On Your Mark(2)

 夕方まだ早い時間だというのに、雨のせいで日暮れ時を思わせる暗さだった。

 緩やかなカーブを描く坂を上る足取りはただでさえ重い。そこへ、しっとり濡れたスラックスの裾が更なる重みを加えていく。ガードレールを挟んだ右手の車道からは、遠慮の無い水飛沫が上がった。

 歩道の左手は崖となり、その下に広がる貯水池を見下ろすことができた。細かに波打つ広い水面を囲む散策コースと小さな公園に、人影はまばらだ。貯水池をまたぐ橋のえんじ色が、しっとり濡れた初秋の木立の合間から見え隠れしていた。橋の上には様々な色の車が信号待ちの列をなしている。それらもまた、雨のフィルターによってくすんだ色になっていた。


 どちらを向いても、車だらけだ。

 いつもにも増して息苦しさに襲われた。魔物に包囲され、じわじわと攻め寄られる異世界人の描写に似た汗が、全身を伝う。

 ゆっくりでも足を動かし続けていれば、いずれ坂は終わってしまう。上りきったところで前方が開けた。カーブの先は、橋と直行する広めの交差点になっていた。

 ヘッドライトが雨の筋を浮かび上がらせ、走り去る。


 あの日も、こんな天気だった。

 思い出しただけで呼吸が浅くなる。

 一年前の今日、この時間、この場所で。

 ドクドクと頭に響く鼓動が痛く、こめかみへ拳を当てた。そのようなことで動悸は収まるはずもない。


 引き返したい弱気に鞭打って動かしてきた足が、凍りついたように動きを止めた。

 歩道の端、崖の縁に沿って植えられた桜並木の下に佇む先客の姿があった。細く雨が降る中、畳んだ傘を腕にかけ交差点へ手を合わせる中年夫婦。

 咄嗟に隼人は、手前の枝垂れた葉陰に身を隠した。


 歩行者信号が青になり、人が行き交う。その流れの中、微動だにせず手を合わせ続ける二人に気付かない人も多かった。やがて青信号は点滅を始め、赤に変わる。

 無言でそっと目元を押さえ、傘を広げて立ち去る妻の背に添えられた夫の腕。たとえ夫婦が隼人と顔を合わせても、先方は隼人を知らないだろう。直接の面識はない。一方的に隼人が見知っているだけだ。

 彼らを、グラウンドの応援席で何度も見かけた。艶やかな長い髪を靡かせコースを軽やかに走り抜ける娘を見守っている姿。駆け寄る娘を迎える笑顔。


 言葉を交わしたこともない二人が淡い雨のカーテンに紛れたころになってようやく、隼人は二人がいた木陰に歩み寄った。折りたたみ傘を閉じる。枝葉を通した雨粒が、何度も強く肩を叩く。まるで、非難するように。

 灰色の交差点で、信号の赤だけが鮮やかに網膜を焼いた。発光ダイオードによる血の色はやがて、冷たい青に変わった。


 突如、甲高くタイヤがアスファルトを擦った。危ねぇだろ、と年配男性の怒声。歩行者信号に従って人々が行き交う横断歩道上に半分鼻先を突っ込んだ車の中では、若い男がヘラヘラと頭を下げていた。

 目の前の光景が色彩を失っていく。頭の芯が冷たくなっていった。息が吸えない。傾ぐ体が濡れた幹にぶつかった。


 振り返る笑顔。また今度と軽く振られた手。青い、夏空の色の傘。

 誰かの声に、大丈夫かと問われた。反射的に、大丈夫ですと答え、うずくまった。強くなった雨が首筋に、後頭部に叩きつける。


 夏菜。


 人生で初めて、焦がれるような恋をした。下校時間を狙って待ち伏せし告白したその日、初めて一緒に帰り、予報外の雨に開いた相傘の中で、初めて手を繋いだ。寄り添った肩が触れ合い、甘い囁きが耳朶をくすぐった。揺れる黒髪、掴んだ腕の感触。

 その全てが、最期になった。


 どうしてあの時、俺は。


 視野がさらに暗くなった。雨音が遠ざかる。雨に打たれる感覚が無くなった。誰かが近付く。薄く開いた瞼の間から、濡れたローファーの靴先がぼんやりと見えた。


「瀬尾、くん?」


 耳慣れない声に呼ばれた。見上げた先に、オレンジ色の灯りが広がっていた。傘の布を通しぼやけた街灯の光を背景に、森野美祈もりのみのりの戸惑った顔があった。


「具合悪いの?」


 スカートの裾が濡れた路面につくのも気にせずしゃがみ、スクールバッグを探った。ミニタオルで隼人の濡れた髪や肩を遠慮がちに拭いていく手が、額から目元、頬をさり気なく通っていく。


「雨でも、部活はあるだろ」


 そんなときに、嫌味しか出てこない。美祈は隼人の棘を気にする風もなく、素直に頷いた。


「今日は、病院だから」


 手術をした。

 勇哉の言葉を思い出し、ああ、と頷いた。この先に、勇哉の兄も勤めている総合病院がある。事故のときに救急搬送されたのも、そこだ。

 バシャリと泥水が跳ねた。信号が赤になったにも関わらずスピードを上げて交差点に突っ込んだ車が軽くスピンしながら右折した。直後、歩行者信号が青に変わり、買い物帰りの人やランドセルを背負った小学生の集団が渡っていく。


「もう、危ないなぁ」


 泥水の掛かったスカートを払い、美祈は口を尖らせた。裾から滴る水が、むき出しの脛を濡らす。棒のように細い脛は白かったため、泥の茶色が目立った。続くショートソックスもぼんやりと茶色く染まっていた。


「緩やかにカーブした上り坂の先の交差点。地域のハサードマップにも毎回載っている場所だ」


 空ろな耳に入る声は、自分の声ではないみたいに酷くかすれていた。

 とんでもなく格好悪いところを同級生に見られているという羞恥心すら湧かない。後悔と、罪悪感と、恐怖と。圧し掛かる重みに、隼人は立ち上がるのがやっとだった。


「飲む?」


 差し出された口の開いた水筒に、苦笑した。


「飲みさしだろ」

「そっか。ちょっと待ってて」


 姿を消した彼女はすぐに、冷たいペットボトルの水を手に戻った。


「自販機なんて、あったんだ」

「分かりにくいんだ」


 指差す先を透かし見ると、茂る葉の隙間から、確かに大手飲料会社の自動販売機が赤い側面を微かに覗かせていた。


「バス停からも見えにくくて。通院に使ってたときも、しばらく気付かなかったよ」


 肩をすくめ、彼女は無邪気な少女の笑みで隼人を見上げた。

 信号が変わる度に、東西へ、南北へ人が流れる。喉を通る冷たい水が滲みて潤ったところから、本来の感覚が戻ってき始めた。


「ここ、なんだ?」


 不意に問われ、脊髄反射で頷いた。直後、身構えた。


「なんで、知ってんだ」


 即座に、勇哉かと確認した。しかし、美祈は首を横に振った。湿気で元気を増した癖毛が揺れた。


「去年の今日だったんだよね。青信号になった横断歩道に突っ込んだ車が、横断中の歩行者をはねて。数名が軽傷、一人が意識不明の重体。そのうちの、ひとりだったんだよね、瀬尾くんは」

「だから、どうして」

「タブレット、見る? 瀬尾くんの情報ファイル、いろいろあるよ」

「ストーカーか」


 身を引く隼人に、美祈は屈託無く付け加えた。


「安心して。あくまでもマスメディアやネットに出てる情報だけだから。家の場所も知らないよ、県内ってことしか。あ、でも、高校は偶然だよ。編入認めてくれる高校って限られてるから」


 更に身を引くのにも構わず、胸に軽く手を当てて美祈は微笑んだ。


「きっと、運命なんだよ」

「ごめんけど、その少女漫画展開にはついていけないから」

「うん。嫌味言うくらいには元気出たね」


 落ちていた隼人の傘を拾い上げ、ミニタオルで柄の泥を拭きとって差し出すと、美祈は自分の傘を傾けて空を見上げた。


「雨も止んだし。私、時間だから」


 じゃあ、と手を振り、隼人が何か言い出す前に、人の流れにのって交差点を病院へと早足で去っていってしまった。

 呆然と見送り、軽く疼く左腕を無意識に押さえた。

 一年前。


 夏菜と別れた直後。スピードを落とさない、いや、むしろ坂を上るためにアクセルを踏み込むエンジン音に悪い予感がして踵を返した。歩行者信号が青になった直後、隼人に手を上げた夏菜に迫る、金属の塊。大会新を出した俊足で走りこみ、彼女の腕を取って、引いた。左半身が弾かれ、アスファルトに叩きつけられて、その後は白い部屋で目を覚ますまで意識を失った。


 事故については、主に家族が教えてくれた。

 車に接触したのは、隼人だけだった。他の軽傷者は、驚いたり慌てて走り出したことで転倒した人たちだった。

 そして夏菜は。

 転倒した際、路面で頭部を強打したことによる脳内出血で意識不明の重体。


 集中治療室へ入れるのは、患者の家族だけだった。二人の関係を知る人はおらず、隼人も夏菜の両親に話をすることができず。一目、夏菜の顔を見ることも叶わなかった。

 彼女の容体を案じつつ迎えた次の陸上大会の日。まだリハビリ中だった隼人はマネージャーの立場で参加し、夏菜が通っていた第三中の席を伺った。

 夏菜の部活仲間たちは皆、ハチマキの端に黒い布を付けていた。

 喪章だった。

 夏菜の意識は戻らず、脳死判定を受けた。

 それが、その日知らされた彼女の最期だった。


 俺が手を引かなければ。


 力を入れた手の中で、水のペットボトルがペコリとへこんだ。あまりに間の抜けた音だった。



 三組の教室の隅で、森野美祈はイヤホンを耳に、タブレットの画面に見入っていた。その彼女の机へ、隼人は百円玉と五十円玉を一枚ずつ、将棋の駒の要領で打ち付けた。ハッとして顔を上げる彼女へ、ひとこと「水代」と言い残して立ち去るつもりだった。


「待って」


 しっかりと掴まれたセーターの袖が、ひにょん、と伸びた。


「やめろ。三年間着るものだ」

「ブロック大会の登録、そろそろだよ」

「だから、走らないって言ってるだろ」


 それでもじっと見上げる黒目がちな目から、顔を逸らせた。


「走れないんだよ。心理的に」

「市民グラウンドなら、いいんだ」

「競技じゃないから。って、そこまで調べてんのかよ。マジ、ストーカーか?」

「これは、勇哉が教えてくれた」


 いつの間にか、下の名前で呼んでいる。うまくアプローチしてるのかと思えば、続く陸上部員の名前もすべて下の名前だった。指を折った手を突きつけ、美祈は鼻の穴を膨らませた。


「結構な人が、瀬尾くんに注目してるんだよ? 復帰を待ってるんだから」

「そこは苗字か」

「え」

「なんでもない」


 別に、隠してはいなかった。今でも時々、市民グラウンドの外周を軽くジョグしている。競技で走ることと、体力を落とさないようジョギングをするのは違う。

 それに、陸上が嫌いになったわけではない。テレビ放映される競技の様子は時間が合えば見ているし、ニュースでも気を引くのは陸上の話題だ。

 だからこそ。

 好きだからこそ、距離を置いている。競技として走りたくない。それが、彼女には伝わらない。伝える気もない。


「だいたい、アップすら走らないマネに言われて走る義理はない」

「来月ね、また手術なんだ」


 がらりと変わる話題に、思わず振り返った。美祈はタブレットをロックし、イヤホンを巻き取りながら僅かに俯いた。急に気弱な表情になった気がした。


「だから、走ってよ。私、ずっと、ナマで瀬尾くんの走り見たかったんだから」


 ね、と屈託無く笑う、その顔にも、一抹の不安は消し去られていなかった。


「別に俺は、誰かのために走ってたんじゃないし」

「まあ、そうだよな。隼人はいつだって、タイムも気にせず、ひたすら楽しく走ってたもんなぁ」


 肩が急に重くなったかと思えば、勇哉という名の背後霊の肘が置かれていた。


「どっから降って湧いたんだよ」

「ん。大会の登録名簿をマネージャーに届けに」


 一枚の紙を手渡す。確かにそれは、名簿だった。目的を果たしたはずなのに、勇哉はまだ隼人の背から離れなかった。


「好きに走ってんのに、ダントツトップで大会新。全く、腹立つ野郎だったよ、隼人は」


 うりゃうりゃと髪を掻きまわされ、すっかり閉口した隼人に美祈が肩をすくめた。


「仲がいいんだね」

「保育所からの腐れ縁だもんな」

「腐りきって、とっくに朽ち果てたと思ったんだが」

「小さいときから、瀬尾くんって速かったんだ?」

「そうそう。チビのくせにさ」


 喋る勇哉の声が、いつもよりやや高い。好きな女子を前に、テンションが上がっている。ここは親友のためにも明るく会話を続けるべきかと、首を絞められながら隼人は観念した。


「ま、でも今じゃ、勇哉は先輩を差し置いて当校陸上部短距離の期待の星だもんな」

「その俺を、もっと輝かせてくんないかなぁ、隼人クン」


 獲物に巻きつくアナコンダよろしく、勇哉は長い腕と足で小柄な隼人に絡んだ。じゃれつき具合も、いつもよりエスカレートしている。頭ひとつ分隼人より背が高く、筋トレで鍛えた体重でのしかかられては、細身の隼人が耐えられる時間は短い。流石に辛くなり、呻いた。


「ちょ。苦しい」

「あ、わりぃ」


 手を離し、頭をかく勇哉に美祈は目を細めて笑っていた。その笑みが隼人へ移り、スッと引いた。

 手元へ注がれる視線を辿ると、乱れ、まくれ上がった左のセーターの袖から赤黒い筋が露になっていた。


「ったく、絡むのも手加減しろよ」


 気がつかないふりをして、明るく勇哉を小突きながら、袖を下ろした。

 リハビリを重ねても思うように動きを取り戻さない腕に刺さる刃の鋭さは、今でも肌の上に蘇らせることができた。数々のトロフィーを壁に、床に投げつけ、倒し、賞状を引き裂いて、それでも気が収まらず、流した血。


「あ、次、教室移動だった」


 我ながら見え透いた逃げ方だと内心舌打ちしながら、隼人はその場を離れた。何か言いたげな美祈の視線が、痛かった。


 家にあった小さなナイフで腕を切り落とすなど、無理な話だった。

 それに、本当に切り落としたかったのは腕ではない。切っても切っても、またすぐに生えてくる名も知らぬ蔓草のような罪悪感と後悔。隼人に深く下ろされたそれの根は、容易に抜けないままだ。

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