第166.クロンミュオン

 ――カチャリ。



「あっ! エニアスさん。大丈夫でしたか?



 ミランダ達の部屋のドアが開き、少し上気した様子のエニアスが顔を覗かせる。



「あっ、あぁ、遅くなって悪かった。さっき来た家政婦長をやり過ごすのに時間が掛かっちまってなぁ」



 なぜか聞かれてもいない事についてまで、言い訳を始めるエニアス。



「ふぅ~ん、ん?」



 ――スンスン。



 丁度エニアスがミランダの近くまで来た所で、エニアスのトゥニカから甘い残り香が漂って来たのだ。



「んん?」



 ――スンスンスン。



「んんんっ?」



 ミランダは決して鼻が利く方では無い。どちらかと言うと、彼女達の種族は、嗅覚よりも視覚の方が優れている。とは言え、人族に比べれば各段に匂いに対する感度は高い。



「エニアスさんから、セレーネさんの臭いがするぅ……」



 セレーネは、元々この姉妹のお世話係として、あてがわれていたメイドであり、ミランダ達も良く知る女性である。そんな彼女の残り香が、なぜかエニアスの体から漂って来るのだ。



 ――スンスン、スンスン。



 更に匂いを嗅ぐミランダ。



「あれぇ? エニアスさんって……」



「ミッ、ミランダさんっ! クリスとルーカスさんはどこに?」



 ミランダの話す言葉を打ち消す様に、言葉を被せて来るエニアス。



「あぁ、うん。見つからない様に私のベッドの下に入ってもらったの。……ルーカス、もう、出て来ても大丈夫だよ。今来たの、エニアスさんだったよ」



 ミランダからのその掛け声に、少し遅れて反応するルーカス。



「……あぁ、出ても大丈夫なんだね」



 すると、申し合わせた様に、クリスとルーカスがミランダのベッドの下から這い出して来た。



「ふぃぃ。ヤバかったなぁ。若頭カシラが上手く足止めしてくれたおかげで、何とかベッドの下に隠れる事が出来やしたよぉ」



 そう言いながら、体に付いたホコリを払うクリス。その横で、同じ様にルーカスもホコリを払う仕草をしている様だ。


 実際には、セレーネ達が隅々まで綺麗に部屋の掃除をしてくれているおかげで、殆ど服に埃など着いていないのではあるが。



「……で? どうやって連れ出しやす?」



 早速、逃げる算段を始めるクリス。



「あぁ、でも、さっきイリニ家政婦長が、『薬を取ってもう一度戻って来る』って言ってたから、今逃げたら直ぐにバレちゃうかも……」



 少し申し訳無さそうに話すミランダ。何しろそれは、彼女の余計な『嘘』が原因なのである。



「そうですか……仕方がないですね。出来るだけ発見は遅らせたいし……。あぁ、それより、お姉さんの容態は?」



「うん、こっちのベッドに寝てるの……夕方からずっとこんな様子で」



 ミランダは、ランプを片手に部屋の中央にあるベッドへ近付くと、そこに横たわる姉に声を掛ける。



「お姉ちゃん、ルーカス達が助けに来てくれたよ……」



 そして、姉の様子がエニアスにも見える様に、そっとリネンのシーツをめくって見せるミランダ。


 折しも、そこに横たわっていたのは、リリアの花の様に白く可憐な美少女であった。



「はうっ……!」



 エニアスの隣で、思わず息を飲むクリス。


 病の所為もあるのであろう。一瞬死んでいるのでは? と疑いたくなる程に、その肌は透き通る様に白く、少し乱れてはいるものの、柔らかそうな薄紅色の髪色と相まって、その佇まいは一流の美術品を見る様ですらある。


 もちろん死んでなどいない。その証拠に、多少はだけたネグリジェゼズの胸元では、少女のと言うにはあまりにも豊かなバストが、浅い息遣いとともに、上下しているのが見て取れた。


 その様子を『アホの子』の様に口を開けたまま見惚れていたクリス。ただ、その魅惑的な胸元に視線が及ぶと、急に我に返って天井の方を向いてしまう。



「ミランダさん、最後にお姉さんが口にしたものはここにあるかな?」



 エニアスは早速少女の首元に手を入れると、その弱々しい脈動を確認。更に、閉じられたままの瞼の端を摘まみながら、その色合いについても丁寧に調べている。



「えっ、えぇ、そのテーブルの上にあるケーキだと思います。お姉ちゃんが、私の分ですって、ヴァンナさんからもらって来てくれたの」



 テーブルの上に置かれている小さなケーキを指さすミランダ。


 エニアスは、そのテーブルに近づくと、まずケーキの匂いを嗅ぎはじめ、さらにはその一部を摘まんで自分の口の中へと入れてしまう。


 しかも、ケーキの切れ端を口にしたエニアスは、しばらく咀嚼した後で、躊躇なくそれを飲み込んでしまったのだ。



「エッ、エニアスさん、大丈夫?」



 思わず、そう声を漏らすミランダ。


 彼女自身は姉の洗礼日が決定した事や、突然の姉の体調不良に気が動転してしまい、未だそのケーキを口にしていない。と言うより、姉がこのケーキを食べてから体調を崩したと言う事で、本能的に『それを口にする』と言う事を、心のどこかで避けようとしていたのかもしれない。



「……えぇ、私は大丈夫です」



 そう事も無げに話すエニアス。



「どうやら、これは『クロンミュオン』が入れられていますね。意図的なのか、偶々たまたまなのかはわかりませんが……」



 そう言うと、手に持ったケーキの残りをまとめて口の中へと放り込むエニアス。



「『クロンミュオン』は、人族には無害ですが、獣人には猛毒となる植物です。それを食べた獣人は、体中の血液が壊れ、血の気が引き、呼吸が荒くなり、終いにはその命を落とすとの事。私も仕事柄、毒物の効果は色々と勉強しておりまして……」



 その話を横で聞いていたミランダは、瞳を大きく見開いたまま微動だにしない。


 エニアスの言っている事を、言葉として理解してはいるものの、彼女の心がその事実を拒絶しているのだろう。



「かっ若頭カシラっ! 解毒薬は? 解毒薬は無いんですか?」



 まだ固まっているミランダの代わりに、横から口を挟むクリス。


 しかし、エニアスの表情は硬い。



「クリス。残念だが、この猛毒に解毒薬は無い。後は本人の気力次第だ」



 そう、力なく話すエニアス。



「うぅぅぅ……チッ、畜生っ!」



 ――ガタンッ!



 思わず、ケーキの置いてあったテーブルを拳で殴りつけるクリス。


 その反動で、白い陶器の皿に盛りつけてあったケーキの一つが、床へと転がり落ちる。


 その様子を沈痛な面持ちで見つめていたルーカス少年。


 彼は、床に落ちたケーキをそっと拾い上げると、元の皿の上へと戻しながら、静かに話し始めた。



「……神殿に行けば……」



 そう呟く彼の力強い眼差しからは、まだ希望の灯は消えていない。



「神殿に行けば……そうすれば、きっと……、そうすれば、神官様が何とかしてくれる。きっと治してくれるよっ!」



 そう力強く言い切るルーカス。


 その隣で、つい今し方まで絶望の淵にいたミランダの瞳にも期待の光が宿る。



「いや、ルーカスさん。いくら神殿でも病気の類は……」



 そこまで言い掛けた所で言葉を飲み込むエニアス。



「……そうだな。まだ可能性はある。とにかく、ここを逃げ出しやしょう。このままここに居たって、明日の朝には奴隷妾にされちまうんだ」



 そう話すエニアスは一瞬の沈黙の後、脱出の為の段取りについて話し始めたのだ。

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