第60話 蠢動

「……なんだ、朝帰りか?」



 いきなり話しかけて来たその男は、黒地に金の装飾を施した鎧に身を包み、己が身長の二倍以上はあろうかと言う大槍を抱えていた。



「って言っても、もう昼だがのぉ」



 男の肌は褐色に輝き、鎧に収まりきらない隆々とした筋肉には、幾多の刀傷が見てとれる。


 もし背後からその男を見かけたのであれば、数々の戦場を渡り歩いて来た壮年の戦士であると思う事だろう。


 しかし正面から見るその男の顔には、歴史を感じさせる深い皺が刻み込まれており、その皺一つひとつを取って見ても、間違い無くこの男が、かなりの老齢であると言う事を物語っていた。



「ヴァシリオスではないか。様はご健在か?」



 話しかけられた男は、四人の奴隷に担がれた輿の中、強い日差しを遮る為に掛けられた薄いレースの御簾の奥から物憂げに返答する。



 ここは、エレトリアの街の中でも、南西に位置するダウンタウンの一角。


 ダウンタウンとは言え、大通りに近いこの近辺には、大勢の通行人が行き交いしていた。


 その雑踏の中を、通行人を押しのけながら、奴隷に担がせた輿にのり、悠々と練り歩くこの集団は、よほどの地位と潤沢な資金を持つ者なのだ……と言う事を、これ見よがしに喧伝している様でもあった。



「……そう言えば、サロスがおらんのぉ」


「いくらエレトリアの街の治安が良いとは言え、街中でサロスを自分の手元から離すと言うのは、いささか不用心では無いのか?」



 ヴァシリオスと呼ばれたその老人は、周囲を見渡す様にしながら、独り言の様に話を続ける。



「大方、奥方様への罪滅ぼしに、何か土産でも買いに行かせたのであろう?」


「そういう雑事は、弟のタロスに任せておけば良いのじゃ」


「アゲロス殿も、命あっての物種じゃぞ、ほっほっほ」



 ヴァシリオス老は、ただでさえ皺の間に埋もれてしまい、どこにあるのか分からないぐらいのその小さな目を、さらに細くして笑う。



「……チッ」



 輿の中のアゲロスは、ヴァシリオスにたしなめられた事がよほど癪に触ったのか、舌打ちをした後、不機嫌な面持ちで、一度だけ御簾の奥で身じろぎをする。



其方そなたに言われんでも、そんな事は分かっておる」


では、サロスに頼らざるを得んのだよ」



 アゲロスは自分の不機嫌さを言葉に多少乗せて、ヴァシリオス老にぶつけてみるが、もちろんそんな事を気にする彼では無い。



「奥方様への土産をいくら値切ろうとも、己が命の値段とは釣り合うまいにのぉ」


「……ほっほっほっ」



 ヴァシリオスは更に被せる様に、アゲロスの行動を嘲笑あざわらう。



「ぐぬぬっ!」


「そんな事より、おぬし。臭いのぉ。くさい、臭いっ! 血の匂いかっ?」



 アゲロスは、輿の脇を歩く奴隷の一人に命じ、輿の中の香を取り換えさせる様だ。



「おぉ、そうか、そうか。血の匂いがしたか」



 ヴァシリオスはそんなアゲロスの言動を全く意に介さず、自分の両腕を交互に鼻の方へと持って行き、その匂いを嗅ぐ様な仕草を繰り返す。



「うむ」


「確かに臭いのぉ。先ほど小童こわっぱの腕を切り飛ばしたのじゃが、その時の返り血かのぉ」



 ヴァシリオスは、飄々と、物騒な事を言い始めた。



「そっ、そんな汚れた体で、ワシの前に現れるなっ!」



 これまでのイライラが募り、思わずアゲロスはこの老人を叱り飛ばしてしまう。



「……ほほぉ」


「あの洟垂れアゲロス坊ちゃんも、言う様になったのぉ」


「ただ、ワシがここに居らなんだら、今頃、その洟垂れの首、そこには付いておらなんだぞぉ」



 ヴァシリオスは抑揚の無い言葉で、アゲロスの置かれている危うさについて説明を始めた。



「大体、その小童も、はじめはワシを恨んで付いて来たのかと思っておったのだがのぉ」


「何しろ、数日ほど前に、果物屋の店先で盗みを働いた所を捕まえて、衛兵に引き渡した事があったからのぉ」



 少し思い出すのに時間でも掛かるのか、自分の顎に手を当て、少し遠い目をしながら過去の経緯を思い出そうとする。



「ほれみろ、そんな事をするからじゃ! 其方そなたが狙われておったのでは無いのか?」



 多少『いい気味だ』との気持ちの表れか、少し楽しそうに、ヴァシリオスの話を指摘するアゲロス。



「ワシも一瞬そう思ったのじゃがのぉ、間違いなく路地裏からお前の乗るこの輿を狙っておったわ」


「しかも、手練れであるサロスが列を離れて行くのを確認してから、小童はヌシを襲おうとしておったのじゃ」



「まぁ、一対一で向かい合っての戦いであれば、タロスでも遅れを取る事はあるまいが、路地裏からの奇襲で、しかも自身が逃げる事を考えない、一撃必殺の襲撃では、……まぁ、ヌシは助かるまいのぉ」



 ヴァシリオスのリアリティ溢れる話を聞いて一瞬背筋が寒くなったのか、アゲロスは首をすくめながら身震いをした。



「ふんっ。とっ、と言う事は、わざわざ『ワシを助けたのは自分だ』とでも言いに来たのか?」



 少し苛立ちを隠せない声色で、アゲロスが問い詰める。



「……まぁ、そう言う事になるかのぉ?」


「少なくとも、今は同じ『神』を信仰する身内では無いか。気にするな」


「今回の件は貸しにしておこう。ほっほっほ」



 彼は少し嫌味を含め、更にアゲロスの癪にさわる様な言い方をする。



「まあ、そんな事より、本日は様より、手紙を預かって来た」



 ヴァシリオスはおもむろに、腰に下げた袋の中からロールにまかれた羊皮紙を取り出すと、御簾みすの端からそっと輿の中に滑り込ませる。



「ヴァッ、ヴァシリオス。この様な大切なものをそのまま運ぶとは、おぬしの方こそ警戒が足りんのでは無いのか?」



 アゲロスは上げ足を取る様に、彼の行動をとがめた。



「なに、心配は無用じゃ。ワシが持つ事以上に安全な事はあるまい」


「まぁ、唯一、ワシのこの胸に傷を負わせた、鮮血帝が現れでもせん限りはのぉ」



 またもや、ヴァシリオスは遠い目をしながら、自分の過去の戦いを思い浮かべている様子だ。



「まぁ、よい。それでは、ヌシはしばらくこの街に滞在するのか?」


「もし、まだ宿が決まっていないのであれば、ワシの家に来い」


「それなりの歓待も用意せねばならんからな」



 ヴァシリオスが様からの使者と言う事でなれば、それはまた扱いが異なる。


 ここで彼にヘソを曲げられ、皇子様に『ある事、ない事』告げ口されては、たまったものでは無い。


 しかも、先ほどの話では、どうやら自分も誰かに狙われている様子。


 まぁ、心当たりを数えようにも、あまりにも多すぎて、数える気にもならない。


 しかも、頼りのサロスは別件の交渉に手間取っているのか、まだ帰ってくる様子が見受けられない。


 このまま、エレトリアの街中を進むうち、別の刺客に狙われんとも限らんと言う事だ。


 そう考えれば、ヴァシリオスのこの『武』は、非常に心強いと言える。



「まぁ、まぁ、長旅で疲れたであろう」


「今宵はワシの家でゆっくり休んで行かれるがよろしかろう」


「なんだったら、ワシのお気に入りの娼館からエレトリア一の美女を侍らせても良いぞ」



 アゲロスは、自身のテラテラと光った禿げ頭を摩りながら、ヴァシリオスに同行を求めた。



「うむ、そうしたいのは山々だが、早く戻らねば皇子様のご不興を買う恐れがある」


「ワシはこれで、お暇する事にしよう」


「それでは、確かに手紙は渡した」


「確証に何か神子様にお渡ししたいのだが……」



 そう言うと、ヴァシリオスはゆっくりと御簾の中に右の手のひらを入れて来る



 ――チッ。汚い手を入れて来るなっ!



 とは思いつつも、ヴァシリオスの手のひらに数枚の銀貨と、マロネイヤ家の家紋が入った小さな携帯用の香炉を握らせてやるアゲロス。


 彼はゆっくりと手を引き戻すと、その手に握らされた香炉を見る。



「ほほぉぉ。良い品じゃのぉ」


「さすが、マロネイヤ家では、良い物を使っておる」


「皇子様に復命した後は、ワシの『宝』にする事としよう」



 ヴァシリオスは、香炉を自分の腰に下げている袋に大事にしまうと、すぐに踵を返した。



「それでは、アゲロス殿、『決行の日』まで、お体を御労りくださいませ。」



 ヴァシリオスはそれだけを言い残し、雑踏の中に消えて行った。



「チッ、心にも無い事を……」



 アゲロスは、御簾ごしにヴァシリオスが立ち去ったのを確認すると、おもむろに羊皮紙を押し戴く。


 そして、丁寧に羊皮紙を開くと、その中に記載されている文言を一字一句漏らすまいと読みふけった。


 この時、アゲロスの額に浮かんだ脂汗は、決して初夏の陽気の所為だけでは無かった。

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