第198話 経年の果てに

「うん、美味うまいっ!」



 素焼きの小さなさかずきに注がれる透明な酒。


 ただ、その男は注がれる度、間髪入れず飲み干してしまうので、その清らかさをでるひますきもありはしない。



「こんなに喜んで頂けるとは。わたくしとしても、持参した甲斐があったと言うもの」



 彼女アルテミシアも、嬉しそうに男のさかずきへと酒を注いで行く。



「うーむ、初めて飲む酒だが、一体何で出来ておるのか」



「はい。元はコメと言う実から出来ている酒でございますが……そんな事よりもお師匠様。先程申し上げました件、如何でございましょうや?」



 機嫌よく酒を呷る師匠に対し、適当に相槌あいづちを打ちつつも、遠慮がちにではあるが、話題を変えようとする彼女。



「いやいや、そうは言うが、この鹿肉も美味うまいのぉ」



 大皿に山と積まれた鹿肉を、素手で三切みきれれ程一気につままむと、せわしなく口の中へと放り込むヴァシリオス。


 終いにには、油でテカる指先をしゃぶりつつ、新たに注がれた酒を呷り始める始末だ。



「あっ、ありがとうございます」


「こちらに来る途中、山の中腹に鹿の群を見つけましたので、良い土産になると思い、一頭仕留めましてございます」



 まるで何事でもない様に話す彼女。


 しかしこの厳冬期。そう易々やすやすとこれだけの大物を仕留められるはずが無い。


 見かけたと言うのは言葉のあやで、雪上に残された足跡あしあと執拗しつように追いかけ、待ち伏せし、それでも警戒している鹿の意識の外から、的確に射殺したのであろう。


 彼女の長弓ちょうきゅうの腕前をもってしても、非常に困難な仕事である事は、容易に想像がついた。



「うむ、うむ。長生きはするものよ。のぉ、ストラトス。お前もそうおもうじゃろ?」



 同じテーブルの端で、巨大な鹿肉と格闘中のストラトス。


 大きくうなずいているにはいるが、どこまで話を聞いていたものやら。


 そんな弟弟子おとうとでしの様子に目を細める彼女。



 いやいや、彼女が遠路遥々えんろはるばるこのあばら家におもむいたのは、そんな師匠や弟弟子おとうとでしの喜ぶ姿が見たかった訳では決して無い。


 彼女は改まった様子で、師匠ヴァシリオスの方へと向き直った。



先程さいほどよりお話ししております、皇子様御指南役ごしなんやくの件、何卒ご了承いただきたく。ご返答や如何に?」



 そんなアルテミシアの真剣な眼差まなざししに、一瞬気圧けおされた様子のヴァシリオス。


 わずかに盃を持つ手が止まる。



「もう……ワシには教える事など何もありはせん。お前が教えればよかろうに……」



 半ば自嘲気味じちょうぎみにそう話すと、彼は盃に残った酒を一気に飲み干した。



「いいえ。わたくしは未だ修行中の身。とても皇子様の指南役に相応ふさわしくございません。やはり、類稀たぐいまれなる政治、戦略の知識を有し、武芸、武道に置いては広く二陸三海全世界に並ぶ者無きヴァシリオス様にこそ、皇子様の御指南役ごしなんやく相応ふさわしいかと」



 ここぞとばかりに、テーブルの上へと身を乗り出し、何とか師匠ヴァシリオスを説得しようとする彼女。


 そんな様子を感じ取ったヴァシリオスは、空になった盃をそっとテーブルに置くと、そのまま急に黙り込んでしまった。


 二人の間の沈黙は、いったいどれ程続いたのであろうか。


 先程まで元気よく鹿肉にかぶりついていたストラトスすらその手を止め、心配そうに二人の様子を見つめている。


 そして、最初に口を開いたのは、ヴァシリオスであった。



「……老いた。ワシは老いたのじゃ。とても今から皇子様を育て上げる事はかなわんじゃろぅ」



「いっ、いいえ、そんな事は……」



 反論しようとするアルテミシアの顔前に片手を広げ、彼女の言葉を制するヴァシリオス。



「いや、良いのじゃ、アルよ。……いいや、アルテミシア。お前も既に気付いておろう。ワシに残された時間が短い事を」



 彼女は自分の目の前に広げられた彼の手と、その顔を交互に見つめてみる。



 あれだけ雄々しかった髪は、すっかり白く。


 あれだけたくましかった腕は、驚くほど細く。


 そして、あれだけ覇気が感じられた瞳からは、優し気なぬくもりの光しか感じられない。



 なぜだろうか。


 彼女には全くそんなつもりは無いはずなのに。


 さみしさとかなしさ。そして一握りのあわれみが、彼女の涙腺を緩ませる。



「お師匠様……」



 言葉を詰まらせ、それ以上何も話せなくなる彼女。



「うむ。良い。良いのじゃ。アルよ。これは自然の摂理せつりたりとも時の流れに逆らう事はできぬ。おの終焉しゅうえんの地ぐらい、自分で決めさせてはくれんかのぉ」



 そう話すヴァシリオスは、彼女に対して逆に懇願こんがんしている様にさえ見える。



「……うぅっ……うぅぅぅ……」



 彼女は、只ひたすら目の前に出された彼の小さくなった手を両手で握り締め、押しいただく様にしながらむせび泣く事しかできなかった。



「もう夜も遅い。夜道は危険じゃ。今夜は泊まって行きなさい」


「おいっ、ストラトス。今夜はお前の寝床を姉弟子アルに貸してやれ」



「はい。かしこまりました」



 どうやら、以前にも客人へ寝床を貸した事があるのだろう。


 ストラトスの方も慣れたもので、二つ返事で承知してしまった。



「それでは私は馬小屋の方へ……」



 そう言って立ち上がろうとするストラトス。


 しかし、彼女はそんな弟弟子おとうとでしの行動を手を振って制止する。



「いやいや、突然訪問した私が悪いのだ。元々旅慣れている身ではある。どうか一晩、馬小屋のわらをお借り出来れば、それ以上望む事は無い」



 どうやら彼女は自分が馬小屋に泊まると言っている様だ。


 どうして良いかわからず、ヴァシリオスの方へと視線を向ける少年。



「ふふっ、アルは昔から言い出したら聞かぬからのぉ。好きにするが良い。他に何か必要な物があれば、弟弟子ストラトスに言うが良かろう」



「ありがたき幸せ。それでは一晩、馬小屋をお借り致します」



 彼女アルテミシアはそれだけを告げると、頬を伝う涙を拭いもせず、颯爽とマントをひるがえしながら馬小屋の方へと歩いて行ってしまった。 

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