第50話 ママン

「ぷはぁっ、やっぱり貴賓席で出る酒はうめぇなぁ!」



 洒落た陶器のグラスに注がれたそのワインは、トロピカルフルーツを思わせる芳醇な香りと、濃密なルビー色が特徴の、エレトリアを代表する最上級の一品だ。


 デメトリオスは惜しげもなく、その貴重なワインを飲み干すと、自分の顎にしたたる雫を左腕で大きく拭う。


 下品この上無い、旧友デメトリオスの所業を見たヨティスは、まるで苦虫でも噛み潰した様な表情だ。



「おいおい、デメトリオス。ここは貴賓席なんだからさぁ。頼むからもう少しお上品にやってくれよぉ、ほんと頼むよぉ……」



 最初は強い口調で始めた苦言も、後半に行くに従って、不本意ながらも懇願する口ぶりになってしまう。それは、その男の行動が、本当にヨティスを困らせている事を如実に物語っていた。



「んだよぉ。会頭ともあろう男がワインの一杯や二杯で、ケチケチすんじゃねぇよ」


「あぁ、姉ぇちゃん。お代わりもう一杯!」



 デメトリオスは、先ほどの女性をもう一度呼び寄せると、自分が飲み干して、空になったグラスを彼女のトレイの上に置いた。



「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」



 その娘は優雅な身のこなしで一礼すると、トレイを胸の高さに掲げながらカウンターの方へと帰ろうとする。……その時。



「キャッ! もぅ、お客様っ!」



 女性は片方の手で自分のお尻を隠しながら、鋭い目つきでデメトリオスの顔を睨みつける。



「おおぉ、なかなか良いもん持ってるじゃねぇかぁ。まぁまぁ、そう睨むなよぉ。ちょっと触ったからって減るもんじゃねぇし。逆に感度が良くなるかもしんねぇぞぉ。だあっはっはっは」



 デメトリオスは、そんな娘の非難に満ちた視線など、どこ吹く風。逆にその女性に投げキッスをしている始末だ。


 常日頃エレトリアの港で親方と呼ばれ、三百人近い港湾労働者を束ねるその男は、海の男としての豪快さの為か、それとも、元々の性格なのかは分からないが、残念ながら『上品』と言う言葉とは、全く無縁の男であった。



「はぁぁぁ、こんなやつ、貴賓席に入れるんじゃ無かったよぉ」



 ヨティスはその様子を後ろの席で見ながら、頭を抱えてしまう。



「親方ぁ。ヨティスさん本当に困ってるから、もうちょっと落ち着いたらどうなんだよ。親方もいい歳なんだからさぁ」



 見るに見かねたルーカスが、親方のその行動を窘めると、歳の事を言われた親方の方も、少し拗ねた表情で、黙り込んでしまう。



「……そう言えばさぁ親方。さっき言ってた『あんまり期待しない方が良い』ってどういう事?」



 不貞腐ふてくされた表情の親方は、顎に生えた無精ひげを右手で摘みながら、少年からの素朴な質問に答え始めた。



「それはなぁ。ここん所、一位と二位のキャストが変わって無いって事が原因さぁ。二ケ月ぐらい前から、ずーっと一位はママンで、二位がミラージュ。不動の二人が押さえちまってて代わり映えしねぇ……」



 親方は自分の顎の無精ひげをむしり取ると、息を吹き掛けてどこかへ飛ばしてしまう。



「デルフィの売れっ子ナンバーワンキャストは、実質さっきの第三位のキャストって事になるんだよなぁ」



 親方は面白く無さそうに話を続ける。



「ママンの一位はもう、半年ぐらいになるんじゃねぇかなぁ。元々ママンは一流店のフェガロフォトに所属してたんだけどよぉ、その頃はあんまりパッとしなかったらしいなぁ。ただ、半年前にライバル店のナルキソスに移籍してから急に太客のパトロンが付いたらしくってよぉ。そっから怒涛の十九連勝だぁ」



 親方は未だ険しい表情の娘からワインを受け取ると、ゆっくりと喉へと流し込む。



「ミラージュの方はもっとタチがわりぃ。あいつは二ケ月ぐらい前の新顔紹介で初登場したんだがよぉ、それは、それは綺麗な娘でなぁ。あぁ、こいつはヤベェって思ったもんよぉ」



 親方は当時の事を思い出しながら、自分の目の前に当の本人がいるかの様に、彼女のボディラインを指でなぞる。



「案の定、次の大会じゃ、いきなり第二位にランクインだぁ。今思い出しても鳥肌が立って来るねぇ」



 親方はグラスに残ったワインで少しだけ唇を湿らせる。



「ただ、そっからがイケねぇや。なんでもパトロン側の意向だかなんだか知らねぇが、毎回ランクインするんだけど、決して表舞台に出て来なくなっちまった。まぁ、大方その太客が自分の女を衆目に晒したくねぇってんだろうけどなぁ」



 親方は残りのワインを口の中に全部放り込んでしまう。



「って事で、第二位がミラージュで不参加。そして優勝がママンで決まりだぁ。ほら見てみろ」



 親方が貴賓席の後ろの方に広がる一般席の方を指さした。


 確かにかなり後方の、比較的安価な席の観客の一部は、既に帰り支度を始めている様だ。



「まぁ、酒は旨いし、ママンの踊りは一見の価値があるから、もうしばらくここにいても良いんだが、一般客は早めに出ないと、出口が混むし、なにより「新顔紹介」の娘を予約するなら早ぇ方が良いからなぁ」



 親方は今度は直接メイドの娘を呼ぶ事無く、空になったグラスを高々と持ち上げて振って見せる。


 そして、娘の方も仕事と割り切っているのであろう、文句も言わず新しく、なみなみとワインの注がれたグラスを持って来ると、親方の方には決して後ろを見せずに、そのままの姿勢で後ずさりながら帰って行く。



「へぇ。そういう事かぁ」



 ルーカス少年は自分のワイングラスを両手で持つと、その表面を舐める様にちびちびと飲み始めた。



「でも、半年も一位になるってぐらいなんだから、よっぽどキレイなんだろう? そのママンって言う人」



 ルーカスは明るい舞台の方を見やりながら、親方に尋ねてみる。



「まぁなぁ、なぁ……」



 親方の話す言葉の後半が、突然の司会者の大声でかき消された。



「……レディース、アーンド、ジェントルマン……」


「いやぁー素晴らしいパフォーマンスでした!」


「ア・リーロさんの若く、躍動感のある踊りは皆さんの心を掴んで離さない事でしょう! ご予約はデルフィ西地区にございます、クラブ リリオンまでお問合せくださいませ! 来旬には手の届かない華になっている可能性がありますよ。ご予約は今すぐ!」



 司会者は観客を上手く煽りながら、新しい予約を確保しようとする。



「それでは、今旬のクィーン オブ デルフィを決定するこの大会も、残すところ後二人」


「ついに第二位の発表です!」



 再び会場にはドラムロールの音が流れる。



「ダダダン! 第二位は!……」



 なぜか、いつもよりも長めの間を取る司会者。



「な、な、な、なんとぉ! ここに来ての大番狂わせぇ! ママンの愛称でおなじみのぉ……ナルキソス所属ぅぅぅぅぅ、アナトリアさん、三十一歳です!」



「「「……えぇぇぇぇぇ! うおぉぉぉぉ!」」」



 会場からは歓声とも、どよめきとも受け取れる、驚きの声が沸き起こる。



「マジかぁ!」



「なにぃぃぃぃ!!」



 ここ貴賓席では、ルーカスの左側で親方が叫び声を上げて立ち上がり、逆にルーカスの右側では、隣の桟敷席に座る、宝石がちりばめられた金のマスクを被った小太りの少年が驚きの声とともに立ち上がった。



「おい、ヨティス! お前知ってたんだろう? どうして言わなかった!」



 親方は今にも掴みかからんとした雰囲気で、ヨティスに詰め寄る。



「おいおい、俺も知らねぇよ。大会はウチで仕切ってはいるが、舞台演出やランキングを含めて全てトップシークレットなんだよ。だいたい俺、今日来る気も無かったしぃ」



 ヨティスは親方に向かって焦りながらも両方の手の平を見せながら、少し落ち着く様に促している。


 そんなヨティスの横合いから、先ほどの金のマスクを被った小太り少年が新たに詰め寄って来た。



「かかか、会頭! これは一体どういう事だ! 私の、私のママンが二位とはどういう事なんだ!」



 こちらの少年もヨティスに掴みかからんとしている。



「だっ旦那様、落ち着いて下さい。これは厳正な審査の元で行っているランキングでございます。一切不正等はございません。それに! ほほほ、ほら、ほら、そろそろママンが登場されますよ!」



 ヨティスは少年の方に向けても落ち着く様に促しながらも、ステージの方へと気を逸らそうと必死だ。


 ステージ上では司会者が今回の番狂わせを煽る様に、大声で捲し立てている。



「ママンの今旬のお勤めは三回! 残念ながら長期予約が入っておりますので、一般の皆様のご予約はお受けできませんが、本大会ではその美貌を余すところ無くご紹介させていただきます!」


「それではママンこと、アナトリアさん、張り切ってどうぞぉ!」



 ステージ上ではゆったりとした曲調の伴奏がスタートした。



 その曲は早春の草原に吹き渡る爽やかな風の様な調べで、大番狂わせに沸き立つ会場全体を涼やかに包み込んで行く。


 そして、舞台上に流れる優雅な曲に、ゆったりと後押しされるかの様に、舞台袖から一人の女性が進み出て来た。



「ほぉぉぉぉぉ……」



 会場からは一瞬感嘆の声が巻き起こるが、彼女のその流れる様な所作を見る事で、観客全てが彼女の踊りが醸し出す美しい世界観に飲み込まれ、ピタリと静かになってしまうのだ。



 彼女は薄いブルーに染められたナチュラルボブの髪を揺らし、髪の色に合わせたブルーのトガを羽織りながらステージの中央で舞い踊り続ける。


 それはあたかも森の妖精が、突然ステージ上に降臨したかの様な爽やかな印象を与えている。


 彼女の面持ちは十代でも通用する様な童顔であり、少々たれぎみの細い目は遠くから見ると、開いているのか閉じているのか分からない部分はあるものの、いつも微笑んでいる様にも見えてとてもチャーミングだ。


 あえて、あえて難を言うのであれば、妖精と言うには少々ぽっちゃりさんであると言う所だろうか。


 しかも彼女は最後まで衣装を脱ぐ事は無かった。もちろん薄手のトガ越しに彼女のふくよかな肢体を垣間見る事はできるのだが。


 もちろん、それらの難点を全く感じさせず、十分納得できるだけの『踊り』としてのパフォーマンスを見せてくれた。



「……あぁ、なんてキレイなんだ……」



 ルーカス少年は思わずつぶやいてしまう。


 すると、いつのまにか隣の桟敷席に戻っていた、ぽっちゃり少年がルーカスの方を見ながら微笑んでいた。



「君、キミも彼女がキレイだと思うかい?」



 そのぽっちゃり少年は、嬉しそうにルーカスに話しかけて来たのだ。

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