On Your Mark(3)

 夕焼けに染まるグラウンドを、今日も陸部が走りこんでいた。

 フェンス越しに遠くから見ても、勇哉のフォームは前より良くなっている。やや左に重心が偏っているが、それが走力に影響を及ぼすことはなかった。自分が走るのを辞めた間に、随分と良くなっている。もしかしたら、もう、勝てないかもしれない。

 それでも、いい。

 胸にわだかまるものを吐き出すには物足りない溜息の途中で、剣呑な声に切り込まれた。


「記録保持者が、無様なもんだな」


 嫌な笑いが含まれていた。相手をするのも癪だが、無視をすればさらにややこしいことになる。仕方なく、空ろに振り返った先で腰に手を当てていたのは、予想通りの人物だった。顔面の皮膚に鋭い刃で筋を入れただけのような細い目が、ニヤニヤと冷たく、しかし絡みつくように隼人を見下ろしていた。

 うんざりと、隼人は会釈した。


「リーダーともなると、悠々社長出勤でも許されるんですね」

「うっせぇ。赤点補習ってことくらい、分かってんだろ」


 忌々しく舌打ちするくらいなら、白状しなければ知ったこっちゃないのに、と思う。その感情が顔に出ないよう気をつけながら、走りこみへ視線を戻した。

 この春から短距離班のリーダーになった二年の阿久津重治は、入部以来、隼人を嫌っていた。休部する原因のひとつを作ったのも彼だった。

 入学当初から選手として走るつもりは毛頭なかったが、コーチの強い勧誘を断りきれず、隼人はコーチングの勉強のためという名目で陸上部へ入部した。

 新入生による指導。先輩から不満が噴き出すと覚悟の上で、事故のことも話し、全員の前で頭を下げてのコーチングだったが、重治は嫌悪を隠そうとしなかった。


「いつ、正式に退部するんだ」


 挑発する重治に、隼人は営業スマイルで返す。


「期待の新星の靴紐に細工した犯人が心から反省し、彼に土下座してくれないのが心残りでして」


 ぴくりと、重治の頬がひきつった。

 走らない記録保持者からの的確な指摘、自分より実力ある後輩。短距離班のリーダーに抜擢された重治のプライドはずたずたに裂かれた。その怒りの矛先は主に隼人へ向けられた。陰湿な影口から、あからさまな罵声まで。どこ吹く風と流し続けていた隼人が一度だけ、看過できなかった出来事が起きたのは、三年生が完全に引退した梅雨前の練習日だった。

 ふつふつと蘇る記憶に、隼人は密かに拳を固めた。


 久しぶりに晴れ間が広がり、しっとり湿ったグラウンドでタイム計測を始めたときだった。


「今日の結果も見てリレー選手を決めるから、しっかり走れよ」


 コーチの檄に、短距離班のメンバーはいつもよりソワソワしていた。最有力候補は、勇哉だった。ほかにも、隼人のアドバイスで記録を伸ばしつつある一年生が数名いた。リレー選手に選ばれるのは、補欠を入れても五名。うかうかしていると、短距離競技の花形種目に出場できない。二年の間には、焦りが漂っていた。

 張り詰め、浮ついた空気の中で、メンバーがスパイクに履きかえるのを、隼人もストップウォッチとクリップボードを手に眺めていた。

 ふと、重治が一年の荷物をまとめた場所で身を屈めているのを認めた。不審に思い声を掛けようとしたところでコーチに呼ばれた。


「瀬尾も走らないか」

「いえ、俺は」


 視線を落とす隼人に、コーチは残念さを隠さなかった。中学時代の隼人に目をつけ、隼人が私立高校のスポーツ推薦を蹴って自分の指導する高校に入学したと知って諸手を挙げて喜んだとの噂もある人だ。期待しているよオーラは凄まじかった。


「計測だけでも、どうだ。勘を忘れないように」


 悪い人ではない。むしろ、コーチとしても人としても好ましい。強い要望を押し隠しながら隼人を気遣いつつ、それでもと時折我慢できなくなったように走らないかとこの人に言われると、隼人もきっぱりと断るのが難しかった。

 曖昧に笑ってやり過ごしている間に、計測の準備が整った。

 ふたりずつコースを走る。コーチと共にタイムの計測と記録、それぞれの癖や注意点を見ながら、勇哉の番になった。

 合図と共に、いいスタートをきる。いける、と思った次の瞬間、突然バランスを崩した。隣のレーンを走っていた重治の顔がニヤリと笑みを浮かべたような気がした。咄嗟に隼人はホイッスルを吹いた。

 幸い、勇哉は転倒を免れ、怪我もなかった。


「やべ。紐が切れた」


 片足跳びでレーンから離れた勇哉が、靴を手に眉を顰めた。


「紐変えたの、ついこの間じゃなかったか?」


 隼人もまた、眉を顰めた。靴をひったくるように手に取り、切れた断面を確認する。半分は確かに繊維が引きちぎられていたが、半分は明らかに刃物で切られた直線だった。

 先程の重治の行動が思い出された。勇哉も彼の行動に気が付いていた。


「あいつが」


 彼を直接問い詰めようとする隼人を止めたのは、勇哉だった。


「お前が噛み付けば、相手の思うツボだ」


 その手が、隼人が自ら刻んだ傷をやんわり包んだ。

 自傷行為のことは、影で部員達に知られていた。事故の話と合わせて、しかし、あちらこちら歪められ。一部では、後遺症に苛立ち、他校の生徒と喧嘩になって三年の大会は出場停止、傷はその時のものだと、実しやかに囁かれていた。

 それ故に、重治も幾度か、傷害事件を起こした人物を指導者候補にするのはいかがなものかと吹聴していた。

 ここで隼人が感情に任せ、証拠不十分な事件を報告しても、コーチの前では大猫を被っている重治の罪を明らかにすることは難しい。しかし、気持ちは治まらない。


「なかったことにしろってか? それこそ、付け上がるだけだ」

「まあまあ。落ち着け」


 勇哉は、任せておけ、と不敵な笑みでウインクした。

 活終了時のミーティングの席でコーチの話が終わったとき、長い勇哉の腕がスッと挙がった。

 犯人が誰、とは言わず、淡々と事実を述べ、あえて張本人から視線を外したまま彼は目を細めた。


「身内で足を引っ張り合ったっていいことないって、分かってるだろうし。うちの部で優勝狙えそうなのって、リレーじゃないっすか。だから俺も皆と上手くやっていきたいけど、もし、次なにかあったら、さすがに親にも頼らなきゃいけない事態だと思うんで」


 横目でそっと重治の様子を伺うと、彼はハッキリと顔を赤らめ、身を固くしていた。木村家の子煩悩な父親は、地元の商工会を取りまとめる地位にあった。そして重治の家は、その傘下で商店を営んでいた。

 勇哉の計らいで、重治のあからさまな攻撃は弱まった。その後の大会で重治のミスを勇哉がカバーしたことで、勇哉に対して手出しをすることはなくなった。

 しかし、彼の居ないところで隼人には執拗に嫌がらせをしてきた。記録に使うペンを壊す、計測中にわざと後ろからぶつかる、通りすがりに砂をかけるなど。あまりに幼稚な、だが鬱陶しい振る舞いに、さすがの隼人も部への執着を弱められていった。

 合宿の予定が出始めた夏休み前から次第に部活を無断で休むようになり、夏休みに入って正式に休部届けを出した。

 今すぐに退部届けを出しても、一向に構わない。だが、重治の思惑通りに事を終わらせるのも癪だったし、復帰を願い我が儘を聞いてくれたコーチに合わせる顔が用意できず、なにより。

 コーチを説得しなければならないと考えると、気が重かった。陸上への未練を掻き立てられ、また中途半端に関わってしまう弱い自分を容易に想像できた。


 重治が隣で短く嘲笑した。


「とっとと辞めろよ。戻る場所もないのによ」


 言いたい奴には、言わせておけ。

 自分に言い聞かせ、一本の直線を何度も駆け抜ける姿をみやった。

 数ヶ月前まで隼人が立っていた場所に、今は美祈みのりの小さな姿があった。スタートの合図があると、走る部員の姿を体ごと向きを変えながら追っている。走りこんだ胴体がラインを越える瞬間、上体を大きく曲げる。全力でストップウォッチのボタンを押しているのだろう。早めに予備を買っておかなくては、ボタンが早々に壊れてしまいそうだ。


「勝負しないか」


 重治の息が、耳元に吹きかかった。鳥肌が立つのを堪え、何を、と問い返す。


「当然、百だ。今のお前になら、勝てる自信があるぞ」


 どうだか、とスラックスの上から重治の太腿を見下ろした。


「本当に勝ちたければ、筋トレ、もっとやるべきですよ」


 重治の弱点は、足腰の筋肉の弱さだ。何事も手を抜きたがる性格が災いして、筋トレを真面目にしないために、あと一歩のところで負ける。繰り返し指摘してきたが、未だに克服できていないことくらい簡単に見抜けた。

 コーチが重治の姿を見付けたらしく、大声で呼んだ。つられて振り返った美祈と、一瞬目が合った。


「じゃ、俺はこれで」


 潮時だと、会釈をしてフェンスから離れた。


「怖気づいたか。なんなら、腕相撲でもいいぞ。それとも、ゲームか、トランプか」


 背後に浴びせられる、耳に入れる価値もない言葉の数々を振り払って正門を出た。どれで勝負しようと、負ける気はしない。プライドだけが高く、努力しようとしない重治を相手にする気力もない。

 隼人は、空を見上げた。茜色に染まり始めた背景に、うろこ雲が並んでいた。

 ただひとつ、重治を褒めてやれるとしたら。定期試験の学年順位で競おうとしないだけの分別があること、かもしれない。



 電車に揺られる間も、先ほどの重治とのやり取りを脳内からこそげ落とせずにいた。学校の最寄り駅から、電車で二駅。通学時と異なる景色を、いつものように楽しめない。

 週に数回、居住地に隣接する市のグラウンドで一人走るのが、隼人の至福の時だった。それが、汚された。

 気分が悪いし、余計な足止めを喰らったため、走る時間が削られてしまった。

 それでも、走らずにはいられなかった。走って、心に塗られた泥を洗い流さないことには、平常心で明日を迎えるのが難しかった。


 駅前のバスロータリーを迂回し、数年前完成した大型ショッピングモール行きシャトルバスのバス停とジェラート店の間の路地を抜け、小さな交差点を渡る。歩行者信号が変わる度に繰り返されるトリの囀りと『とおりゃんせ』の電子メロディに背中を押されながら、寂れた商店街を進んだ。シャッターを閉めている店も多い。張り出した庇に書かれた店名も色褪せていた。

 今も細々と商いを続けている呉服屋の、埃で曇ったショーウィンドウを過ぎて角を曲がった時、頭上から『365日のマーチ』が響き渡った。もう、そんな時間か、と舌打ちする。一日二回、正午と夕方の定刻に鳴らされる音楽は、地域一帯の防災放送の回線を使っており、目指す市民グラウンドのスピーカーから流されていた。

 まだ新しい白さを保っている石畳の歩道を行き、スポーツを楽しむ人の像に挟まれた正門をくぐった。そのまままっすぐ、右手に建つ管理棟へ進みながら、スラックスのポケットを探ってICカードを取り出す。

 ここには百メートル毎に印が刻まれた一周千メートルのランニングコースと、百、二百メートルの直線コースの陸上競技スペース、柵を挟んでサッカーグラウンドがあり、ナイター用の照明も使える。

 管理棟には、返金式のコインロッカー付きの更衣室とシャワールーム、簡単なジムが完備されていた。屋内設備は市内在住又は通勤、通学している人なら使い放題で五百円。専用カードに五千円チャージすれば一回分お得になる。

 隼人はバイト代の大半を、グラウンドの使用代やシューズなど、陸上関係につぎ込んでいた。

 着替えを済ませ、いつも通りコースに出る手前でギョッと足を止めた。見慣れた高校の指定ジャージが目に入った。グラウンド入り口のスペースでぎこちなくストレッチをしていたのは、ジャージのファスナーを首まで上げきった美祈だった。

 部活を終えて直行したとみえ、鞄を管理棟の壁際に置いたままだ。

 隼人の姿を見つけると、彼女は嬉しそうに笑った。


「勇哉に教えてもらった」

「また、あいつか」


 隠すことなく舌打ちした。

 よくもまあ、べらべらと個人情報を漏らしてくれる。明日、いや、今夜にでも怒鳴り込んでやらなければ。

 腹立たしさを押さえ込むのに苦労した。

 美祈の存在を思考の外へ追いやり、貴重なこの時間を楽しむことに全神経を傾けることにした。が、軽くジョグを始める後ろから、パタパタと足音が付いてくる。足裏全体で着地し、リズム感も乏しく美祈が後ろを走っていた。


「ついてくんなよ」

「後で、百メートル、走って、くれるなら」


 走り出して一分も経たないのに、美祈の息はあがっていた。


「しつこいな。走らないってば」

「走ってよ。こうして、走ってる、でしょ」


 ようやく合点がいった。アップすら走らないマネ、と言った隼人に、走ってるのだから走れというのだ。

 強情さに、怒るより先に呆れた。


「じゃあ、一周ついてこれたらな」


 言い捨てると、嬉しそうに頷く声がした。

 僅かにペースアップする。意地悪をするつもりも当然あったが、中学時代、部活のアップはこれくらいのペースだった。いつもに比べればゆっくりな方だ。

 できるだけ後ろを気にしないよう走った。美祈も、ついてくるだけで必死なのだろう。何も喋らなかった。

 仕事帰りの会社員や、近所の年配ランナーと抜きつ抜かれつしながら、ゆるゆると外周を進む。

 五百メートルも走れば、背後から完全に息遣いが聞こえなくなった。さらに残り五百メートルを回り、最初のスペースに戻って後ろを見れば、最後の長い直線にも美祈の姿はなかった。

 ついてこられるはずもないだろう。

 体育の時間も常に見学なのは、窓から見て知っていた。それでも、走ろうとする心意気だけは認めてやってもいいかと考えながら、温まった筋肉をゆったり伸ばしていった。

 しかし、しばらく待っても美祈が戻ってくる気配はなかった。秋の日が落ち、サッカーグラウンド側のライトが点灯された。煌々と照らし出されるコートに対し、外周のコースは木陰を濃くし、瞬く間に闇に沈んだ。いくらなんでも二十分も戻らないのはおかしい。ひょっとして、早い地点で諦め、逆行して戻り、合わす顔もない、と先に帰ったか。

 気になりつつも、探しに行くのも躊躇われた。

 そうしているうちに、顔なじみの女性ランナーがいつもより速いペースで、戻るや否や管理棟へ駆け込んだ。数分も経たないうちに出てくると、辺りを見回し、隼人と目が合った。


「君、ちょっと手伝って」


 互いに、名前も素性も知らない間柄だが顔は知っている。親近感からか、女性は友達と喋るのと変わらない口調で手招いた。


「あっちで、女の子が倒れてるの」


 予感があったにも関わらず、ドキリとした。


「今、事務室から救急車を呼んでもらったんだけど、少しでも近くに運んでおこうかと」


 事務室から、男性が担架を抱えて飛び出した。女性と共に走り出す。一拍遅れて、隼人も駆け出した。

 妙な重苦しさが隼人を襲った。息が苦しい。足が重い。秋の夜の闇が妙に粘度をもち、体の動きを邪魔しているようだった。

 どろりとした夜風が、緊急車両のサイレンを載せて吹き付けてきた。

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