第57話 ミルカの憂鬱(後編)

「はぁ、ふぅ、はぁ……」



 静まりかえった神殿の廊下に、少女の荒い息遣いと、サンダルのパタパタと言う音が響き渡る。



「この神殿……無駄に広いのよね……」



 少女は先輩侍女の言いつけを守り、自身の仕える司教リーティア様の部屋まで着替えを取りに向かっている所だ。


 神殿では司教クラスになると、それぞれ個室が与えられる。


 ただ、彼女の仕える愛しの司教リーティア様は、まだ末席であるため、個室は個室でも建物の一番奥の部屋があてがわれていた。



「はぁ、ふぃ……リーティア……様も……早く……ご出世頂いて……もっと……近い部屋に……引っ越してほしいもの……ですねっ!」



 少し愚痴をこぼしながらも、自身の愛する司教様の部屋へと駆け込んで行くミルカ。



「はぁぁ……。さて、さて、まずは下着が必須で……ストラも汚れるかも知れないからひとセット」


「それから清潔な布を数枚っと……」


「……これで良し! さぁ急ぐわよっ!」



 彼女は先輩の言いつけ通りの『お召し物』を手早くまとめると、それを両手で胸に抱きかかえてから、飛び出す様に部屋を出る。


 何しろ、早く戻らないと、『一番の見せ場』を先輩だけに独り占めされてしまう恐れがあるのだ。


 何としてもそれだけは避けなければ!


 もしそんな事にでもなれば、あの先輩の事だ。繰り返し、繰り返し、何度も『自慢話』を聞かされる事になるだろう。



 ――それは、本当に不本意です。



 神殿の中には、神官を目指して修行を積んでいる神官見習いや、司教なども時折歩いているのだが、それらの者たちが寄せる怪訝な視線すら気に留める事なく、彼女は駆け足で元いた控えの間を目指す。



「はぁ、ふぅ、はぁ……」



 ようやく見えてきた控えの間の大きな扉の前では、先輩侍女のマリレナが、完全に左側の耳を扉に押し当て、両手で扉を支える様な変なポーズで中の様子を伺っていた。



 ◆◇◆◇◆◇



「……せっ先輩。ご指示頂いた『お召し物』を持ってきました!」



 私は肩で息をしながらも、急いで先輩に報告します。


 だけど、先輩は私の声を聞くなり、もんのすごい形相で私に詰め寄って来たのです。



「しーっ! 静かに! そんな大きな声を出したら、中に聞こえちゃうでしょ!」



 えぇぇぇ。私は、ちゃんと言いつけを守って、『お召し物』を持って来ただけなのにぃ。いきなり叱られてしまいました。


 完全に逆切れです。


 ――本当に不本意です。


 私は眉根にシワを寄せたまま、不満な表情で先輩に訴えかけます。



「ぶぅぅぅぅ!」



 真剣に中の状況を探っていた先輩ですが、私の不満げな表情に気付いたのか、少し声のトーンを下げながら、今の状況を説明してくれました。



「あぁ、怒鳴って悪かったわね、ミルカ………ご苦労様。とりあえず、それをそのまま持ってなさい」


「それから、まだ中の方は大きな動きは無いわ」


「まだまだ、これからよ。あなた良い時に帰って来たわ」



 そう言うと、共犯者を見つけた小悪党の様な笑顔で、私に笑いかけて来ます。


 こういう先輩の顔は、機嫌が良い証拠ですね。


 まぁ、先輩の機嫌が良いのは悪い事ではありませんから、それはそれで良しとしましょう。


 私も気を取り直して、先輩と向き合う様に扉の前に立ち、自分の右耳を扉に押し付ける様にして中の様子を探る事にしました。


 何か、中から二人の会話が聞こえては来るのですが、二人の声が小さいのか、何を言っているのか良くわかりません。


 私は更に扉に耳を押し付けたその時。



「ゴッツ!」「うぐっ!」


「痛ったぁぁい!」



 かなりヤバめの『音』と、リーティア様の悲鳴が聞こえて来ました。


 うぉぉぉぉ! これは皇子様の何某なにがしかの大技おおわざ炸裂さくれつしたのでしょう。


 と言う事は、リーティア様は『防戦一方』と言う事になるのでしょうか?


 状況を掴み切れない私は、先輩にアイコンタクトで問いかけます。


 すると、先輩は小声で私に教えてくれました。



「そっそうよ、そうなの」


「最初は誰でも痛いものなのっ」


「これは仕方の無い事なのよ……」



「それに、あの様子だと、皇子様も初めてなのね」


「私も迂闊だったわぁ……」


「もっと私が事前にご説明しておけば……はぁ。悔やまれるわぁ」



「それに、さすがに、いきなり『ゴッツ!』はまずいわよね。皇子様も一体何をされてらっしゃるのかしら?」


「もっと私のリーティア様を優しく扱ってもらいたいものだわ」


「本当にもぅ!」



 先輩は小さな声で、今の状況について自分自身に納得させる様に分析しながら、私にも説明をしてくれました。


 解説をしてくれるのは良いのですが、七割以上、良くわかりません。



「とっとりあえず、皇子様が『攻め』で、リーティア様が『受け』と言う事でしょうか? 先輩っ!」



 私はまず基本的な所を押さえるため、先輩に確認を取ります。



「そうね、こういう時は攻守交替が激しいものなのだけど、今回は二人とも『初心者』と言う事で、まずは皇子様が攻めていると言った所かしら」



 先輩からは『分からない事があれば、何でも私に聞きなさい』オーラが、ビシビシと放出されています。



 ――本当に不本意です。しかも不愉快です。



 しかし、私にはこの状況を把握する術が無いのですから、こんな先輩でも上手くおだてて、情報を収集するしか方法がありません。



「なるほど、そうですか」


「それで、この後の展開はどうなるんです?」



 更に先輩に尋ねます。



「えぇ? ……うぅぅん、一回失敗したからと言って、それで諦める事は無いわね」


「ちょっと休憩をはさんで、もう一回チャレンジするはずよ」



 なるほど。さすがは先輩。状況を把握していますね。


 ……すると。



「……はは、はっはは……」

「……ふっふふふ……」



 二人の笑い声が聞こえて来るではありませんか。



「ほら見なさい! これでさっきの失敗はチャラよ」


「リーティア様もお心が広いわ」


「皇子様の失敗を全く気にせず、皇子様を気遣いながらリードされている」


「やはり、あの若さで司教になられるお方は、何か違うと思っていたのよぉ」



 おぉ、本当にそういう意味なのかどうかは分かりませんが、先輩が言う様に、中の雰囲気はとても良い様に思われます。



「さぁ、ここからが第二ラウンド、もう、失敗は許され無いわっ!」


「やっぱり鍵は、リーティア様のリードって所ね」


「……ミルカっ! ここからが正念場よ。聞き逃さない様に気合入れなさいっ!」



 何が正念場なのかはわかりませんが、大事な局面である事は理解しました。


 そして、更に耳をそばだてて聞いていると。



「えへへぇ、かわいいでしょ?」


「うん、本当に可愛いねぇ」



 と言う事が聞こえて来ました。


 うん? 戦いの最中に『可愛い』とな? 一体どういう状況なのでしょう。ここは再び先輩に解説をお願いしましょう。



「リーティア様もやるわね」


「まずは自分から話しかける事で、皇子様をその気にさせる戦法ね」


「しかも、きっちり皇子様から『可愛い』と言う言葉を引き出しているわ。さすがリーティア様よ」



 先輩は得意げに解説してくれます。



 ほう、ほう。つまり、相手の油断を誘う為に、あえて、ふざけた話をしていると言う事ですね。


 それなら何となくわかります。



「ほら、ほら。早く、早く!」


「……」


「みっ! 皇子様っ! もぉぉ、突然はダメですよぉ!」


「はいっ、目をつむってますから、早くお願いしますねっ!」



 途中聞き取れない所がありましたが、リーティア様は何かをかしている様ですね。



「来たわ。ついに来たわよ!」


「リーティア様も気丈に振舞っておいでだけど、やっぱり少女ね。目を開けていられないのね」


「あぁ、私も分かる。分かるわぁ。実際にその時になって、目を開けていられる自信なんて無いものぉ……」



 先輩は頬を赤く染めながら、既に遠い目をしています。


 でも、戦いの最中に目を閉じるのは、非常に危険だと思う訳です。私はきっと目は閉じませんよ。



「あっ、あれ、リーティア。これ、ちょっと小さい!って言うか、ちょっとキツイ……かな?」


「あれ? 皇子様、大っきいから、入らないのかも?」



 うん? 更に解説が必要な事態が発生しました。そうです。こういう時の先輩です。


 この時の為に不本意ながらも先輩を上手くおだてて来たのですから。



「あれ? 先輩、先輩っ! 大丈夫ですか?」



 先輩の様子を見ると、先ほどの頬の赤みが顔全体に大きく広がって、まるでテルマリウムで湯につかりすぎて、のぼせた人の様になっています。



「はぁ、はぁ、はぁ……」



 先輩、呼吸が荒いですよ。大丈夫ですか?



「……みっ皇子様のは、そっそんな事にっ……あの体格からは、全く想像が出来なかったわ」


「まぁリーティア様は仕方の無い事よ。だってあの華奢きゃしゃな体格ですもの。それは仕方が無いわ」


「それに初めてなのよ。そう、初めてなの。そんなに上手く行くはずが無いのよ」


「あぁ、本当に私が付いていながら……」



 何やら先輩はとっても悔しそうです。


 更に続けて中から言葉が聞こえて来ます。



「あぁ、お手伝いしますね。えぃ、えぃ」


「皇子様、ちょっと小さいみたいですから、一度に入れようとすると、破けちゃうかも?」


「焦らないで、ゆっくり、ゆっくり頭を押し込んで下さい!」



 先輩の様子を見ると、白目になって、頭から湯気が上がって、固まっています。


 これはちょっとヤバい感じです。



「せっ先輩!?」



 私が声を掛けようとすると、突然、先輩は扉の前で跪くと、両手をクロスに掛けながら祈り始めたではありませんか?



「あぁぁ……」


「リーティア様、リーティア様、私のリーティア様、頑張ってーっ」


「そう、力を抜いて。力を抜いて! やればできます。やればできますよ!」


「太陽神様、あぁ、全能神様、リーティア様を、リーティア様をお見守りください!」



 なんだか良くわかりませんが、私も先輩と一緒に跪き、リーティア様の『勝利』を祈ります。



「……」



 更にしばらくすると、扉の奥から二人の嬉しそうな声が聞こえて来ました。



「あーやっと入った。いやぁちょっとピチピチだけど。何とか大丈夫だよ」


「あぁ、皇子様、本当に申し訳ありません。ちょっとサイズが小さかったから……」


「……やっぱ最高だよね。肌ざわりが違うもの!」


「皇子様に喜んでいただけて、本当にうれしいです!」



「……」



 その声を聞いた先輩は跪いた状態のまま、右手の握りこぶしを、ゆっくりと、そして、高々と掲げます。



「くぅぅっ……っっつ」


「やったわ。やったのよ。リーティア様は、ついにやったわ!」


「あぁ、皇子様、本当にありがとうございます」


「そして、太陽神、全能神様、私のリーティア様をお助け下さり、本当に、本当にありがとうございます」



 先輩は大粒の涙をこぼしながら、もう一度扉向こうに向かってお祈りを捧げます。


 何がなんだかわかりませんが、先輩の嬉しそうな様子を見ていると、私もなぜだか泣けてきます。


 私も先輩と同じ様に、扉の前で跪きながら、全能神様へお祈りを捧げました。



 ひとしきり、神への感謝の祈りを捧げた後、先輩は自分の涙を拭いながら私に告げます。



「あぁ、ミルカ。ありがとう」


リーティア様を一緒にお祝いしてくれて」



 何度も言いますが、先輩のリーティア様ではありませんよ。


 さっきはテンパってたんで、何度かスルーしましたが、もう見逃しません。



 ――本当に不本意です。



 先輩は珍しく申し訳無さそうに私にお願いしてきます。



「それで私、ちょっとがあるから、お手洗いに行ってくるわ」


「あなたは、もしリーティア様からお呼びがかかったら、そのお召し物を持って中に入りなさい」


「そして、中では、決してキョロキョロ見ちゃダメよ! 絶対にダメ」



 先輩には珍しく、かなりの念の押し様です。



「そして、私が戻って来た時に、中の状況がどうなっていたか、詳しく聞かせなさい」



 本当に、この人は何を言っているのでしょう? 完全に矛盾しています。


 でもこの顔の時の先輩は、後から何を言い出すか分かったものではありません。


 私はしぶしぶ、「はい」と返事をします。



「分かってくれて、助かるわ、ミルカ」


「すぐに戻るから、それじゃ後をたのんだ……」



 先輩がそこまで言いかけて、立ち上がろうとした時。私たちの後ろから声が掛かりました。



「あなた達は、そこで何をしているのかしら?」



 こっ、この声は……。

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