第78話 飼いならされた魔獣
「まぁなっ……頂いちまっといてよ……っとぉ」
「……よいしょっと、まぁ、なんだぁ……」
「……畜生ぉ、片腕
「ととっ……そんな俺が……言う事じゃあ……ねぇけどもよぉ」
「うんしょっと……はぁ、……やっぱ、なぁ……」
「生きてる
――ドサッ
その男は汚い言葉で罵りつつ、
そして、戸口の近くまで運んで来ると、もう一度麻袋の中へと押し込みはじめた。
取り出す時は、割と簡単に出来たのだが、一人で戻すのは一苦労だ。
「畜生ぉ、面倒くせぇなぁ……」
こんなに文句を言っている割には、何度か楽しんだこの男。既にお
なんだったら、このまま無かった事にして、そっと逃げてしまおうか? との思いが頭を過るが、お
酒でかなりヤラれたこの男の脳みそでも、その末路を想像する事ぐらいは出来る。
「まぁ……サボっちまって、すんません……って、正直に謝っとくかぁ」
お
正式なギルドメンバーになるのはかなり難しいが、メンバーじゃなくても時々こうやってスラムの人間に仕事を回してくれる。
スラムに住んでいる連中で、このギルドの世話になっていないヤツは、一人もいないだろう。
だから、こうやって急な仕事の折に声を掛けられれば、否応なく参加する者も多い。
「まぁ、俺ぁテスプロティアの方から流れて来たばっかりだから、大した世話にゃなってねぇけどもよぉ、それでも、お
決して(理由を)聞くな、(外で)話すな。 そして……決して裏切るな。
多少のサボりや怠慢ぐらいは大目に見てくれる。そう、最後の一線さえ守っていれば、その日払いの給金が貰えて、上手い酒が飲めるのだ。
「んんっ?……何ぁんか、臭ぇなぁ……もう、腐りはじめっ……」
――グシャ
残念ながら、それがこの男の最後の言葉となった。
何気なく振り払われた
男の首は、跳ね返る事すら無く、潰れ、砕け散り、そのまま壁のシミへと変化する。
首を失った男の体は、しばらくゆらゆらと揺れた後、首が飛ばされた向きとは反対の方向へと倒れこんだ。
「……ジャマ……ダ……」
ゆらり、と黒い影が動き出す。
首を失った男の向こう側には、大きめの麻袋が横たわっており、そこからは女性のものと思われる下半身が露出していた。
――スン、――スン
麻袋から漂ってくる血の臭いで、それが目的のものである事を知覚する黒い影。
器用に前足で麻袋を押さえつけながら、その肉の塊を引きずり出すと、もう一度その匂いを嗅ぐ。
『狩った後、数時間は経過しているな、これは。もう、固くなり始めている……。人のメスは上半身の脂肪と、下半身が美味いのだが……まぁ仕方あるまい。んん? 腕が一本欠損しているなぁ。かなり血も流れてしまった様だな……』
肩口のあたりを噛みちぎってはみたものの、思いのほかマズい。死後硬直が進んでいる様だ。
――ビッツ
群れにいた頃の彼は、その集団を統率するリーダーであった。
狩った獲物の肉を最初に口にするのは、いつも彼だ。
その肉は温かい血潮があふれ、新鮮で、芳醇な香りを発している事が常であった。
もちろん、自身が群れを率いる前、単独で森の中を彷徨っていた頃、生きる為に、死肉を食べた経験が無い訳では無い。
しかし、それはまだ若く、無力な自分を思い出す、悲しい過去のトラウマでしか無かった。
彼は思い直した様に、肉片となり下がった女性の乳房のみを噛みちぎると、ゆっくりと味わう様に頬張ってみる。
『うむっ、ここはまだ食えるな……ただ、既に血が失われ過ぎていて、パサパサとした感じが残念ではあるが……』
彼は特に腹を空かせていた訳ではない。ただ、過去に食した事のある、柔らかく、芳醇な香りのする人間のメスの肉を味わいたい。ただそれだけの気持ちであった。
死後硬直は上半身から順番に進んで行く。
彼は次に、肉片の下腹部から、足に掛けての臭いを嗅いでみる。
「……ヴォグゥゥ……」
先ほど、彼の行動の邪魔をした男と同じ、生ぐさい臭いが漂って来る。
『
彼なりに思う所があったのであろう。彼は肉片の下腹部には手を付けず、そのまま放置する事にした。
『……さて、帰るか』
本来の目的を失った彼は、特に気は乗らないものの、元の自分の寝床へと帰る事を決断する。
彼は獲物から目を離すと、何気に目前の光の差し込む戸口へと目を向けた。
「……ひぃっつ!」
一匹の
どうやら、先ほどから戸口の壁に隠れる様にして、こちらを覗き見ていたらしい。
男は血相を変えて、館の奥へと駆け戻って行った。
「……グルルル……」
本来の彼であれば、これほど近くに人間がいれば、必ず気付いて然るべき所なのだが、あまりにも獲物の血の臭いが充満しすぎていた為なのか、それとも一年にも及ぶ
『帰ろう……』
考えても仕方の無い事……と割り切った彼は、視線を庭園の方へと向ける。
『そう言えば、先ほど俺に偉そうに命令を下した男がいたな……確か、屋敷の中の不審者を探せ……と言っていたか?』
「……ナニオ……ヴァカナ……コトヲ……」
彼にしてみれば、誰が不審者で、誰が不審者で無いか……など、判断の付けようも無い。
『
彼は、今食べた分ぐらいの対価として、ほんの気まぐれだが、先ほどの男の願いを聞いてやる事にした。
そして、寝床へと戻るには、少し遠回りにはなるのだが、庭園の方へと足を向ける。
何しろ、庭園の方からは、何人かの
『この
「……グルルル……」
月明かりに照らされた彼の口元からは、白く輝く牙が露わになっていた。
もし、明るい場所でその光景に出くわしたのであれば、頭頂部までを含めると五メートルにも及ぶ魔獣が、不気味に微笑んでいる光景を目の当たりにした事だろう。
◆◇◆◇◆◇
「これは……」
魔獣が飼われていた建屋は、奴隷妾専用館から見て、庭園奥の森の中に建てられていた。
事前に状況を確認をする為、近くにある北門守衛詰め所の方へも顔を出してみたのだが、詰め所の方はもぬけのカラ……。
後で、今日の当番である十人隊長に、嫌みの一つも言ってやらねば、と思っていた所だ。
「……うぅっ!」
自身の後方から付いて来ていた二人の従者が、その光景を見て思わず口を押えている。
「おい、入り口横にある鍵を調べて来いっ」
一人の従者を入り口近くの控室の方へと走らせるとともに、横たわる死体にそっと手を添えてみる。
「……まだ、温かいな。先ほどの遠吠えの前後ぐらいか……」
切断された胴体の方を調べてみると、鋭い刃物により切断されたというよりは、何か大きな力によって捩じり切られた様な感じだ。
「外部の仕業……ではなく、魔獣本体の方か……」
思案顔のサロス。
「サロス様、控室の方からは鍵が無くなっておりました」
先ほど確認に行かせた従者が、急ぎ駆け戻って来て復命する。
「……ふむ、ありがとう」
上半身と下半身に分断された状態で横たわる死体。
サロスはその右腕部分を軽く持ち上げてみる。
「この兵士の右手に握られているのが、恐らくその魔獣の檻の鍵なんだろうな」
始めは外部からの集団襲撃を危惧し、タロスにも様子を見に行かせていたのだが、この件については関係が無いものと判断。
ただ、魔獣が入っていたはずの檻の鉄格子は、開かれたままであり、危険な魔獣が、確実にマロネイア家の敷地内に、放たれた状態である事は明白だ。
「おいっ、お前は急ぎ、魔導士どもを奴隷妾専用館の方へと集めさせろっ!」
「はっ!」
従者の一人が返事もそこそこに、門の外へと走り出して行く。
「そして、お前っ! 緊急伝達! 軍宿舎へ向かい、アエティオス将軍へ連絡っ! 魔獣が逃げた。急ぎ大隊規模で部隊を掌握、本館、及び奴隷妾専用館の防護を固めろっ! 復唱っ!」
「復唱しますっ! 緊急伝達! 私は軍宿舎へ急行っ、サロス様よりアエティオス将軍へ連絡っ! 魔獣が逃げた。急ぎ大隊規模で部隊を掌握、本館、及び奴隷妾専用館の防護を固めよっ。以上っ!」
「よしっ! 行けっ! 私は奴隷妾専用館のアゲロス様の元へと向かう!」
もう一人の従者も駆け足で戸口へと向かうが、緊急伝達を指示された兵士は、訓練通り武器その他、伝達走行の妨げとなる装備を一切合切その場に置き去りにして、一心不乱に掛け去って行く。
「……アゲロス様」
全幅の信頼を寄せる主の無事を祈り、サロス本人も急ぎ館の方へと駆け戻って行った。
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