第6話 オデュッセウス

 わたしが警察署に居ると、父親が迎えに来た。


「心配したんだぞ」


 満面の笑みを浮かべ抱き着いてきた父親からは、アルコールの臭いがした。



※  ※  ※  ※



 家に帰るまではにこにこしていた父も、家に帰ると表情を一変させた。


「お前はどうして黙っていた!」


 煙草を吸いながら父が指す壁は、黒くすすけていた。


「あのときわたしは呼んだよ?」

「口答えするのか!?」


 父はわたしを突き飛ばすと片手で首を壁に固定した。

 気道が半分塞がれて、息が苦しかった。


 父は口から煙を吐きかけ、わたしがむせるのを見ると口角を吊り上げて下卑げびた笑いを見せた。


「口答えする奴は悪い奴だぞ」


 父親は煙草の火をわたしの顔に近づける。それは少しずつ眼に迫ってくる。


 嫌だ。嫌だ嫌だ。逃げたい。助けて。生きたい。

 


 だって。

 

 

 だってわたしは。





















(わたしはにんげんだ)

(ワタシハニンゲンダ)

私は人間だわたしは人間だ





 鼓動がドクンと跳ねた。

 同時に、“オデュッセウス”、彼が捨て猫に付けるはずだった名前が脳裏を過る。

 

 迫ってくる火がさっきより遅くなっていることに気付く。


(あれ?)

(アレ?)

あれ?あれ?


(とにかくにげないと)

(クビハウゴカセナイ)

敵は腰を落としているアドレナリンで集中力を高めます


(でもがっしりつかまれていて、てをはらいのけることができない)

(テトアシハウゴカスコトガデキル)

狙うなら無防備な金的一時的に痛覚を遮断します


 わたしは火傷に構わず手で煙草を払いのけ、同時に金的に一撃を見舞った。


「あがぉっ!」


 怯んだ隙に逃げる。


(このままにげよう)

(テアシガヒャクパーセントウゴカセルジョウタイ)

此のまま優位性を確保し続ける為にアドレナリンを再抽出したうえでもう一度全力で蹴るリミッターを外します


 手で押さえている金的に更なる一撃を加える。


 父は悶絶しゴロゴロと床を転がった。


(おとうさんいたそうだな)

(コノママデハジブンノアシガオレル)

何か武器になる物が必要だ集中力を高めて視野を広くします


 わたしは背中側から父の服をたくし上げ顔を塞いだ。瞬間的にではあるが視界を遮れる。


(いまはいたそうとかかんがえているばあいじゃない)

(アドレナリンガキレレバハシルコトハデキナイ)

長時間視力を奪える何かが欲しい思考力を加速させます


(なにがあるかな)

(コップ、フライパン、ホウチョウ)

包丁は攻撃力が高いが脚部保護のため相手に取られた時に不利になるエンドルフィンを放出します


 わたしはシンク下の扉を開けた。


「おまええええ! わかってるんだろうな! こんなことをして!」


 父は叫びながら、顔を塞いでいた服をめくった。


 まだ四つん這いになっている父の眼前には、わたしの手があった。


 その、手の先に握られているものがなにかを認識する前に、わたしはトリガーを引いた。


 ――プシュッ!


「ああああああ!」


 父は目を押えて床に転がる。


「ぐ! なにをしたんだ! ぐあああ!」

「キッチンハイターのトリガーを引いた」


 父は立ち上がり駆けだす。

 目を洗いに行くつもりだろう。


 わたしは足を引っかける。


 転んだ父の目にキッチンハイターを近づけ追撃を見舞う。


「あああ! 目が見えなくなっちまう! やめろ!」

「あ?」

「や、やめてくれ! やめてください!」


 わたしは父の首を思い切り踏みつけた。頸椎けいついのごりっという感触が気持ち悪かった。


「おい。父よ。貴様はわたしが許しをうたときになんと言ったか覚えているか?」


 ごぼごぼと口からよだれだけが垂れている。気持ち悪い。


「貴様は泣き叫ぶわたしにこう言った。うるさい黙れ殺されたいのか」

「……そ、それは、はあ、はあ、本当に、すま、なかった」

「そのときわたしは黙った」


 すると父も口をつぐんだ。だから許してくれと言うことなのだろう。


「言われたことを守り、黙った私に貴様はなにをしたか覚えているか?」


 覚えているはずはないだろうな。

 そう思いわたしはなにも言わずに、キッチンハイターのノズルを父の眼前に近づける。


「すいませんすいませんすいません……!」


 ぷるぷると震えながら、消え入るような声で念仏の様に唱える。

 わたしは父のまぶたをこじ開けてトリガーを引いた。


「ぎゃっ!」


 スッキリしないものだなと思った。


 なぜこの親は、こんな胸糞の悪いことを嬉々として行っていたのだろうか。

 いわゆる、復讐を成したはずだ。


 今までわたしを虐げてきたことへの。また、恐らくマノさんを誘拐犯に仕立て上げたであろうことへの。


 なぜこれほどモヤモヤする様なことを、こいつは今までやってこられたのだろう。

 それは4つに切り別れた思考回路を駆使してもわからなかったし、あの書斎に在った本のどれにも書かれていないものだった。

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