第172.お姫様抱っこ

「それでは、私はこれにて」



 そう話す年配の女性は、戸口で深々とこうべを垂れる。


 そんな彼女の肩越しから見える暗い廊下には、彼女自身が持つランプの明かりによって作られた影法師が揺らいで見える。



「すみません。ありがとうございました」



 そう応じるのは、まだ年端も行かない美少女である。


 彼女は、陶器の壺と水差しが乗せられた銀のトレイを持ち、申し訳無さそうにお辞儀を一つ。



「いいえ。これも家政婦長の務めでございます。何も問題はございません」



 日頃はその顔に殆ど感情を表す事の無い彼女ではあるが、この時ばかりは少し柔和な面持ちで微笑み返してくれたのだ。


 そんな家政婦長の表情を見た少女は、何か伝えたい事があるのか……少し言い淀んでいる様子。



「あっあのぉ。イリニ家政婦長さん……」



 意を決して話しかける少女ミランダ



「今まで、……本当にお世話になりました」



 ミランダはそう告げると、深々とお辞儀をして見せたのである。


 そんな少女の行動に、軽く苦笑いを浮かべるイリニ。


 一瞬だけ、『その話し方では、お別れの挨拶になってしまいますよ』と、指摘すべきかとも考えたのだが、姉の病を含め、心労甚だしいであろう少女に、今言うべき事では無いだろう……と判断。


 イリニは、笑顔のまま数回頷くと、そっとその扉を閉じてしまう。



「ふぅぅ……素直な良い娘なのに……」



 閉じられた扉の前で、思わず独り言ちるイリニ家政婦長。


 こんな純朴な少女も、マロネイア様の妾となるべく買われた身である。いずれ遠くない将来に洗礼の儀式を経て、正式に性奴隷の一員として組み込まれる事になるは間違い無い。


 これまで何人もの少女達をそうやって育て上げて来たイリニにとって、特に珍しい事ではないとも言える。にも拘わらず、心が揺らぐのはなぜなのだろうか。



「……うぅぅん」



 思い返せば今日は特別な事が目白押しだった。


 特にセレーナの件に、シビルの件。終いには、つい先ほど御簾みすから、ステファナと思われる女性の声が聞こえて来たばかりだ。


 ステファナはヴァンナ様の専任侍女であり、既にイリニ家政婦長の管轄外のメイドとなる。


 そんなステファナに、『もう少し声を小さくなさいっ!』とも言えず、少し悶々とした気持ちでいた事は確かである。


 その影響もあるのだろう。余計に、この少女の純朴さが、とてもいとおしく思えたのかもしれない。


 イリニは、もう既に『癖』の様になってしまった『眉間を指で押さえるポーズ』をした後で、二、三度首を振ると、何事も無かった様に再び廊下を歩き始めたのであった。



 ――、である。



 翌日の朝、イリニ家政婦長が少女達の部屋を訪れ、もぬけの殻となっているベッドを見た瞬間。



「……あんの、れがぁ!」



 と大声で怒鳴った事は、メイド達の間で長く語り継がれる事となる。



 ◆◇◆◇◆◇



「ルーカスっ! もう、出てきて大丈夫だよ!」



 イリニ家政婦長の前で、殊勝な態度を取っていたミランダ。


 家政婦長が部屋を後にすると、早速元気を取り戻した様だ。



「よしっ! それじゃあ……」



「あぁ! ダメダメッ!」



 早速廊下へと続くドアを開けようとするルーカスだったが、後ろからミランダがそれを引き留める。



「もぉ! 今出て行ったら、イリニ家政婦長さんに見つかっちゃうじゃん!」



「えへへ。ごめんよミランダァ」



 少年の後先考えない行動に、頬を含まらせ少し困った様子のミランダ。


 一方、ルーカスはと言うと、『少女に叱られた』にも関わらず、彼の鼻の下は伸びっぱなしである。



 ……怪しい。



 家政婦長が扉を出て行ったばかりで、そこから脱出できるはずが無い事ぐらい、色狂い真っ最中のルーカスとは言え、流石に気付くはずだ。


 どうやら、少し怒った顔のミランダが見たくて、ちょっとふざけてみただけの可能性が非常に高い。と言うか、それ以外に考えられない。


 こんな時から『M気質』の片鱗を見せ始めるルーカス。



 ――そんな事より、脱出である。



「それじゃあ、私から先に行くねっ!」



 少女は突然そう告げると、窓の手前で『くるり』と半回転。


 両手を『ぐー』にした形で、自分の胸の前に揃えると、そのままの態勢で、窓の外へお尻から『ぴょーん』と飛び出して行く。



「はわゎゎゎゎ!」



 初めてその光景を目の当たりにしたルーカスは、驚いた様子で窓枠へと駆け寄って行った。


 しかしその頃、既にミランダは地面に降り立ち、庭園の花壇の前でにこやかに手を振っているでは無いか。



「うぇぇ、マジかぁ」



 少女は少年に対して、早く来いとばかりに大きく手を振っている。


 しかし、ルーカスは元気いっぱいの男の子であるとは言え、しょせん人間ひとの子である。


 流石に二階の窓から飛び降りる訳には行かない。


 ルーカスは、とりあえず窓の手すりに捕まると、ゆっくりとぶら下がる様にしながら、少しでも地面に近付こうと努力してみる。


 その様子を訝し気に見上げる少女。



「うんもぉぉ。私が受け止めてあげるのにぃ……」



 彼女にしてみれば、ルーカスの一人や二人、簡単に受け止めるだけの自信がある。


 逆に『もたもた』とされる方が気に障るのだ。


 終いには、ルーカスの真下に立ち、両手を挙げて身構えつつ、少年に対して最後通告。



「ルーカスゥ! 早く手を放しなさいっ! さもないと引っ掻いちゃうわよっ!」



「うぇぇぇ!」



 そうは言っても、簡単に手など離せるはずも無く。


 自分の手と、ミランダの様子を何度も交互に見ながら、飛び降りるタイミングを図るルーカス。



「ん、もうっ! ……えいっ!」



 ついに我慢の限界に達したミランダ。


 その場所から、垂直に飛び上がると、彼女の手は丁度ルーカスのお尻の辺りにまで到達。


 そのまま服を掴んで引きずり下ろす算段のミランダであったが、実際に掴んだのは彼の下帯。



「あれっ? 取れちゃった」



 そのまま着地して、手に取ったを確認しつつ、ゆっくりと上を見上げるミランダ。



「やっ! ちょっと! えぇっ! ミランダッ! 何するの! ダメダメ、こっち見ちゃだめっ!」



 ルーカスは思わず左手を離して、とにかく股間を隠そうとするものの、既に限界に近づいていた彼の腕は、手すりにつかまる右手すら敢え無く離してしまう結果に。



「はぁぁぁぁぁ!」



 小さな悲鳴を上げつつ、窓枠から落下するルーカス。



「……ほいっと!」



 そんな彼の心配を他所に、軽々と少年を受け止める少女。



「えへへぇ。ほぉら。大丈夫だったでしょ?」



「うっ、うん。……大丈夫だった」



 照れくさそうに話すルーカス少年。なんやかんや言って、彼はフリチンな上に、美少女にお姫様だっこされると言う情けない姿に。



「それじゃあ、行こっか!」



 ミランダはそう言うと、ルーカスを抱きかかえたまま、いきなり走り出したでは無いか。



「ちょっ! ちょっと待って。ミランダッ! おっ、降ろして! 俺走れるよっ!」



「えへへっ、ダイジョブ、大丈夫っ! そぉれっ!」



 掛け声一発! 更に加速するミランダ。



「ほらほら、しっかり捕まってないと、落っこっちゃうよぉ!」



「はうはうはう!」



 結局ミランダに抱きかかえられたまま、クリスの待つ庭園外周の東屋あずまやまで運ばれてしまったルーカス。当然、それを目撃したクリスからは、あらん限りの罵詈雑言を浴びせられた事は言うまでも無い。

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