第79話 ファランクス
「だからぁ! お前がもたもたしてるから、悪いんだろッ?」
「いや、そんな事言ったって、館の方が、魔獣の小屋に近いんだぜぇ、もし館の方に戻って、鉢合わせしたらどうすんだよぉ」
「やっぱりここは、一旦城壁の方まで戻ってから、北門経由で詰め所に行った方が良いってぇ」
「今さら何言ってんだよっ。さっき、森の中で魔獣に出くわしたら一巻の終わりだぁ……とかって騒いでたの、お前じゃねぇか」
お互いに小突き合いながらも、口悪く冗談を言い合えるだけの余裕がある兵士たち。
しばらく、城壁の方へ行くか、妾館の方へ進むのか、分かれ道の前でひと悶着。
結局は『もともと、不審者が妾館の方へ向かったとの話なのだから、館の方へ逃げ込んだ方が無難だろう』との話に落ち着いて、庭園外周の遊歩道を妾館の方へと進む事に。
月が出ているとは言え、庭園外周の遊歩道では、所々鬱蒼とした木々に月明かりが遮られ、そこだけ深い闇が静かに横たわっていた。
「……グルルル……」
そんな闇の一部から、『
「……おいっ、何か聞こえねぇか?」
先頭で松明を掲げる兵士が、怪訝な表情で後ろを振り向いた。
松明を持っているが故、その光の届かない範囲は、余計に深い闇に覆われていて、その奥を見通す事ができないのだろう。
一団は、そっとその歩みを止めると、松明を脇へと追いやりながら、もう一度前方を確かめる。
「……グルルル……」
いる……。
月明かりの届かない、大木の影。
暗闇の中に琥珀色に輝く二つの瞳が妖しく浮かんでいた。
「松明、掲げっ! ファランクスッ!」
「「「ファランクスッ!」」」
一団の中の
エレトリア歩兵団の
通常は重装歩兵が横一列に並び、それぞれが自分の持つ盾により隣の兵士の半身を守ると言う、鉄壁の構え。
さらに、盾襖の間からは、磨き上げられた槍がハリネズミのごとく前へと突き出される。
南方大陸の一部や、東方の諸国からは、時折騎馬による機動戦を仕掛けて来る民族もいるにはいるのだが、その全てが、このファランクスの餌食となっている。
ただ、残念な事に、今の彼らの装備は、守衛警護専用の軽装であり、盾も通常の半分、槍も短槍しか持ち合わせていない。
それでも、訓練によって叩き込まれた動きに隙は無く、瞬く間に六名だけによるファランクスが構築された。
「……」
兵士達の急な構えにも動ずる事無く、闇夜に浮かぶ二つの瞳は静かに佇んでいる。
「……動くなっ! ここで迎え撃つっ!」
一団のリーダと思われる男がもう一度、全員に指示を出した。
このまま、長い睨み合いが続くのかとも思われたが、先に動いたのは暗闇に紛れていた
……タッ、……タッ、……タッツ
始めはゆっくりと、軽やかに。但し、驚くほど静かに歩みを進める獣。
……タッタッタッタッ……タタタッツ、タタタッツ、
その歩みは、次第にスピードを増し、その暴力的な巨体を誇示しながら、一団の方へと殺到してくる。
「はぁうっくっ……でかいっ……!!」
その迫りくる巨体を目撃した兵士から、弱音とも取れるつ
――マズいっ、崩れるっ!
咄嗟にそう判断したリーダ。
目は獣を捉えつつも、一団の士気を鼓舞する。
「怯むなぁぁぁ! このまま受けるっ! エレトリア魂見せてみろぉぉぉ!」
そう叫ぶと、次に訪れるであろう衝撃に備え、自ら後ろに伸ばした右足を、地面にめり込まんばかりに、強く踏ん張り抜く。
――ダッ!
「おぉぉ……飛んだっ!」
衝撃に備えていた兵士達を嘲笑うかの様に、ファランクスの槍の手前で大きく飛び上がった野獣は、そのまま一団を軽々と飛び越えて、その後ろへと着地した。
その信じられない跳躍を口を開けたまま見送ったリーダ。
しかし、彼も百戦錬磨の
獣が後方に着地する前に、一団へと新な指示を出す。
「クソッ! 構えぇぇ……後ろぉぉッ!」
……ザッツ……ザッ、ザッ、ザッツ!
兵士達は、躊躇無くリーダの指示に従い、前方に構えていた盾を一様に高々と上へ上げると、一呼吸、三拍のリズムに合わせて、整然と後方に向かってファランクスを組み直す。
「ヤツはファランクスに突っ込んで来ないぞッ! このまま館の方まで体制維持っ! 順次後退するッ!」
再びのリーダからの指示により、ファランクスを維持したまま、兵士達はジワジワと後退を始めた。
しかし、無駄に広い庭園。館までには、まだかなりの距離がある。
『うぅむ。訓練された兵士か。……あの程度の対価で傷を負うのもどうか』
兵士達の様子を、琥珀色に輝く瞳で見据えていた獣は、意外に隙の無い兵士達に感嘆していた。
彼は、傷を負う事自体を恐れている訳では無い。群れを守る為に体を張るのは、群れのリーダとして当然の事だ。しかし、特に
『しかし、この戦い方は既に知っている……』
獣は心の中でそう呟くと、もう一度スピードを上げて兵士達へと向かって行く。
「グァルルルルッ!」
――ダァッ!
兵士達の一団に殺到する獣。しかし、またもや鉄壁のファランクスに到達する前に、今度は己が左手へと方向を変えた。
「クッ! 右翼へ回り込むぞぉ! 構えぇぇ……クッ! ダメだ、追いつかん!」
通常は、対人、対馬を想定した構えのファランクス。とても獣のスピードに追随する事ができない。
「あぁっ!」
「グゥアッ! ガッガァッ!」
「ぐあぁぁッ!」
通常、ファランクスでは己が半身を左隣の盾に隠す構えを取る。
その為、自らの半身を敵に晒してしまう事になる、最も危険で、かつ重要な隊列の一番右端には、隊の中で最も頑強で、かつ老練な兵士が配置される。
しかし、構えを前後逆転させてしまったが為に、最も危険である右翼を、最弱の兵士が守る事態となってしまった。
獣はその隙を見逃さない。
「はぁぁっ! バルテがヤられたっ! 駄目だっ! にっ逃げる? どうするっ!」
右翼から二番目、たった今、獣に食われた兵士の左隣に居た兵士が、半狂乱で叫ぶ。
「馬鹿野郎ぉっ! 今逃げても追いつかれるっ このままファランクスで耐えるっ! きっと応援が来るっ! それまで耐えろぉ!」
戦いの最中、冷静さを失って、潰走する兵ほど弱いものは無い。
その光景を目撃した自分自身、心の中で何かが折れる音がしたにも関わらず、逆にそのあまりの恐怖が、彼の冷静さを支えてくれた。
――バキバキッ……バキッ……
獣は一団から少し離れた所で、その口に加えた兵士をも一度咥え直すと、兵士の甲冑など全く意に介す事なく、その兵士の胴を噛みちぎった。
――ドカッ……グシャッ……
上半身と下半身を切断された兵士は、獣の口のあたり、およそ五メートルの高さから地面へと落下する。
獣は、落ちて肉片となった兵士の臭いを数回嗅いでみるが、特に手を付ける様子は無い。
「あいつ……食う気じゃねぇんだ。……遊んでやがる……」
リーダは、そう呟くと、獣を睨みつけたまま、全員へと指示を下す。
「もう一度、ファランクス!」
「トビー、笛を吹けっ! 早くっ!」
先ほど、自分の隣の兵士が魔獣に食われ、パニックに陥りそうになった男。現時点では、この一団の最弱の兵士である。
「……はっ、はいっ!」
男は震える指で、首から下げた小さな笛を口に咥えると、思い切り息を吹き込んだ。
「ピィィィーーーー、ピィィィーーーー」
月明かりに照らされ、彼ら以外に動くもの一つ無い庭園。その静寂を破る様に、けたたましい笛の音が響き渡って行った。
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