?」
昼休憩、校内の自販機で買った缶コーヒーを煽りながら勇哉が器用に頷いた。
「そ。二学期から編入してきた三組の子で、
「詳しいな」
呆れていると、勇哉は悪びれることなくニヤリとした。
「気になる相手のことはどんな些細なことでも知りたいってのが人情だろ」
「そうなのか」
「そう」
「ま、確かに勇哉の好みっぽい」
コーヒーの最後の一口を飲みこむタイミングを誤り、勇哉は盛大にむせた。どこぞの親父顔負けに、全身で咳き込む。隣のベンチで甲高く喋っていた女子生徒たちが、あからさまに嫌な顔をして立ち去っていった。
「またまた隼人クン、からかわないでほしいなぁ」
「お前が自分で言ったじゃん。気になる相手だって」
「そうだっけ」
まだゲホゲホと苦しげに喉を押さえながら、親友はふいに真面目な表情になった。
「で。やっぱ、走る気になんねぇのか」
「焚きつけたんは、お前か」
「いや。隼人と何話してたんか聞いたら、今度の大会で走ってくれと頼んだ、て言うから」
鋭い横目で見つめられた左腕が、セーターの中で疼いた。縦に振った頭の動きに合わせて、癖のある前髪が弱く揺れた。
「少々腕振れなくったって、まだ俺に負ける脚じゃねぇだろ」
お茶のペットボトルの蓋を弄びながら、隼人は密かに溜息をついた。
勇哉は事故直後から復帰を望んでくれていた。互いにライバルとして競い合い、その結果タイムを縮めてきた仲だ。自己ベストを更新すれば肩を組んで笑い、スタートのタイミングを誤れば丸めた背を撫であった。
目を閉じれば今でも、鮮やかな感覚を伴って思い出すことができる。
『On your mark』
合図と共にスタートラインへ並んだとき、自分から、そして共に走るライバルから漂う、身の引き締まる緊張感。
『Get set』
スタートラインに手をつき、クラウチングスタートの姿勢で顔を上げた先に伸びる、青いウェザーに引かれた真っ白な直線。
『Go』
スタートの合図と共に飛び出し、無我夢中になる約十一秒間。スパイクの音、耳を過ぎる風、歓声。駆け抜けた後の快感。
しかし、考えれば考えるほど、暗く立ちふさがるもう一つのイメージが色を濃くする。
雨の交差点、舞い上がった傘、耳をつんざくブレーキ音。
「お。降ってきた」
剣呑な勇哉の呟きに窓を見れば、灰色の校舎の外壁を引っかく雨の痕が次第に増えていくところだった。前線の影響で昼過ぎから雨との予報通りだ。夕方までもって欲しいという隼人の願いは、天から却下された模様だ。
勇哉もまた、降り出した雨に肩を落とした。
「この調子じゃ、今日は筋トレかぁ。隼人もいっしょにどうだ」
「バイトあるから」
「つれないな。今度奢ってよ。駅前に新しく焼肉屋できたじゃん」
ずいずいと揺らした上体で肩をぶつけてくる。セーターを挟んでいても、走り続けている勇哉の腕を覆う鍛えられた筋肉を感じた。最近また伸び悩んでいるようだが、ブロック大会でもっと速い選手に挟まれて走れば、溜めている実力を発揮できるだろう。一年生ながら、当校陸上部の最優秀選手であると自信をもって推せる。
「いやだ。お前のためにバイトしてんじゃないから」
ぶつかってくる手前でヒョイと立ち上がれば、そのままの勢いで無様にベンチへ転がった。ひでぇ、と泣きまねをする親友を笑い、窓の外へもう一度目を向けた。
雨。
よりによって、今日、この日に。
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