第164.恋泥棒

「シビル? こんな時間にどうしたの?」



 小さな部屋。


 手前にベッド、その奥、窓の横に小さな箪笥タンスが一つだけ。


 その声の主は、上半身裸の状態で入り口に背を向け、ベッドの端に腰かけている。


 時折、床に置かれた小さな桶に手ぬぐいを浸し、自身の体を拭き清めている様だ。


 明かりは小さなオイルランプが一つだけ。


 揺らめくランプの光に照らされた、そのの背中は、妖しくも艶めいて見える。


 元々不審者が来る事など予想もしていないのであろう。


 その女性は、部屋に入って来たへ声を掛けつつも、未だその無防備な背中を晒したままだ。


 ここは奴隷妾専用館の二階。この部屋に住む女性も恐らく奴隷の一人なのだろう。


 ただ、奴隷の身分である人間が、個室を与えられる事など、まずありえない。


 しかし、この屋敷に住む女性達は、奴隷は奴隷でも、少々意味合いが異なって来る。


 全員がアゲロスへの忠誠を誓い、その傍に侍り、諸事全般の雑事をこなす者達なのである。もちろん、部屋の清掃から、日々の着替えの手伝いや、小間使い。当然、その中には、アゲロスの夜伽の相手になる事も含まれる。


 そして、運よくアゲロスに認められる事があれば、この館の中でもより大きな部屋へと移り住む事が出来、更に寵愛を受けるナンバーズになる事にでもなろうものなら、この広大なマロネイア家の敷地内に、自分専用の館を設け、多くの侍女を侍らせる豪奢な生活を送る事も可能なのである。


 そう言う意味では、市井しせいで取引されている奴隷達とは一線を画すると言って良いだろう。



「あんまり夜中に出歩くと、家政婦長に見つかるわよ」



 その女性は両腕を既に拭い終え、脇の下、そして豊満と言っても差し支え無いその胸を持ち上げて、入念に汗を拭っている。



「……」



 入口に立つそのは、無言でその女性に近づくと、突然背後から彼女を優しく抱きすくめたのである。



「あんっ……シビル……駄目よ。ほら、まだ体を拭っている所でしょ」



 少し呆れ気味のその女性は、体を拭う手を止めて、そのの成すがままに抱き締められている。


 すると、そのは、やおら女性の首筋に唇を寄せると、優しく舌を這わせ始めたのだ。



「ああんっ!……シビル、シビルッ……どうしちゃったの?」



 その女性は、自身の背後にいるが、知り合いのシビルと言うであると思い込んでいるのであろう。


 口では『どうしたのか?』と問い正しつつも、その実、甘く切ない声を出したかと思うと、その表情は次第に恍惚としたものへと変化して行った。



 ◆◇◆◇◆◇



 住居棟の廊下を、訝し気な顔で歩くこの女性。


 アゲロス家の家事全般を取り仕切る、イリニ家政婦長その人である。


 彼女の仕事は、規律ある働きの出来る女性メイドをアゲロス様へ提供する事にある。


 だからこそ、自分に対しても、そして彼女メイド達に対しても、常に厳しく接しているのである。


 しかし、それもこれも、仕事の上での事。


 生活全てにおいて、完全に規則正しい生活を強いるのでは、流石に息が詰まってしまう。


 他人に迷惑を掛けず、己の役割を全うできる……つまり、自身を律する事が出来る人物に対しては、ある程度の融通を利かせるだけの想いも持ち合わせているのだ。


 そういう、固いだけの人物では無く、意外に人情味あふれる差配を振るうが故に、メイド達からは尊敬と畏怖の念を持って、一目置かれる存在となっているのであろう。


 そんな家政婦長が、とあるメイドの部屋の前で立ち止まった。


 先ほど、住居棟の廊下の角を曲がる際に、ドアの閉まる音が聞こえたのだ。


 音の大きさからして、この部屋に間違いない。


 部屋の主はセレーネ。


 既にこの館に来て五年が経つ。まだ若く、仕事の覚えも早い。美貌も申し分無いだろう。


 ただ、如何せん、この館には、常に新しく、若い女性が来る。中には頭の中に『おがくず』が詰め込まれているのでは無いか? と疑いたくなる様な女性も少なくないのだが、そう言う女性に限って、秀でた美貌を持つ娘だったりもする。


 そうすると、セレーネの様に真面目で、優秀な娘達が『手つかず』のまま、メイドとしてこき使われ、『おがくず』頭の娘達が栄達すると言う、不思議な現象がまかり通ってしまうのだ。



 ――殿方と言うのは、そういうモノなのよね。



 一種諦めに似た思いを抱くイリニ家政婦長。そういう意味では、このセレーネについては、このまま真面目に精進してもらい、行く行くは、自分の後継者として育成して行きたいとの想いがあった。


 扉の前に立ち、そっと耳をそばだてるイリニ家政婦長。



「あんっ……シビル……駄目よ。ほら、まだ体を拭っている所でしょ」


「ああんっ!……シビル、シビルッ……どうしちゃったの?」



 甘えた声で、シビルの名前を呼ぶセレーネの声が聞こえて来る。



「……ふぅぅ」



 消灯時間にはまだ間があるだろう。メイド達にとっては、唯一の自由時間と言っても良い。これが新入りのメイドであれば、『オイルランプを無駄に使うな!』と、叱責の一つも飛ばす所だが、相手はベテランのセレーネである。


 イリニは、眉間を指で押さえて、大きく二、三度首を振ると、何事も無かったかの様に、再び廊下を歩き始めた。


 そう、元々の用事は、最奥の部屋の住人にあったのである。



 ◆◇◆◇◆◇



「シビル、一体どうしたって言うの? こんな事初めてよ?」



 全身に走る快感の波に洗われながらも、背後から抱きすくめるその行為自体を疑問に思い始めるセレーネ。大体、ここまで話し掛けているにも関わらず、一言も返して来ないと言うのは流石におかしい。


 背後から抱き締められる腕をそっと握り返してみるセレーネ。


 しかし、その腕は華奢は華奢でも、セレーネの知るシビルのそれとは似ても似つかぬだけの強靭な筋肉に覆われていた。



「あなたは……誰?」



 ようやく我に返ったセレーネ。


 自分でも信じられないぐらい冷静に振り返り、自分の首筋にキスをする人物の顔をマジマジと見つめてみる。



「あらっ、良い男ねぇ。……う~ん? あなたは泥棒さんかしら? でも残念ねぇ、私はこの館のメイドなの。お金は……そこの箪笥にいくらかあるけれど、それでもせいぜい、百クランもあるかどうか……」



 セレーネはそう告げると、ゆっくりと自分を抱き絞めるの腕からすり抜け、彼と正対する様に座り直したのだ。



「もしよければ、そのお金を全て差し上げても良いのよ。ちょっと少ないけど、さっき、とてもをさせて頂いたお礼って所かしら」


「ただ、それでも飽き足らないって事なら……残念だけど、ここで大声を出させて頂くわね。流石にご主人様の宝物を持って行くのを見過ごす訳には行かないの」



 そこで、優しく微笑むセレーネ。


 打算も卑屈さも……それどころか怯えや恐れさえも全く感じさせないその微笑みに、思わず意表を突かれてしまう。



「あぁ、突然すみません。残念ながら私は泥棒では無いのです」



 そんな落ち着きのあるセレーネを『信用できる』と踏んだ彼は、少し躊躇ためらいながらも、事の経緯いきさつについて語り始めた。



「私の名前は。以前、私の主人がマロネイア様の宴に呼ばれた際、偶然あなたを見かけて以来、私はあなたに恋焦がれていたのです」



 流れる様な手つきでセレーネの小さな顎に右手を添え、彼女のつぶらな瞳を見据えるエニアスエマノエル



「えぇ?! そんな事があったかしら? 私、残念だけど、今までマロネイア様の宴に呼ばれた事が一度も無いの……」



 憂いを帯びた瞳を伏し目がちに逸らすセレーネ。



「いいえ、確かにあなたでした。宴は宴でも……そう、帰りの馬車でお見送りをする際、お屋敷の出口に並ぶを見初めたのです」



 いい加減、口から出まかせのエニアス。ただ、彼のその表情には一点の曇りも陰りも見受けられない。


 とは言いつつも、最初の言い訳は少しヤバかった。まさか、マロネイア家の宴に出た事が無いとは……。



「あっ……あぁ、そうだったかしら。確かに、お客様をお見送りした事は何度かあるのだけれど……」



「ええ、それです。その時に間違いありません!」



 急に元気を取り戻すエニアスエマノエル。更にここぞとばかりに畳み掛けに入る。



「あぁ、あなたのその美貌は、美の女神テオフィリアすら嫉妬する事でしょう。今、あなたを見つめるこの私の瞳は、その幸福に打ち震えております」


「たとえこの先テオフィリアの嫉妬により、私のこの目が光を失い、永遠の闇をさまよう事になろうとも、私は今この瞬間の幸せを胸に、愛に満たされた人生を送る事が出来るに違いないでしょう」


「改めてお聞きしたい。あなたの……あなたのお名前は?」



 今度は左手で、彼女の髪を優しくかき上げるエニアスエマノエル


 完全に心奪われた彼女の瞳には、もうエニアスエマノエルしか映らない。



「わっ、私の名前はセレーネ。セレーネと言うのよ」


「あぁ、エマノエル、エマノエル。何て素晴らしいことばなのかしら。今、私の身も心もあなたに奪われてしまう事を期待して止まないわ。そして……」



 急に彼女の艶やかな唇にそっと人差し指を乗せる事で、その言葉を遮るエニアスエマノエル



「もう、二人に言葉は要りませんよ……」



 そう告げるなり、彼女の唇に自分の唇を重ねて行く。


 自分は泥棒では無い! と言い切っていたエニアスではあるが、とんだ恋泥棒である。

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