Green eyed(1)#嫉妬

 音楽の最後の音が止んだ。

 テーブルを挟んで立つ隼人が、短く息を吐いた。壁の半分を占めるスクリーンの表面を、ミラーボールに反射した光の粒が流れていく。隼人の癖のある髪の上にも、シャツの上にも、光の粒は凸凹でこぼこと形を変えながら降り注いでいた。

 隼人は伏せていた顔を上げた。汗ばむ顔が、パアッと笑う。


「はい、次、勇哉」


 持っていたマイクを突きつけられ、勇哉はソファの背にもたれた。曲目リストをめくる。これといって歌いたい曲が思いつかない。


「何にするかな。あんまりばっちり決められた後じゃ、どれも霞んじまうじゃないか」


 氷が解けて薄くなったアイスコーヒーへ、無意味に口をつけた。ぼやく勇哉の隣へ、隼人は高校生男子にしては小柄で華奢とも言える体を落とした。


「決まってた?」

「そりゃもう。配信直後なのに、よくまあ、あれだけ踊って歌えるよな」


 呆れ顔で睨みつけると、悪びれる様子もなく「イエーイ」とブイサインを突きつけられた。


美祈みのり、あのアイドルグループ好きなんだよ。一緒に動画見まくってたら、覚えちゃった」

「おいおい」


 苦笑いしか出てこない。


 隼人は、いつだってそうだ。何をやらせても、大抵のことはすぐ習得してしまう。普通、動画を見たところで、先程の隼人のように振り付けまでなぞりながら、歌詞を見ずに一曲歌いきれるだろうか。

 人並みはずれた観察力、記憶力、再現力、運動神経。

 音程は多少はずしているところもあったにしても、そういったものが特別な能力だということを、本人は露ほども自覚していない。


「とにかく、次、勇哉。さすがに疲れた」


 ソファの背もたれへ両腕を広げ乗せ、小さな体をめいいっぱいふんぞり返らせる隼人を横目で一瞥し、勇哉は含んだ小さな氷を噛み砕いた。


「六曲連続で歌えば、そりゃバテるだろ。何、そんなにストレス溜めてんだよ」

「いや、だって文化祭準備はもたついているし、部活ないし、市民グラウンドは工事中で閉鎖しているし。その上美祈が休みとなったら、カラオケくらいしかないっしょ」


 大袈裟に溜息をつく親友を、勇哉はさりげなく睨んだ。


「文化祭って、お前んとこは劇だったっけ」


 学年ごとにやることが決められており、一年は劇か展示のどちらかを選ばなければならなかった。


 勇哉のクラスは、担任の出身地が青森県だからと、ねぶたについて調べることになった。小学生じゃあるまいし、と文句を言いながらも、調べた結果を模造紙に書く作業を割り当てられ、そちらは既に適当に済ませてあった。あとは、美術部員や絵の上手いクラスメイトが中心となって、ミニねぶたを教室内に展示することになっている。前日に製作を少し手伝えば、当日は他のクラスの出し物を堪能できる算段だった。


「大変だな、劇って」

「役者は、いいんだよ。あいつら、それなりにやる気あるし真面目だし。けど、衣装だとか背景だとかの担当がさ。立候補したくせに働かないったら、もう」


 既に何も入っていないグラスを傾け、隼人は組んだ足の上に肘を突いた。愚痴が続く予感に、勇哉も楽な姿勢に座り直した。


「そりゃまた。そもそも、演目は何なんだ」

「シェイクスピア。オセロー。しかも英語劇」

「すげぇな」


 英語の苦手な勇哉なら、逃げ出したくなるような演目だ。口を大きく曲げる様子から察したのだろう。隼人が肩をすくめた。


「うちのクラス、風間っているじゃん」

「噂は聞いたことがある。髪がサラッサラのイギリス生まれの美少女だろ。中学んとき、帰国してきたんだっけ」

「彼女の提案で決まったわけ。担任は英語だし、男も英語検定ハイスコアな奴いるし」

「それにしても、観客に分からなかったら意味ないんじゃないか」

「そこを、内容全く無視した別脚本での訳をスケッチブックに書いて見せるんだ。妻を絞め殺し、全てが暴露された後オセローが嘆く場面なんて、「どうしよう、私達、入れ替わってる。彼が目を覚ます前に戻らなくちゃ」とかなんとか」


 飲みかけていた水にむせた。咳き込む勇哉を、隼人がカラカラ笑う。


「シェイクスピアファンに殴りこまれるんじゃないかって、心配になるレベルだよ」

「時間、教えろよ。絶対見に行く。で、お前は出るの?」


 いやいや、と隼人は癖のある髪を撒き散らかすように頭を振った。


「ああいうのは苦手だよ。裏方に徹します。だから、当日はフリー」

「小学校の学芸会でもお前、岩の役に立候補したんだもんな」


 懐かしいー、と隼人は腿を叩いて笑った。

 芋づる式に思い出される学芸会の話が続く。大袈裟な身振り手振りで話す隼人を、勇哉は相槌を打ちながら、目だけは鋭いまま見つめた。


 オーバーリアクション、いつもより高い声、早口。そのどれもが白々しかった。無理をしているようだった。

 はしゃぎ過ぎる彼を、過去に一度だけ見た。丁度、去年の今頃の時期だった。

 学芸会の流れから、話題は現在の文化祭に戻ってきた。


「何でもかんでも生徒中心って押し付けるのもどうにかして欲しいよな。いっそ、出し物するかしないかまで選ばせてくれりゃいいのに」

「だな。絶対何かやれって言うくせに、全部自分たちで考えろとか」


 勇哉の補足に大いに同意を示すと、隼人はチラリとスマホへ視線を落とした。


「あと二曲はいけそうだな。俺、ドリンク取ってくるから、その間に選んでおいてよ」


 勢いをつけて、ソファに埋もれていた腰を引き起こす。

 グラスへ伸びたその手を、勇哉は掴んだ。振り返った隼人の目に、一瞬だけ怯えが走ったのを見逃せなかった。

 疑惑が確信となり、勇哉は声を低めた。


「何、溜め込んでんだよ」


 去年。

 交通事故で腕を負傷した隼人のリハビリが終了し、陸上部にも復帰できそうだと聞いて、快気祝いと称してカラオケに誘った。そのときの隼人も、今日と同じように、異常にはしゃいでいた。

 それを、去年の勇哉は、復帰できる喜びだと、無邪気に捉えていた。


 隼人の兄・理人からメールがあったのは、その数日後だった。

 隼人が腕を切った。ナイフで。自分で。

 いつも落ち着いた雰囲気を纏っている理人も、動揺していたのだろう。綴られた文章は、所々文法や字を間違ったままだった。


 隼人は、走るのを辞めた。


 リハビリで治りきらない腕が原因なのだと、ずっと思っていた。隼人も、周囲にそう思わせていた。

 しかし、本当の原因は他にあった。

 事故のとき、自分の咄嗟の行動で交際初日の恋人を死なせてしまったこと。隼人は誰にも話すことなく、自分ひとりの胸のうちに抱え続けていた。重い真実を引き出せたのは、つい先月のことだった。


 悔しかった。


 幼馴染みでもあり、第一の親友だと自負していた。小学生に上がった頃から、何においても勇哉の一歩先を行く背中を眺め、妬むより誇らしかった。隼人が上手くいかないときはいつも、勇哉を振り返って頼ってくれたからだ。


 隼人のことなら、誰よりもよく知っている。隼人は自分には何でも話してくれる。

 そう思っていたのは、自分だけだったのか。

 隼人の細い腕に巻かれた包帯を見たときも、事故現場で項垂れる姿を見たときも、勇哉の心は真っ暗になった。何も気付けなかった自分の不甲斐なさに、地団太を踏んだ。


 三度目の正直とでも言うのか。今日は気付けた。気付いたからには、黙って見過ごせない。

 勇哉は無言で軽く手を引いた。


「ばれちゃ、仕方ないっか」


 明るく言って、隼人は笑った。しかし、長い睫毛に覆われた目の奥に言いようのない暗さを湛えていた。

 観念したように座りなおすと、隼人は解放された手で左の袖を軽く捲った。彼の癖だ。無意識の行動ながら、知っている者は、柔らかく皺を刻む袖の下に隠された、赤黒い傷跡を意識してしまう。


「まだ、忘れられないんだ。夏菜のこと」


 事故で亡くした恋人の名を口にするとき、一瞬躊躇う素振りがあった。

 軽く頷きながら、次の言葉がすぐに続かない気配に、勇哉は息を吐いた。


「仕方ないだろ。事故があったんはほんの一年前なんだし」


 だけど、と隼人は空のグラスを持ち上げ、中身がないことを初めて知ったような表情でグラスを置いた。


「美祈がすぐ側にいても、さ。フッと思い出して、意識がそっちに行って。美祈にも悪いし、こうして俺だけのうのうと幸せに過ごしていることにも罪悪感があるんだよ、どうしても」


 弱々しい笑みには、勇哉が口にするであろう慰めを先回りして封じる力があった。慰めを飲み込み、勇哉も無意識に空のグラスを持ち上げ、苦笑した。

 しばし考えた後、尋ねた。


「美祈は」

「気付いているんだろうな。だけど、気付かない振りをしてくれている」

「そりゃまた、辛いな」

「な」


 美祈もまた、辛いのだろう。


 同級生ながら幼くみえる彼女の、あどけない天使のような笑みを思い浮かべると胸が痛んだ。

 事故で脳死判定を受けた夏菜の心臓が、どのような縁があったのか、心臓移植手術を必要としていた美祈の胸の中で拍動している。

 さらに、人知の及ばない何者かの悪戯なのか。

 美祈は闘病中、大会新記録を出した中学生時代の隼人の動画に励まされており、そして、術後に転入した高校で隼人と出会った。美祈の熱意に押されるように再び短距離選手として蘇った隼人は、現在、彼女と交際している。

 同時に勇哉は失恋したわけだが。


「美祈は、優しいからなぁ」


 親友の恋人となっても、一度熱せられた恋は簡単に冷めていない。癒しの元になる彼女の無邪気な笑顔の裏に、どんな悲しみを抱えているのか。想像すると辛くなる。

 勇哉の言葉に同意し、隼人は寂しく笑った。


「だからさ。美祈には、悲しい想いをさせたくないのに、原因が俺なんだもんな。もう、いっそのこと、俺と別れて他の誰かと付き合ったほうが美祈のためじゃないか、とも考えててさ」


 自嘲気味な笑みが、勇哉の中に冷たく流れ込んだ。

 昨日見かけた光景が閃いたが、即座に押し殺した。室内は暗い。俯く隼人に表情の変化を気取られることはないだろうが、念のため掌で顔を擦り、考え込む振りをしてしまった。


「だけど、俺には美祈がお前を見捨てるなんざ、想像つかねぇな」

「それは、困ったな」


 スン、と鼻をすする親友を、勇哉は横目で見下ろした。おもむろに、彼の細い肩へ腕を回す。


「ま、もしお前が振られたら、俺には美祈にアタックするチャンス再来ってことだ。早速準備を始めるかな」


 わざと明るく言い放ち、緩やかな癖のある隼人の髪を掻き回した。逃れようとじたばたする頭を、更に抱え込む。押し付けられた脇からどうにか顔を離した隼人が、水面から顔を出したときのようにプハッと息をして笑った。


「勇哉が新しい相手なら、安心だな。もし俺が女だったら、恋破れて傷心している勇哉にアタックするもん、絶対」

「いや、それはキショイから止めれ」


 少しは、悲しみを和らげてやれただろうか。

 ふざけながら店の外に出ると、風が冷たかった。むき出しになった街路樹の枝を透かして星が瞬く。


 家の近くで隼人と別れると、ようやく肩の力を抜くことができた。演技下手なりに作っていた表情を消した。目尻が吊り上った鋭い目の間に、深い皺が刻まれた。

 本当は、隼人からカラオケに誘われた時点で、打ち明けるべきかどうか迷っていたことがある。


 休日だった昨日、勇哉は数駅離れたショッピングモールへ出かけていた。そこで、見知らぬ男と仲睦まじく腕を組んで歩く美祈を見かけたのだ。

 腕を組む、というのは、正しくないかもしれない。興奮すると老若男女構わず抱きついてしまう癖のある美祈だ。苦笑する男、垣間見えた横顔から察するに、自分たちと同年代の男の腕に美祈が抱きついていたというほうが正解だったが。

 交わされる二人の視線から、相当な親しみが感じられた。

 そして今日、美祈は熱を出したとかで休んでいる。


 別に、告げ口をしようというわけではない。ただ、美祈との関係をそれとなく聞き出してやろうと考えていたのだが。

 想定外の部分で、隼人はかなり弱っていた。

 しばらく黙っていたほうが良さそうだと判断し、藍色の空へ向かって息を吐き出した。白い息は、たちまち風にさらわれていった。



 文化祭を数日後に控えた学校は、いつもより重力が軽くなっている。生徒も教師もどこか浮ついており、休憩時間の廊下は普段の二割り増しくらいで騒々しい。

 喧騒の中で、ばったり美祈と鉢合わせた。


「やっほー」


 ひらひらと手を振ってくる。笑顔の下半分を覆い隠すマスクが、彼女の小ささを引き立てていた。愛おしさも二割増しになる。


「風邪?」


 つい緩みがちになる頬を引き締めて問うと、美祈は頭を振った。自由奔放に跳ねる毛先が、頭の動きに合わせて揺れた。


「休みにショッピングモール行ったら、疲れちゃって。熱が出ただけなんだけど、マスクして行けってうるさいんだ」


 誰が、と聞きたいところを堪え、相槌を打った。疑惑の光景について美祈から聞かされると予想していなかったため、不意打ちに鼓動が早まった。


「でも、楽しかった。初めてだよ、あんなにたくさんお店があるとこ」


 無邪気に笑う。

 初めて。

 今までは感染症を恐れて人ごみへ出られなかった過去が隠されていることを、ともすれば忘れてしまう。


「勇哉も行ってた? スポーツ用品店で見かけたけど」


 これまたいきなり核心近くに攻め込まれた。勇哉はぎくりと身を引いてしまった。


「お、おぅ。そろそろ新しいシューズ欲しいなぁ~って」


 声が上ずるが、美祈はスズメのように小首を傾げて表情を変えない。やましいことなど何一つない様子に、密かに息を吸った。

 覚悟を決めて、さり気なくカマをかけた。


「声かけてくれたら良かったのに。美祈は、なにか買い物とか? ひとりで?」


 しかし、それは美祈に羽毛で掠ったほどのダメージも与えなかった。彼女は、ふるふると首を振った。


「私は特に目的なかったんだけどね。由嵩が、本買うっていうのについて行ったんだ」

「ゆたか」


 飛び出した男性名を復唱すると、美祈は嬉しそうに頷いた。


「いちおう、お兄ちゃん」

「いちおう」

「双子なんだ」

「ああ。なるほど」


 よく分からない返事をする勇哉の頭の中で、お兄ちゃんという美祈の声がグワングワンと反響していた。


「仲、いいんだ? うちの妹は、兄を獣か汚物のように扱うぞ」


 冗談を交えて口をへの字に曲げて見せると、美祈は真面目な顔で少し考えた。


「ちょっと、過保護、かな」

「シスコンかい」

「彼氏できたって言ったら、相手はどんな奴だ、ってうるさいんだよ。隼人の動画見せても、これじゃ分からない、悪い奴じゃないかってオロオロしたし」


 眉を八の字にして、美祈は可愛く眉を顰めて苦笑した。

 異性の双子とは、そのようなものなのか。いやしかし、片割れが美祈のような可愛い妹なら自分も同じ行動をとるかもしれない。小学四年の生意気な妹に対して抱くことのない、優しい気持ちや労わりが、自然と感じられるかもしれない。

 それじゃ、と勇哉は首を傾げた。


「文化祭、そのお兄さんは来るんだ」

「うん。一度、隼人に会いたいって。由嵩の文化祭は夏だったから」

「珍しいな。高校、どこ」


 軽い気持ちで尋ねたことを後悔した。美祈が口にした学校名に、勇哉はこめかみを押さえた。


「めっさ頭いいじゃん」


 国立大学付属高校。公立中学からひとり行けるか行けないかのトップクラスの進学校だ。


「真面目だからね。お陰で私も、休学中困らなかったし」


 予鈴が鳴った。じゃあ、と手を挙げた美祈が、思い出したように振り返った。


「真面目だけじゃなかった。由嵩が作る玉子焼き、すごく美味しいんだよ」


 何アピールなのだろうか。勇哉は張り付いた笑顔のまま、機械仕掛けの人形のようにしばらく手を振り続けた。

 隼人が越えなくてはならないハードルが、またひとつ増えた気がした。

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