第165.家政婦長の憂鬱

 ――トン、トン。



 ノックの音が静かに響く。



「はっ、はーい……」



 テーブルに置いてあるランプを手に、ドアの方へと歩き出すミランダ。



 ――カチャ。



 彼女は静かにドアを開けた。


 奴隷妾メイド達の住む部屋には、基本的に錠は付いていない。元々個人の資産と言うものが認められていない奴隷に、プライバシーと言う現代の常識が通用するはずも無い。


 もちろんヴァンナやミランダ達の様に、アゲロスに認められた奴隷妾メイド達も例外では無い。ただ、その準妾クラスの場合、流石に家政婦長のイリニであってもいきなりドアを開ける様な事は憚られるのだ。


 少しだけ開けたドアの隙間から、怪訝な顔を覗かせるミランダ。



「イリニ家政婦長さん……」



「あぁ、お休みでございましたでしょうか? ミランダ様」



 ミランダの顔を見たイリニは少し安心した様子。



「いえ、まだ起きてました」



「そうですか、お姉様の具合は如何ですか?」



 夕方ぐらいから体調を崩したミランダの姉を気遣い、様子を見に来てくれたらしい。



「えぇ、今も苦しそうで……」



 そう言うとミランダは、イリニ家政婦長からも、姉のベッドが見える様、ドアをもう少しだけ大きく開けてみせる。


 確かにベッドに伏せるミランダの姉は、浅い呼吸で何やらうなされている様だ。



「そう……お薬の方は?」



「はい。先ほど頂いたお薬を飲ませてからは、少し落ち着いている様ですが……」



 実は今から一時間ほど前、イリニ家政婦長が薬師から薬をもらって来てくれていたのである。


 ただ、その薬を飲ませたにも関わらず、本当の所、余り症状は改善していない。



「ふうぅ……」



 小さくため息をつくミランダ。



「ミランダ様……ミランダ様のお加減は如何ですか?」



 体調不良の原因がはっきりしない今、妹のミランダが姉と同じ様に体調を崩す可能性が考えられる。


 特に、これだけ仲の良い姉妹の場合、姉の不調に引きずられる形で、妹が体調を崩したとしても何ら不思議ではない。



「えぇ、実は私も少し体調が……」



 そう話すと、伏し目がちに顔を背けるミランダ。本当の所、家政婦長には一刻も早く帰って欲しいと願う彼女は、ついつい余計なを。



「承知致しました。それでは、ミランダ様の分のお薬とお水をご用意致しましょう。暫くお待ちくださいませ」



 イリニ家政婦長は、そう告げると、深々と一礼をする。



「えっ? いやぁ……えぇっとぉ。私は大丈夫って言うか……、えぇっとぉ、もう私も寝ようかなぁ……なぁ~んて」



 急に取って付けた様に、言葉を濁すミランダ。


 しかし、イリニ家政婦長の方は意外にかたくなだ。



「いえいえ、ご遠慮なさらず。ミランダ様御姉妹は、アゲロス様にとっても大切なお方。確か薬師部屋の方にまだ予備の薬が残っていたかと存じます。只今お持ち致しましょう。それでは後ほど……」



 イリニ家政婦長はそれだけを告げると、もう一度深々とお辞儀をしてから、その部屋を後にする。


 閉じられた扉の前で立ち尽くすミランダ。流石に自分のミスに気が付いた様だ。



「あっちゃ~。家政婦長さん、またすぐ来ちゃうよぉ……」



 ◆◇◆◇◆◇



 来た時とは異なり、少し足早に歩を進めるイリニ家政婦長。


 目的の薬師部屋は、マロネイヤ家の仮設神殿に併設されている養生所内にある。


 養生所自体は、ここ妾専用館から比較的近いとは言え、普通に往復すると、三十分程度の時間が掛かってしまうだろう。


 ミランダ姉妹には、早めにお休みになって頂きたいと考えているイリニにとって、あまり遅くなる事は、本意では無いのだ。


 手にしたランプを落とさない様、しっかりとその取っ手を握り直すイリニ。


 ただ、セレーネの部屋の前を通り過ぎる際にはついつい足を止め、不作法とは思いつつもその扉にそっと耳を寄せてみる。



「あぁ、何て……なんて凄いの?……」



 ――ん? そんなに凄いの? やっやるわねっ、シビル。 



「いやっ! 止めてっ! あぁぁぁ、……嘘、嘘よっ、止めないで……」



 ――まっ! まぁね。嫌よいやよも好きのウチよ。本当に止めてどうするのよ、シビル。まぁ、そう言うテクニックもあるにはあるけど、でも止めちゃだめよ。えぇダメよ。そのぐらい分ってあげなさい、シビル。



「うっ……こんなの……こんなの、は・じ・め・て……」



 ――えっ! どんな事してるの? シビル? どう言う事かしら? シビル。



「んんんっ……はぁ、はぁ……はうっ! あぁぁぁっ……!」



 とても聞くに堪えない、吐息と喘ぎ声が漏れ聞こえて来る。


 イリニだって伊達にここまで年を重ねて来た訳では無い。この程度の事で自分を見失う様な生娘きむすめでは無い。


 ただ、思い返してみれば、最近めっきりご無沙汰ではある。


 折角の機会なので、他人事ながら十分堪能したい所ではあるが、残念ながら自分にはお役目がある。


 そう、イリニ家政婦長の目指すのは、『自分を律する事が出来るメイド』を育成する事。当然その中には自分自身も含まれているのだ。


 イリニは眉間を指で押さえて大きく二、三度首を振ると、何事も無かったかの様に再び廊下を歩き始めようとする……のだが、やはり何か釈然としない。


 踏み出しかけた足を止め、もう一度そのドアへと向き直るイリニ。意を決した彼女は、少々大きめにドアをノックしたのだ。



 ――トン、トン。



「……」



「うぉほん。セレーネ、明日も早いのですから。いい加減にしておきなさいっ!」



 イリニにしてみれば、努めて冷静に話したつもりなのだが、どうしても言葉尻がキツクなった様だ」



「……はい。……もっ、申し訳ございません。イリニ家政婦長様」



 部屋の中からは、恥ずかしそうに謝罪するセレーネの声が聞こえて来た。


 そんな風に普通に謝られてしまうと、何故だか急にをした様な気になってしまうイリニ。



「いっ、いいえ、……良いのよ。わかってくれれば、それで良いの」



 結局イリニ家政婦長は、釈然としない想いを抱えたまま、なぜだか逃げる様にその場を後にしたのであった。

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