第259話 異国での郷愁

「本当にもぉ、全然分って無いのよアイツったら。これって、意外と重要なことなのよ!」



 かすかに聞こえる女性の声。


 その声に反応する様に、少年の耳がわずかに動く。



『しっかし参ったなぁ、何だか思ってたのと違うんだよなぁ。俺ぁ、もっとこう、槍とか持ってよぉ、エイ、ヤァ……とか言ってさぁ、敵ん中に突っ込むもんだと思ってたのによぉ。最初に手渡されたのが槍じゃなくって、ツルハシって、どう言う事だよっ。しかも、初日からずーっと歩きっぱなし。ようやく目的地に到着したと思ったら、今度はさくを造れ、ほりを掘れだろぉ、これだったらエレトリアで日雇い人夫にんぷやってんのと、全然変わらねぇじゃねぇか』



 クリスは目の前にある木製の椀から、マメのスープを一口。



『はふはふはふっ。まぁな、一日頑張って働けば、こうやってタダでメシが食えるって言うのは、捨てがたいっちゃあ、捨てがたいけどもよぉ』



 更にもう一口。



としてだなぁ。……って、ルーカス。なぁ、俺の話聞いてる? 一体いつまでそうやって落ち込んでるつもりなんだよ。もうあれから一週間は経ってるんだぞぉ。いい加減元気出してくれよぉ。そう毎日々々俺の目の前で辛気臭しんきくさい顔されちゃあよぉ、ただでさえマズい飯が、更にマズくなるじゃねぇかよぉ』



 クリスの目の前。


 食堂のテーブルに突っ伏したまま、力無く椀のスープをきまわし続けるルーカス少年。


 あの一件以降、食事も満足に喉を通らないのであろう。


 彼の両目は落ちくぼみ、若々しく、あれほど満ち溢れていた精気は全く感じられない。



「ターニャ、ターニャ。アエティオスの夕食は私が作るわ、かまどを一つ空けてちょうだい。……あぁ、って言っても分からないわよねぇ。えぇっとぉ、Please leave one oven? って、これで良いのかなぁ。かまどって、オーブンで良いのよね。……あぁぁん、もっと英語勉強しとくんだったぁ」



 再び聞こえて来た女性の声に、スプーンを持つルーカスの手がピタリと止まる。



『ん? どした? それよりルーカス。早く食わねえと、そろそろ食堂が閉まっちまうぞ。はぁぁ、どこの世界でも下っ端は辛ぇなぁ。晩飯ばんめしもゆっくり食えやしねぇ』



 クリスはそうボヤキながらも、残った黒パンをスープに浸し、何とか口の中に押し込もうと躍起やっきだ。


 それもそのはず。


 この部隊には六百名近い兵士が名をつらねており、更に彼らを支援する奴隷達迄を含めると、千名近い大所帯なのである。


 食事の時間も、ある程度限られた形にならざるを得ない。


 当然食事の順番にも、厳密なルールが存在する。


 通常は筆頭百人隊長プリムス・ピルス率いる第一百人隊の兵士が最初に食事を取り、その後は他部隊の兵士達が随時食堂を訪れる事となる。


 ちなみに、第一百人隊が特別な存在なのであって、それ以外の部隊に優劣は無い。


 また、食堂の利用は役職上位者が常に優先される為、食事を受け取った兵士達の中には、そのまま食堂の外で食べ始める者も少なく無い。


 そのおかげで、新参者や若年兵士達の食事時間は、どうしても最後にならざるを得ないのである。


 また、十分な食料が確保されているとは言え、どうしても人気の具材は早い段階で無くなってしまう事が常である。


 最下層の兵士達は、山盛りの具材を頬張る先輩兵士達を羨望の眼差しで見つめ、いつかは自分も出世して、満足な食事にありつきたいと、いつも願っているのだ。


 ちなみに、百人隊長以上の士官には、別途士官専用の食堂が用意されている。


 と、ここまでは兵士の話。


 奴隷達の場合は、かなり事情が異なる。


 奴隷達は当然食堂で食事を取る事など許されない。しかも、支給されるのは、兵士達が残した残飯のみである。


 しかも、パンすら与えられる事はまれで、通常は兵士達の残した具の無いスープに、大麦の粉を溶かした、粥の様なものを食べて糊口を凌ぐしか無いのだ。


 この大麦。通常は家畜等に与える飼料として栽培されているものであり、人が食べるべき物では無い。


 この一事を取ってみても、奴隷の扱いが“人として”の物では無く、限りなく“家畜”や“ペット”に近いもの……である事が分るだろう。



 ――カラン……カラ、カラン



『どうしたルーカス。スプーン落としたぞ。なんだ? メシ食わねぇのなら、俺が食っちまうぞ? いいのか?』



 そう言いながら、ルーカスの椀へと手を伸ばすクリス。


 しかしルーカスの方はそんな事に目もくれず、まるで夢遊病者の様な足取りで、厨房の方へと歩いて行こうとする。



『おおお、おい、待てよルーカス。冗談だよ冗談。ほら、お前のスープ飲んでないぞ。おい、本当だぞ! って、おい、何処行くんだよ。おい、おいっ、ルーカス、おいったらぁ』



 クリスはスープの椀を両手で持ったまま、いつの間にやらルーカスの後を追いかける羽目に。


 小走りで厨房の中へと入って行く二人。


 するとそこには、一人の女性を取り囲む様に、奴隷達の人だかりが出来上がっていた。



「ほらほら、もう出来た。こうすれば、小麦だって美味しいパンケーキになっちゃうんだからぁ。まぁ、本当は重曹じゅうそうとかがあれば、もっとふっくら出来るんだけど、流石にそんなものは無さそうだしねぇ……はい、ベルタ。食べて見て。大丈夫、ちゃんと食べられるわよ?」



 異国の民族衣装に身を包む、ベルタと呼ばれたその女性。


 彼女は木製の皿を受け取ると、その上に乗る黄色い奇妙な物体の臭いをそっといでみる。



 ――スンスン、スン



 もちろん感じられるのは、甘いバターのかおりだけ。


 次に彼女は恐るおそる、その物体を手に取ると、自分の口へと招き入れたのだ。



 ――ハムッ……モグモグ



『うっ! うぅぅぅぅん! &$#(&!#……』



 急に声にならない声を上げ、地団駄じだんだを踏み始めるベルタ。


 しかも、本来切れ長である彼女の両目は、真ん丸に大きく見開かれ、何故だか隣にいた別の奴隷の背中をバシバシと何度も叩き始める始末。



「あぁ、はいはい。美味しかったのね。そうね、良かったわ。ベルタが気に入ってくれて。まだ沢山あるから、みんなも試食してみて」



 人だかりの中央にいる彼女は、鉄板の上にある丸い食べ物を手際よく取り分けると、周りの奴隷達へと一つずつ配り始めたのだ。



『うわぁ、美味しい! 小麦ってこんなに美味しいものだったんだ』


『柔らかくって、甘ぁいっ!』



 鉄板の上の食べ物は、またたく間に奴隷達の口の中へと消えてしまう。



「あっ、あなたは……神官の方……ですか?」



 奴隷達の視線が、一斉に声のした方へと注がれる。


 そこに居たのは、野戦兵の甲冑を着た二人の少年。


 少年とは言え、二人はれっきとした兵士である。奴隷達とは身分が違う。


 しかも、奴隷達が食べて良いのは、兵士達が残した残飯か大麦のみ。


 こっそり厨房で、兵士達の食べ物を食べていたと言う事がバレれば、ひど折檻せっかんを受ける事すらあるのである。



『『『『ンッ!!』』』』



 いまの今まで、にこやかに女性を取り囲んでいた多くの奴隷達。


 彼らは、声にならない声を出したかと思うと、一目散に厨房の外へと逃げ出してしまった。


 後に残されたのはかまどの前に居る女性一人と、民族衣装を着る二人だけ。


 すると突然、先程地団駄を踏んでいた女性が、かまどの前に居る女性を守るかの様に、兵士の前へと進み出て来たのだ。


 先程迄、あんなに愛らしかった彼女の真ん丸の両目は、既に妖しく光る切れ長な目に逆戻り。


 何だったら、兵士ルーカスへの敵愾心てきがいしんが、剥き出しの状態だ。



『あぁ、驚かせてごめんよ。別に君たちをとがめている訳じゃ無いんだ。俺のが聞こえて来たものだから、つい……』



 尚もいぶかしそうに、兵士をにらみ付けるベルタ。



「あぁ、えぇっとぉ、言葉は通じますか? あなたは、誰ですか? どこから、来ましたか? 神官の方ですか?」



 ルーカスは、ベルタの背後に居る女性に向かって、更に話し掛けてみる。


 ……すると。



「うっ、ふぐっ、えぐっ、ふえぇぇぇん……」



 突然、両手で顔を覆い、その場で泣き出してしまうその女性。


 ベルタは驚きの表情で一瞬だけ背後を振り返ると、今度はゆっくり兵士ルーカスの方へと向き直った。


 この時ベルタの視線には、あからさまな怒気と殺意が含まれていた事は言うまでも無い。



『えっ? あのぉ、いや、俺、何か悪い事言ったかな? えぇ、言って無いよ、本当に言って無いってば』



 依然ルーカスをにらみ付けながら、そっとふところへと手を忍ばせるベルタ。


 彼女の行動には一分のすきも見受けられない。



『あぁ、いやっ、ちょっと、待って、本当にホント、マジで、お願いっ!』



 何とか言い訳をしようと試みるルーカス。


 しかし、どう説明して良いやら、皆目見当も付かない。


 そして、ベルタの手がゆっくりと静止した。



『はわわわわっ!』



 とその時。



「私は美紗、大谷美紗と言うの。神官ではないわ。日本と言う所から来たのよ」



 ベルタの背後から、涙声ながらも、どこか毅然きぜんとした声が聞こえて来たのだ。

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