On Your Mark(4)

 白い無機質な廊下は長く、暗澹とした空気が濃く淀んでいくように感じられた。こんなに暗かっただろうかと、外科に世話になっていたときを振り返ってみたが、記憶は曖昧で、今は突き詰めて考える気にもならなかった。

 白い壁に、白い枠のネームプレートが張り付いている。

 やはり、勇哉たちと来るべきだったか。

 土曜の午後練を終えて部の数名と見舞いに来るのに乗じるかと誘われたが、ひとりで訪れることを選んでしまった。

 名前の確認にたっぷり数分を費やし、弱気に鞭打ってスライド式の扉をそっと開いた。同時に、興奮を堪えきれない男性の早口が聞こえた。


『これはすごい。瀬尾隼人選手、大会新記録です』


 音の源は、入ってすぐ右手のベッドからだった。イヤホンをしていた美祈みのりが、ハッとして、しかし億劫そうにタブレットを閉じる。


「音、漏れてたぞ」

「え、ほんとだ」


 ジャックを確認し、罰が悪そうに顔を背けた。頬が赤いのは、熱のせいか。それ以外が青ざめているために、赤さが際立っていた。


「食べちゃいけないものとか、分かんなかったから。勇哉から聞いて、趣味が合えばいいんだけど」


 読書好きなら、と、兄が勧めてくれた人気作家の最新作を見せると、申し訳なさそうに側の小卓を指差された。すでに誰か見舞い客があったのだろう。掌に載るぬいぐるみや花籠が、綺麗にラッピングされたまま並んでいた。


「ごめんね、気を遣わせて」

「いや、謝るのは、俺の方だ。ドクターストップかかってんの知らずに、無理させた」


 深く頭を下げると、毛先をチョイチョイと揺さぶられた。上目遣いで見ると、めいいっぱい伸ばした指先で頭を上げるよう、下から上へ、ハンドサインが送られていた。


「いいんだよ。挑発してきたのは瀬尾くんだけど、のったのは私の判断だから」


 えへ、と無邪気に歯を見せられては、なにを言えばいいのか分からなくなる。勧められるままパイプ椅子に腰掛け、揃えた膝の間に手を挟んだ。


「さっきね、瀬尾くん、見てたんだ」

「分かってるから、再生しなくていい」


 タブレットをタップする手を止め、美祈は残念そうな顔をした。が、すぐに笑みを取り戻すと、何も映っていない画面を指で撫でた。


「最初に見たのは、団欒室のテレビだったんだ。走る姿がとても綺麗で。風みたいだな、て」

「風?」


 スタートの合図と同時に体が軽くなって、スピードに乗れた瞬間、体が透明になる。風になる。そう、言えなくもない。


「うん。気持ち良さそうで。あんなふうに走れたらいいなって。人工心臓にするか、どうするかで入院してて、全力で走るなんて、命賭けるようなことだったから」


 にこりと、笑う。しかし、その柔らかな唇から紡ぎだされる言葉は重かった。


「病状が悪化して、どうしても人工心臓の手術をしなくちゃいけなくなったとき、運良く移植の話が回ってきたんだ。同じくらいの歳の女性の心臓が提供された、て。私が最も順番の早い患者だって。だけど、怖くて。何回も画像見て、勝手に励ましてもらってたんだ」


 照れたように肩をすくめる美祈を、隼人は呆然と見詰めた。たった十一秒少しの自分が支えていた、ひとつの心臓。


「だから、もう一度、今度は小さな手術なんだけど、その前に直接見たかったんだ。走ってるところ」

「ご希望に、添えませんで」

「いいよ。ごめんね。我がまま押し付けて」


 指は、タブレットの黒い表面を撫で続けていた。


「瀬尾くんも、怖いんだよね?」


 怖い。

 事故の光景が脳裏を過ぎった。しかしすぐに、そうではない、と思った。

 数ヶ月前、初夏の陽光を浴びる予選会場の競技場入り口で、足がすくんだ。談笑しながら通り過ぎる選手の流れに乗ることができなかった。

 それが、先輩の嫌がらせよりも何よりも、隼人を部活から遠ざけた本当の理由だったかもしれない。

 夏菜がいない競技場に立つのが、怖い。彼女の永遠の不在を認めて受け入れるのが、怖い。スタートラインに立てない。

 自分でも気が付いていなかった恐怖を指摘され、戸惑った。

 ぎこちなく頷く隼人に、何故か美祈はホッとした笑みを浮かべた。


「瀬尾くんの後ろ走りながら、すごく怖かった。少しくらいなら走ってもいいって言われてたけど、どこまでが限度なのか分からないし、もしなにかあったら、折角提供してもらった心臓をダメにしてしまうんじゃないかって。そう思ったら、苦しくなって。結果は、過呼吸で済んだんだけど」


 念のため、検査入院となり、計測は部員が交代で行うことになったと申し訳なさそうに項垂れる姿が、とても小さく感じられた。

 パジャマのゆったりとした襟元から覗く、鎖骨の間から始まる縦の手術痕は、ナイフで切りつけた隼人の腕の傷より目立たないものだった。それでも、痛々しくて見つめ続けることができない。


「想像してた瀬尾くんは、もっと優しい人だったんだけどな」

「冷たくて、ごめんなさい」

「いいよ。それでも、私、瀬尾くんのこと」


 廊下が賑やかになった。時計を見ると、夕方に差し掛かっている。ここだ、という声に続いて、しおらしく失礼します、と扉を開けるなり先頭の顧問が「お」と口を丸めた。


「なんだ、瀬尾。いつの間に森野と接点を作ってたんだ」


 汗臭い一団が顧問の後ろから入室する。一応人数は絞ったらしく、短距離、長距離、投擲の三班から一人ずつの来院だ。それでも、静まり返った病室を賑やかにした。他の患者のほとんどは年配の女性で、訪れた高校生の集団に目を細め、にこにこと歓迎してくれた。

 とは言え、さすがに狭い。少しでもスペースを確保しようと、隼人は席を譲って病室を出た。擦れ違い様に、短距離班代表の勇哉と目が合った。

 白く、どこまでも清潔なロビーを抜けると背後から足音が駆けてきた。


「一緒に帰ろうぜ」


 追いついた勇哉の腕が、勢いをつけて肩へ巻きつく。


「いいのか?」

「長居するところじゃないだろ」


 自動ドアが開くと、夕暮れの風が冷たくブレザーの襟元から首を撫でた。アスファルトに伸びる勇哉の影は、隼人のものよりずっと先を進んでいた。


「じゃ、俺、こっちから帰るから」


 事故現場の交差点は、命日以外は避けて通りたい。その心理から、手前の信号で曲がろうとする腕を掴まれた。


「疲れたから遠回りしたくないなぁ。それに、俺も手を合わせていきたいし」


 横断歩道を引きずられるようにしながら、湧き上がった違和感の正体に気が付いた。


「手を合わせるって」

「第三中の夏菜ちゃん、お前と一緒に事故に遭って、亡くなったんだろ」


 夏菜とのことは、勇哉にも話していないはずだ。それを。


「なんで、知って」

「お前が第三中の学区内で事故って聞いて、変だと思ってたんだよ。それに、気になる子の情報は、いろいろ知りたい性質だからな」


 細い瞼の合間を動く眼球が、隼人を鋭く見下ろした。


「知ってたよ。事故の前から第三中の女子のコイバナだって小耳に挟んだし、お前は女子の決勝は無理をしてでも見に行きたがったし」


 見抜かれていた。全貌を把握していながら、一年近く黙秘を続けていた。嘘も隠し事もない奴と思っていた親友の剥がされた化けの皮に、隼人は何も言えず、件の交差点まで引きずられた。


「夏菜ちゃんと同じ大会でいいカッコ見せるために走ってたから、もう走らないのか」


 赤信号で止まった高級車は、タイヤの幅だけ停止線を越えていた。


「違う。俺は」


 襟首を掴まれた。刹那、体が軽くなる。続けて背中に衝撃を受けて呻いた。歩道脇の木の幹に背中を押し付けられていた。通行人が、訝しげな視線を投げながら通り過ぎていく。


「だったら、走らない理由に事故を絡めるな。今まで通りの走りが出来ない腕なら、今からの走りを見せろ。お前の脚は、それくらいカバーできるだろう」


 詰め寄る勇哉の真っ直ぐな視線を受け止めることが出来なかった。何も言おうとしない隼人のことを、彼はじっと、何も言わず見守っていてくれた。背中の鈍い痛みは、事故以来勇哉がひとりで抱えてきた心の痛みと比べたら小さなものに違いない。目を伏せた。


「腕の問題じゃねぇよ」


 後遺症で動きの悪い腕だけが走らない理由なら、もうとっくに克服できていた。


「夏菜死んだの、俺のせいだから」


 襟元の締め付けが緩んだ。

 あの時、腕を引かなかったら。引くとしても、もっと考えて加減が出来ていたら。転倒する夏菜を、体を張って守れていたら。

 勇哉の胸に、頭頂を押し付けた。


「俺が、夏菜を死なせた」

「違う。無理だろ、それは。そんな、素人が一瞬で適切な判断とか手加減とか」


 一年近く抱え込んでいた胸のうちを受け止めてくれた勇哉の声は、掠れていた。

 湿った熱い息を吐き、冷たく排気ガスを含んだ空気を吸った。袖口で目元を拭うと、隼人はスラックスのポケットを探り小銭を出した。断りを入れて、美祈に教えてもらった自販機で水と缶コーヒーを買った。

 木陰の手すりに並んで腰掛けた。何台もの車が、ヘッドライトの残光を残して走り去る。

 グビリと喉仏を上下させ、勇哉はコーヒーを半分以上飲み干すと溜息をついた。


「お前は、お前なりにそのとき考えた最善を行動に移しただけだろ。運が悪かったんだよ」


 慰められても、心は癒されなかった。

 夏菜に最期の別れすらできなかった。

 第三中の陸上部員だったというだけで、菩提寺どころか家すら知らない。


「それは流石に、俺も知らない」


 申し訳なさそうに項垂れ、勇哉は残りのコーヒーを煽った。


「だけど、夏菜ちゃん、臓器提供をしたらしい」


 え、と顔を上げた隼人の手から、飲みかけの水が奪われた。ごくりと数口飲まれたものを、再び形を保ったままの手にはめ込まれた。


「葬儀でご両親からお話があったそうだ。生前から提供意思を示していたから、脳死判定を受けたと」


 だから、と背中を叩かれた。


「臓器だけでも、夏菜ちゃんはどこかで生きてんだよ。誰かの体の中で。だから」

「待て」


 力を入れた手の内で、ペットボトルがペコリと情けない音をたててへこんだ。


「移植、て、心臓も?」

「さあ。そこまで詳しくは聞かなかった、あ」


 同じ考えに行き着いたのだろう。二人して、らんらんとした目を今来た道の先へ向けた。


「同じくらいの歳の、女性からだと、言っていた」

「時期的にも、可能性は高いな」

「お前、兄貴に確認取れないのかよ」

「医師には守秘義務ってのがあるんだよ。大体、兄貴は耳鼻咽喉科だ」

「でも、移植手術なんてそうそうないだろ。総合病院内で噂にくらい、なってないかな」

「やめよう」


 頭を振り、勇哉は立ち上がった。交差点に手を合わせると、荷物を持って坂を下り始めた。慌てて追いつき見上げた勇哉は、厳しい表情で前方を睨んでいた。


「たとえ美祈の中にある心臓が夏菜ちゃんのものだったとして、夏菜ちゃんが死んだことに変わりない。移植された臓器が元の人の記憶を持っているとかいう話もあるけど、だからといって、なんになる?」


 正論だった。

 しかし、透明な容器の底で街灯の光を反射させ波打つ水同様に、隼人の気持ちは波立っていた。

 あの、細く淡い手術跡の下に、夏菜の心臓が今も拍動を繰り返しているかもしれない。

 想像しただけで、隼人の心臓は痛いほどに脈打った。

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