On Your Mark(6)
ドアノブを回そうとした手を止めた。重治の忌々しげな喚き声が、部室の外へもれ出ていた。
「どうにかして、あいつに一泡食わせてやろうぜ」
重治の腰巾着たちが賛同する声も聞こえる。
先程のタイム計測で圧倒的敗北を飾ったのが、余程腹に据えかねているとみえた。いつものことながら、鬱陶しい。
重いため息が漏れた。汗で冷たくなったシャツをさっさと着替えたい気持ちもあるが、針の筵へ自分から座りに行く必要もない。
温くなりつつあるドアノブから手が離れる前に、骨ばった大きな手が被さった。
「気にすんな」
親友の頼もしい声が、頭の上から降ってくる。
隼人の手を包み込んだまま、ドアノブが回された。脇をすり抜け様に、勇哉が片目を瞑った。親鳥の翼に入る気持ちで、隼人も後に続いた。
ムッとした汗の臭いが扉の間から抜け出た瞬間、先輩たちの悪態はピタリと止んだ。
「おっつかれさまでーす」
能天気な勇哉の声に引きずられ、隼人も形だけ挨拶をしてロッカーの鍵を開けた。
無言で着替えを出す間も、重治を筆頭に先輩の刺々しい視線を感じたが、あえて無視し続けた。間に立ち、勇哉はにこやかに、空気読めないマンを装って重治へ話しかけた。
「良かったっスよね、みのりんの手術、無事終わって」
「そ、そうだな」
「シゲ先輩もリレ選(リレー選手)に決まって、心強いっスよ」
「おう」
持ち上げられ、重治は口の端を緩めた。勇哉は、タオルで汗を拭いながら尚も続けた。
「隼人はリレー初めてだけど、先輩方がおられるから安心ッス。優勝、狙っていきましょうね」
相変わらず人のあしらい方が上手い。少しは見習えたらいいんだけど、と考えながら、隼人は汗に濡れたシャツから頭を抜いた。
「こいつ、メチャ足速いけど」
腕に絡むシャツごと、後ろから抱え込まれた。突然のことに、振り解くこともできず、がっしりと動きを封じられた。
「手も速いんだなぁ。ね、ハヤ君」
背後から囁いた勇哉に、耳へ息を吹きかけられた。反射的に、ふひゃん、と変な声が喉をついて出た。上腕から項に掛けて、ぞわわと鳥肌が立つ。
「ちょ、何すん……」
「許せねぇよなぁ」
ニヤニヤと、重治を中心に先輩や同級生、主に短距離のメンバーに囲まれた。
彼らの目的が分からないまま、勇哉の表情を伺おうにも首が回せない。ひたひた迫りくる危険な予感に、隼人は顎を引いた。癖のある前髪を透かし、重治を睨み上げた。
「なんだ、その目は」
目前で細められ、線のようになった瞼の隙間で重治の目はギラリと楽しそうに光った。
「俺たちは、貴様のことが許せないんだよ。なあ」
うんうんと頷く一同に、隼人は唇を噛んだ。
走らず指導者を目指して部活に関われば反発をかい、選手として復帰すれば恨まれる。実力がものを言う世界であることを皆が分かっているはずなのに。それに、普段重治の言動に眉を顰める幾人かまでもが、遠巻きにしてニヤニヤとことの成り行きを眺めていた。
誰一人として、止めようとしない。
「瀬尾隼人」
重治は腕を組み、肩をいからせ、隼人を見下ろした。
「抜け駆けは、許さん」
「は?」
思いがけない言葉に、隼人は脳内で彼の言葉を再生した。
「森野美祈ファン一同の取り決めに反し、お前は彼女と付き合っている。その事実に異論はないな」
「はぁ?」
「そこの、木村勇哉が証人だ」
「ちょっと待った」
あまりの理不尽さに、隼人は身をよじった。が、一回り体の大きな勇哉の束縛から逃れることはできなかった。
「そんなの、知らねぇし。だいたい、あっちから付き合って欲しいって言ってきたんだ。中学んときから好きだったからって」
「その事実は、認めよう。悲しいことだが」
本気で数名が洟をすすりあげた。
美祈は、誰にも分け隔てなく、慈愛に溢れた明るい笑顔で接する。おまけに、感激の沸点が低く、必死の思いでタイムを縮めた部員には誰彼構わず抱きつき、共に喜びを分かち合う。
どうやらそれは、彼女の癖らしかった。最初は「ビッチ」と女子部員に陰口を叩かれていたが、彼女たちも抱擁の洗礼を受けるうちに美祈を受け入れていった。今では、陸上部公認マスコットキャラクタとして通っている。
が、それまでの間に勘違いをした人間は少なくない。
彼女の愛嬌の良さにこれだけの男子高校生が心奪われてしまったのかと感心しながらも、明らかなリンチの予感に背筋が寒くなった。
「俺たちとて、彼女を悲しませたくないし、嫌われたくもない。涙を飲み、盲腸の思いで彼女がお前と付き合うことは、認めると全員一致で決定した。が、しかし」
そこは断腸の思いだろう、と誰もの顔に書いてあったが、笑える雰囲気ではなかった。
「何事もなく引き下がれるほど、悲しきかな、俺たちも大人ではない。したがって、お前にはそれ相応の苦痛を味わってもらおう」
ふんぬっ、と重治の鼻の穴が広がった。いつもはシャーペンで引いたような細い目が、油性マジックで引いたくらいに広がった。
重治が一歩、踏み出す。つられて、じわりと人の輪が狭まった。
「おい、勇哉」
肩越しに助けを求めたが、帰って来たのはカラリとした笑いだった。
「俺も、美祈のファンだからねぇ」
「裏切り者」
喉の奥から唸ったところで、勇哉は腕の力を弱めなかった。輪の外側で傍観している部員は、美祈に好意を抱いているというより、日頃弱みを見せない隼人がどうされるのかを楽しんでいる様子だった。
四面楚歌。完全に孤立している。窮鼠猫を噛むと言うが、裏切り猫に首根っこを捕らえられたネズミに反撃の余地すら残されていない。
「お前の弱点は、勇哉から教えてもらったぞ。覚悟しろ」
勝ち誇った重治の笑みに、歯を食いしばった。
抑えられている腕を振り上げようとしたが、先に察した勇哉がガッシリと押さえ込む。
重治が、挙げた腕を前へ振り下ろした。わっと部員達の恨みを込めた手が伸びる。
観念して、隼人は身を固くした。鍛えた腹筋が筋を浮かび上がる。せめて、苦痛を軽減させようと身構えた。そこへ、勇哉の息が耳に吹きかけられた。
「はひゃン」
ぞくりと跳ね上がる。全身に込めた力が霧散した。
「くらえ」
無防備になった脇腹を、無数の指にくすぐられる。ゾワゾワと這い上がる寒気に、身を引いた。しかし、背中は勇哉の厚い筋肉の壁に押し当てられるだけで、逃れることはできなかった。
「や、やめ……」
「なんの。俺たちの胸の痛みは、こんなもんじゃない」
身悶え、のけぞり、目の端に涙を浮かべながら隼人は抵抗を諦めた。気が済むまでやらせた暁に、あの心安らぐ笑顔を堂々と側に置かせてもらえるなら。彼女のためになら、これくらいの困難は乗り越えてやろう。
とはいっても。
数人の部員たちにもみくちゃにされながら、隼人は笑い転げながら、呼吸の確保に努めた。
ヤバい。
まともな思考が浮かばない頭で、うっすらと確実な結論が導き出された。
明日は、全身筋肉痛になること間違いなし。
〈On your mark・了〉
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