第八章 ファランクス(ルーカス/ミランダルート)

第77話 応急措置

「スンスン……」



 そのは風に乗って運ばれて来る、少年の匂いを嗅ぐ。



 ――間違い無い。



 匂いの主からは、自身の知らない香りに加えて、血の匂いが感じられた。



 ――手負いだ。



 は音も無く少年の背後に忍び寄ると、少年の行為を覗き見る。


 本来は縦長の瞳孔を、その一部始終を観察すべく、丸くいっぱいに広げて。



「はぁ、はぁ……」



 その少年の息は荒い。


 小さな布で無理やり縛り上げられた少年の右足からは、大量の血液が流れだしている様が見て取れた。



 ――この様子では、逃げる事も、戦う事もできないだろう。



 は、少年の状況を哀れに思う。


 少年をこのまま連れ去るか、それとも、この場でひと思いに……。


 そのの思考は揺れ、考えがまとまらない。



「はぁ、はぁ、はぁっ……」



 いよいよ、少年の息が荒くなって来た。


 は、意を決し、この場で話しかける事にした。



「……」



「……ねぇ、男の子って、いつもそんな風になってるの?」



「……はひぃ!?」



 少年は、背後から掛けられた突然の声に、勢いよくいた手をピタリと止める。



「もぅっ! 怪我をしてても、になっちゃうの?」



 その声は、少し咎める様でもあり、あきれる様でもあり。



「いえっ! ……普段はこんな感じじゃないですっ!」



 少年は思わず敬語で返答してしまう。


 と、突然我に返った少年は、全力で己の背後へと振り返った。



「はぁっ! ミランダッ! ……どうしてここに?」



 振り返りざまに、恋焦がれていた少女の美しい顔が、突然彼の目に飛び込んで来る。


 少女は子供が寝る時に着る様な、シンプルな白のチュニックを着て、微笑みながら彼の事を見つめていたのだ。



「ふふっ! どうしてここに? じゃないわよぉ。それは私のセリフっ!」


「でも、まぁ、そうだから大丈夫かなぁ?」



 少女は、両手を背中の方で組みながら、肩越しに、彼の股間の方を覗き込んでいる。



「はうはうはうっ!」



 少年は、両手で自分の大事な所を急いで隠そうとするのだが、勢いの付いた状態の一物を上手く隠せず、わたわたの状態に。



「……あぁ、結構やられちゃったねぇ。誰にやられたの? ……ちょっと見せてみて」



 そんな彼の内心を知ってか知らずか、少女は彼の右足の方へ視線を向けると、そっと、巻かれている布に触れて来る。



「あららぁ、このままだと化膿しちゃうかも」


「ちょっと待って……」



 少女は、片膝立ちになっていた少年の前に回り込むと、少年の右足を自分の太ももの上に乗せる様にして、ゆっくりと縛られた布を外して行く。


 暫く傷口の状態を眺めていた少女。


 その後、なんと彼女は突然その傷口へと己が舌を這わせ始めたのだ。



 ――ペロッ……ペロッ……。



「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」



 少女は彼の傷口を丁寧に舐めながら、上目遣いで少年に確認して来る。



 ――ペロッ……ペロッ……。



「……はあぅっ!」



 既に痛点が馬鹿になっているのか、ちょっとした痛みは感じるものの、声を上げる様な痛みではもちろん無い。


 そんな事より、自分の想い人が、自身の足を抱えながら舌を這わせてくれているというシチュエーションが信じられず、思わず声を出してしまうルーカス。



「もぉっ! 男の子なんだから、我慢なさいっ!」



 もちろん、そんな少年の気持ちなど分かるはずもなく、少女は切創の患部や、その周りを綺麗に舐め上げた後、自身のチュニックに使われていた幅広の腰布を使って、そっと少年の患部へ包帯の様に巻き付けてくれた。



「これで良しっと。でも、かなり深い傷になってるから、お医者様か、神官様の所で治療した方が良いと思うわよ」



 少女は自身の応急措置に満足したのか、嬉しそうに少年へと説明してくれる。



「……あっ、ありがとう」



 少年は、少女への感謝の気持ちと、そして夢の様なひとときが終わりを告げた事による残念な気持ちをないまぜにして、何とか感謝の言葉を絞り出したのだ。



「……うんっ」



 少女の方も、そんな少年の気持ちを察したのか、少し恥ずかしそうに頷いてみる。



「でも、どうしてここに?」



 少女は思い直した様に、少年に尋ねる。



「えっ? ……どうしてって、もちろん君を助けに来たんだよ」



 少年の方も『何をいまさら』と言った表情だ。



「えぇぇっ。でも助けに来た方が怪我してて、私に助けられてる様じゃ、全然ダメよねぇ」



「……うっ。うん、ごめん」



 少女のもっともな突っ込みに、何の返答も出来ず、思わず口ごもるルーカス少年。



「ふふっ、うそうそ。……嬉しいよ。本当に私、待ってたんだ……」



 少女はそんな少年の困った表情を嬉しそうに眺めた後に、そっと彼から視線を逸らした。



「お姉ちゃんやヴァンナさんは、信じて無かったみたいだけど、私は絶対来るって信じてたんだよ」



 少女はもう一度少年の顔へと視線を戻すと、しっかり彼の両目を見据えて、素直な自分の想いを語って聞かせる。



「もっ、もちろんだよ。男に二言は無いからね。ミランダの為だったら、どこにだって助けに行くからね。本当だよ。本当だからねっ」



 少年は、そんな少女の無垢な瞳に晒されて、タジタジの状態だ。しかも最後に付けなくても良い様な言葉を、二回も付ける始末。



「……うん。ありがとっ」



 そんな少年のピュアな気持ちが伝わって来て、少女は素直な感謝の言葉とともに、小さく頷きを返す。



 二人の間に、妙に甘酸っぱい時が流れて行く……。



「……そっ、それじゃぁ」



 ついに、そんなこっずかしい雰囲気に耐えられなくなった少年は、おもむろに少女の手を取ると、気分を変える様に、明るい声で話し始めた。



「ちょうど、見回りの兵士達もどこかに行っちゃったみたいだから、今から一緒に逃げよう! 大丈夫。裏口まではそんなに遠く無いし、このまま僕の孤児院まで逃げ込めば、絶対にバレやしないさっ」



「うっうん……」



 少年のカラ元気とは対照的に、少女の方からは、少し気分が乗らない様な返事が返って来た。



「……どうしたの? 一緒に逃げるの……嫌?」



 急に不安になった少年は、少女の手を握ったまま、俯く彼女の顔を覗き込んでみる。



「ううん、全然嫌じゃないよ。でも……私が逃げる時は、お姉ちゃんとヴァンナさんも一緒に連れて行ってあげたいの」


「それに、ヴァンナさん、今アゲロスって偉い人のお部屋に連れて行かれて、酷い目に合ってるの」



 少女は更に悲しそうに目を伏せる。



「ええっ、酷い目にっ!」



 少女の突然の話に、驚きの色を隠せない少年。



「ヴァンナさんは、私達が売られた時から、とっても優しくしてくれてたの。だから、逃げる時は一緒に連れて行ってあげたいの」



「そっ……そうなんだぁ」



 少女のこれまで経験して来たであろう、過酷な状況に思いを馳せ、何とかこの少女の希望を叶えてやりたいと考える少年。


 彼の頭脳は、今真っ先に何をすべきかを必死で考え、作戦を組み立てる。



「うん、わかった。……それじゃぁ、まず、お姉ちゃんは呼んで来れる?」


「うんっ、お姉ちゃんは、あの館の二階のお部屋にいるから、呼んで来れるっ」



 少女は急に頼もしくなった少年に期待して、明るく返事を返す。



「よしっ……次は、ヴァンナさん! ヴァンナさんは、どこの部屋にいるか分かる?」


「うん、わかるよ。ほら、今、目の前の部屋で、偉い人に酷い目に合わされて、苦しそうな声を上げてるでしょ。あれがヴァンナさんなのっ」



 少女は館の中庭の方を指さして、少年にその場所を告げた。



「……」


「あぁ……。アレねぇ……」



 ミランダとの劇的な再会に気を取られ、すっかり周りの事に気が回らなくなっていたルーカス少年。


 しかし、今だその妖しい音色は、中庭を経由して、庭園の二人の所まで、十分に、いや存分に響き渡っている。



「ねぇ、ルーカスっ、どうしたら良い? どうしたら良いと思う?」



 少女は純真無垢な眼差しで、少年に問い掛ける。



「うぅぅん、どうしたら良いかなぁ……」


「……たぶん、しばらく様子を見れば、と思うけどぉ……」



 少年は、少女の直視に耐えられず、目をキョドキョドさせながら、曖昧な返事を返してみる。



「えぇぇっ、でもヴァンナさん、あんなに苦しそうな声を出してるんだよぉ。きっと、きっと、いっぱい、いっぱい辛い目に合ってるんだよぉ。早く助けないといけないんじゃ無いかなぁ?」



 少女の瞳は懇願から哀願の様相を呈していて、とても目を合わせていられない。



「……うぅぅんとぉ。多分、って言うか、僕も経験した事が無いから、分からないんだけどぉ、たぶん、そんなに辛くは無いと思うんだよねぇ……」



 自身の『なけなし』の知識から判断しても、恐らくそんなに大変な事にはなっていない様に思えるルーカス少年。



「あの叫び声は……痛いって言うかぁ、気持ちいいって言うかぁ、何と言うかぁ……。とてもミランダちゃんには説明できないなぁ……」



「えぇぇっ! ……せっかくここまで来てくれたルーカスには悪いんだけど、ルーカスって結構、冷たいのねっ」



 ルーカス少年の煮え切らない態度に、ちょっとへそを曲げ始めた少女。


 くるっと少年に背を向けると、ツンと彼方の方を向いてしまう。



「えぇぇっ、いや、そんなんじゃ無くって、うーんと、何って言うか、そのぉ、苦しそうなのは、苦しそうなんだけど、ちょっと大丈夫な苦しさって言うか、そのぉ、もちろん、ミランダがあんな目に合ってたら、真っ先に駆けつけて、アゲロス野郎の脳天をカチ割ってやるんだけど、そうそう、ミランダちゃんだったら別なのさ! それに、今出て行ったら、他の館の人にも見つかって、この後逃げるのが難しくなるだろう? ねっ。大丈夫、きっともうすぐ終わるよ。だって、もう二回戦目だからね」



 必死で説得するルーカス少年。そんな少年の様子を視線の端で捉えていた少女は、仕方なくもう一度少年の方へと向き直る。



「んん……ルーカスがそこまで言うなら……。でも、早くヴァンナさんを助けてあげてね。それに二回戦? だと、早く終わるって本当なの?」



 もう一度、美少女からの純真無垢な視線攻撃を食らうルーカス。



「うっ! ……うん、僕も経験が無いから分かんないだけど、たぶん、そうだと思う」



「もぉっ! 結局知らないんじゃないっ!」



 やっぱり少女はご機嫌斜めに。



「……たはははは」



 そんなミランダの行動に手を焼いていると、中庭の方からひと際高い、叫び声が聞こえて来た。



「……ほら、終わったみたいだよ」



 急に静かになった庭園。



「本当だぁ。ルーカスって、何でも知ってるんだねぇ。でも、あんなに大きな声で叫ぶなんて、ヴァンナさん、大丈夫なのかな?」



 ミランダは本当にヴァンナさんを心配している様だ。



「……うん、本当に大丈夫かなぁ。足腰立たないかもしれないよねぇ……」



「あぁ、可哀そうなヴァンナさん……」



 少年と少女、微妙に心配している箇所が異なる二人ではあるけれど、まずはヴァンナさんが無事でいてくれる事を願うと言う意味では、その想いは一致していた。

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